2019.12.19 ライク外務大臣粛清の全容(3)
―ライク裁判と処刑(上)

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

1940年代末から50年代初めにかけて、中・東欧の保安警察を指揮・監視していたのは、ソ連国家保安省の中・東欧責任者であるベルキンであり、彼の上司は国家保安省大臣アバクモフである。他方、ハンガリーのラーコシはアバクモフ-ベルキンのラインとは別に、スターリンとの直接的な関係を保持していた。ソ連国家保安省は各国に秘密諜報部員を確保しており、諜報部員を通して各国共産党幹部の動静を把握していた。
ラーコシは自らの動静がソ連国家保安省に通報されていることを知っていたが、通報者を特定することはできなかった。このような状況のなかで、スターリンとの直接的な関係を築くことが自らの地位を安定化させることを直感していた。可能な限りスターリンの意向に従うことで、スターリンの粛清対象から逃れることができると考えていた。他方、ハンガリーの保安警察や国防省のなかで、誰がソ連に通じている秘密諜報部員であるかを探っていた。
ライク逮捕はスターリンの反米反ユーゴスラヴィア路線を満足させただけではない。ラーコシはこれを契機に、ソ連国家保安省に通じる諜報部員の粛清を意図した。それはまた、ソ連国内におけるスターリン-ベリヤと、アバクモフ-ベルキンの路線争いにも関係していた。とくにユーゴスラヴィアにたいする路線について、ソ連指導部のなかで対立関係が続いていた。

尋問調書
1949年5月に逮捕されたフィールド、スーニィ、ライクの調書はロシア語に翻訳され、ベルキンに届けられた。矛盾に満ちた「自白」調書を読み、ベルキンは事件の信ぴょう性に疑念が生じると考えた。自白の一貫性を得るために、ベルキンの部下とハンガリー保安警察幹部がペアになって、再尋問を行うことになった。一部はアンドラーシ通りの本部で行われたが、主要な尋問はウトヴォシュ通りの秘密の館で行われた。尋問の調書に、ロシア人たちの署名は残されなかった。ロシア側の直接関与の証拠が残らないように、ベルキンは尋問記録を残さなかった。
他方、ベルキンは定期的にラーコシと協議を続けていたが、ラーコシはライクがラーコシ殺害を計画していたというシナリオを譲らなかった。そのシナリオにもとづいて、国防省幹部が軍事クーデターを準備していたと主張し、パルフィ・ジョルジュ(Pálffy György)国防省副大臣、ネーメト・デジュー(Németh Dezső)大佐、コロンディ・ベーラ(Korondy Béla)警察大佐、ホルヴァート・オットー(Horváth Ottó)警察中尉の4名を逮捕した。パルフィはソ連国家保安省諜報部員であり、ラーコシは諜報部員を消すことで自らの地位の安定化が得られると考えたのである。
ライクとパルフィの処刑を決めてから、ラーコシがすべての手順を指示するようになった。ライク裁判が始まる直前の1949年8月末(あるいは9月初め)、ラーコシはライク告訴文書(ロシア語翻訳)を携えてスターリンを訪問し、最終的な了解を求めた。この数日前に、ファルカシュ・ヴラジミールはこのロシア語文書をルーマニアのソ連大使館経由で、ソ連共産党側に手渡しする仕事を与えられた。嵐で運行を見合わせていたMALÉV(ハンガリー航空)定期便を党の指示で無理やり飛ばせ、ソ連共産党中央委員でスターリンの秘書官であるポスクレビシェフ宛の文書がブカレスト空港で手渡しされた。ベルキンを経由することなく、スターリンへ直接手渡しする方法を選択したのは、手柄を独り占めにし、スターリンの信頼を堅固なものにしたいという欲求からだったと思われる。
他方、ベルキンはハンガリー国家保安警察長官ピーテル・ガーボルの署名を付して、アバクモフ・ソ連国家保安省大臣宛に報告書を送った。この報告書はピーテル・ガーボルが書いたものではなく、副長官のスーチ・エルヌーがベルキンの指示にもとづいて書いたものだった。「ラーコシがユーゴスラヴィアにたいする挑発行動を準備している」という内容だった。スーチ・エルヌーはハンガリー国家保安警察内のソ連国家保安省の諜報部員であり、ベルキンの指示にしたがってベルキンの上司であるアバクモフに報告を送ったのである。後にスーチ・エルヌーの素性がラーコシにばれた時点(1950年秋)で、ラーコシはスーチを逮捕・拷問死させた。
さらに、ハンガリー国家保安省幹部の粛清が進められた。アバクモフ-ベルキン失脚後に、スーチ副長官が準備し、ピーテル・ガーボルが署名した1949年の報告書がベリヤからラーコシに返送され、ハンガリーのベリヤと呼ばれたピーテル・ガーボルが逮捕された(1953年1月)。スターリンの死去直前の出来事であった。ピーテル・ガーボルは獄中でも手錠をはめられたままだった。手錠を外されたのは、スターリンの死去から数か月後であるが、ハンガリー動乱が終わるまで釈放されることはなかった。

ライク裁判
ライク裁判が始まる前、ラーコシは自らの執務室に2本の直通電話を引かせた。1本はベルキンとピーテル・ガーボルへの回線であり、もう1本は検事・裁判長への回線である。裁判の様子は執務室で聴けるように準備され、ラーコシは直通回線を通して、逐一指示を出した。1956年7月