2019.12.16 『ぼくはイェローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んだ
―平成おうなつれづれ草(11)―

鎌倉矩子 (元大学教員)

ブレイディみかこ著『ぼくはイェローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社、2019)を読んだ。新潮社の月刊情報誌『波』に連載されていたものだが、最初の16回分が単行本化されたと知り、もう一度読みたくなったのである。
本書は私に、私の知らなかった英国を運んできた。それは、「えっ、今の英国はそうなっているの!」という驚きを私にもたらした。
舞台となるブライトンは、白人労働者が多いまちである。「白人労働者が多い」とは、「貧しい与太者が多い」の代名詞であるらしい。しかも、アフリカからの、中東からの、東欧その他からの移民が、それに混じって暮らしている。公営住宅を購入・改装してお洒落に暮らすミドルクラスも混じるようになった。LGBTが多く、ママが二人の家庭、パパが二人の家庭の子も稀ではない。
多様性の見本市のようなところ、それがブライトンだ。その中で息子が育ち・育てられていく様子が、たくさんのエピソードによって綴られている。話は中学校に入るときに始まる。

「元・底辺中学校」という選択
英国ではこどもが通う小中学校を、公立校であっても保護者が選ぶのだという。
みかこさんの夫はアイルランド人である。二人はともにカトリック家庭の出身であるところから、息子の小学校にはカトリック校を選んだ。そこは市のランキングで常にトップを占める名門校で、富裕な家庭の子が多く、みんなが仲良しで、息子はそこで幸せに過ごした。そのまま中学もカトリック系へ進むと誰もが思っていたが、ある日近隣の公立中学校から見学会への招待状が届いたことで、思わぬなりゆきとなる。
その中学校は、以前は「底辺中学校」にランクされていたが、いまは中ほどに上昇しているので、みかこさんが勝手に「元・底辺中学校」と呼んでいるところだ。見学会に行ってみると、校長も教師もフレンドリーで教育熱心。音楽教室の装備もイケているし、生徒たちは楽しそうだ。カトリック中学の見学で、教師が怠けものを見放している光景を見たことがあるみかこさんは、「元・底辺中学校」をすっかり気に入ってしまうが、しかし息子に、そこに行けとは言わなかった。
夫は、息子が本当にそこに行きたければ行っていいが、俺は反対だと言った。理由の第一は、「あそこは白人だらけだから(お前はそうではない)」。この裏には、むしろ中富裕層社会のほうが人種的多様性に富んでおり、ポリティカル・コレクトネス(=弱者の不当差別をしない)が守られているという事情がある。第二は、「誰もが行きたがるカトリック校への入学特権をわざわざ捨てることはない(わざわざ階級を下がることはない)」である。
最後に息子が、「元・底辺中学校」を選んだ。

子どもとレイシズム(人種差別)
中学校に通い始めた息子は、はじめてレイシズムの現実を味わう。
ある日は街で、知らない車が彼の前に止まり、男がわざわざ窓をあけて、「ファッキン・チンク!」の言葉を投げつけてくる(チンクは中国系東洋人種に対する侮蔑言葉)。
ある日は学校で、一緒にミュージカルの練習をしている友人ダニエルが、黒人の女の子に侮蔑的な陰口を叩くのを聞いてしまう。「ブラックのくせにダンスが下手なジャングルのモンキー。バナナをやったら踊るかも」と笑っていたのだ。
帰宅してからも憤りがおさまらない息子に、みかこさんがかける言葉が印象深い。
「無知なんだよ。誰かがそう言っているのを聞いて、大人はそういうことを言うんだと思って真似しているだけ」
「つまり、バカなの?」
「いや、頭が悪いってことと無知ってことは違う。知らないことは、知るときが来れば、その人は無知でなくなる」
ダニエルは頑固で、二人はなかなか仲直りできない。変声期を迎えたダニエルを息子が助けようとしても、「そんな春巻きを喉につまらせたような東洋人の声は嫌だ」と言い放つ始末だ。
そういう二人の距離が一挙に縮まるシーンも印象的だ。ミュージカル本番の日、ダニエルは舞台で失声してしまう。危機を救ったのは息子だ。とっさに舞台裏から大声で歌い、ダニエルは口パクでその場をしのいだ。舞台を終えたダニエルは息子に「サンクス」と言い、携帯番号をたずねる。「お前教えたのか?」と聞く父親に息子は答える。
「うん。教えない理由はないから。それに無知な人には、知らせなきゃいけないことがたくさんある」

貧しい友だち
息子のバンド仲間のティムは貧しい。「どんな夏休みだった?」と聞いたら、「ずっとお腹が空いていた」と答えたほどに貧しい。母親はシングルマザーで、一家は公営の低所得者用団地に住んでいる。ティムは自分の制服が擦り切れ、兄のお古を着ているが、それを仲間にからかわれている。
息子とみかこさんは何とかしたいと思う。そこで、みかこさんが関わっている「制服リサイクル活動」の中の一着を彼に融通しようと決める。でも、「あげる」と言えばティムは傷つくだろう。妙案が浮かばないうちにティムが家にやって来る。
息子が紙袋を差し出して「これ持って帰る?」と言ったとき、ティムは一度は「いいの?」と応じたが、やはり「お金払うよ。こんどくるとき持ってくる」などと言い始め、三人の会話はもつれてしまう。ややあってティムと息子との間に交わされた会話が深い。
「でもどうして僕にくれるの?」
「友だちだから。君は僕の友達だからだよ」。
ティムは「サンクス」と言い、息子とハイタッチをして玄関を出て行った。団地へと坂道を上がって行き、立ち止まり、右手で両目をこする仕草をするのが見えた、とみかこさんは書いている。

エンパシーの時代
「ライフ・スキル教育」という教科があるそうだ。息子はこの教科が好きで成績もよい。期末試験には「エンパシーとは何か」という問題が出た(エンパシーは通常、「感情移入」「共感的理解」などと邦訳される)。
難しいなあ、という父親に息子は言った。
「簡単だよ。“自分で誰かの靴をはいてみること”(=“他人の立場に立ってみること”)って僕は書いた」
息子によれば、授業で先生が、これからは“エンパシーの時代”だと言って、ホワイトボードに大書したのだという。息子は言う。「EU離脱や、テロリズムの問題や、いろんな混乱を僕らが乗り越えていくには、自分と立場の違う人や、自分と違う意見を持っている人の気持ちを想像してみることが大事なんだって」
みかこさんは考える。シンパシーsympathyとはある種の感情(たとえば同情)のことだが、エンパシーempathyとは、もし自分がその人だったらと想像してみる力、つまり知的作業のことであると(下線筆者)。ありとあらゆる分断と対立が深刻化しているこの英国で、11歳の子どもが、いまエンパシーについて学んでいるのは、特筆に値することであると。
私の心に、最も深く刻まれた箇所である。

ぼくはたぶんヘテロ(異性愛者)
現在の英国の中学では、「ライフ・スキル」の授業の一環として、LGBTQのことが教えられる(Qはクエスチョニング)。ダニエルの父親は激怒するが、間に合いはしない。
その授業があった日、帰り道で子どもたちが、自分の性的志向についてあっけらかんと語り合う場面がおもしろい。息子とティムは「ぼくはたぶんヘテロ(異性愛者)だ」と言い、ダニエルは「僕はヘテロ以外にはありえない」とむきになる。しかしオリバーは「自分はまだわからない(Q)」と言った。彼は仲間うちでも最もマッチョな少年だというのに。そんなオリバーにダニエルはショックを受けるが、やがてこう言う。「時間をかけて決めればいいよ」
ダニエルはこれまで、差別発言が激しいので、だんだん仲間から疎んじられ、逆にいじめられるようになっていた。しかし彼は彼なりに、少しずつ変わっているようなのだ。

ぼくはどっちかというとグリーン
息子は中学2年目の半ばにさしかかった。2月、ブライトンでは、学生の多くが地球温暖化対策を訴えるデモに参加した。中学校は、優秀校の多くが子どもたちの参加を許したが、「元・底辺中学校」は許さなかった。
息子は参加できない悔しさを「仲間外れにされている感じ」だと嘆き、みかこさんは「そういう気分をマージナライズド(周縁化されている)って呼ぶんだよ」と教える。
息子はさっそくこの言葉を折り込んで自作のラップを歌い上げた。「……♪気分はマージナライズド/♪感じてるんだマージナライズド/♪いつもそうさマージナライズド」。
「ははははは」とみかこさんが笑い、「やっぱ、バンド名はグリーン・イディオット(緑のバカ)がいいんじゃない?」と言ったとき、息子にある連想が走った。
それは彼が中学校に入学したころ、ノートの端に書きつけた「ぼくはイェローでホワイトで、ちょっとブルー」の落書きである。それは母親のエッセイのタイトルにもなった。
「あれさ。いま考えると、ちょっと暗いよね。あの頃は新しい学校に不安があったし、レイシズムみたいなことも経験して陰気な気持ちになっていた。でも、もうそんなことないもん」
「ブルーじゃなくなったの」
「いまはどっちかっていうとグリーン。グリーンには『未熟』とか『経験がたりない』とかっていう意味があるでしょ。今僕はそのカラーだと思う」。
まったく子どもというやつは止まらない。ずんずん進んで変わり続ける。と、みかこさんは書く。
たしかに、たった1年半の間に、少年たちはずいぶん変わったのだ。

いまこの時代に
分断、貧困、対立、憎悪。これらは決して英国だけの現象ではない。ここ日本にも、すでにそれらは存在する。しかも年々悪化していると思われ、私はときどき、暗澹たる気持ちになる。
しかし本書は、「希望」という言葉を私に思い出させてくれた。たとえ厳しい環境であっても、たくましく、健やかに、前進する人が育ちつつあると知るとき、こころに灯るのは希望である。私が本書に惹きつけられた理由は、まさにこの点にある。
本書は息子の成長記録であるが、しかし同時に母親みかこさんの生き方の記録でもある。この純でやさしく、力に満ちた少年は、みかこさんの作品だとさえ思えるのだ。
みかこさんって何者? そう思う人は多いに違いない。1965年福岡市生まれ。保育士・ライター・コラムニスト。音楽好きが高じてアルバイトと渡英をくり返し、1996年よりブライトン在住、と本書カバー裏にはある。みかこさんがいかにしてみかこさんになったか。これについては、彼女のもうひとつの著書『子どもたちの階級闘争―ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017)を併せ読むことをおすすめしたい。
(2019/12/8記)

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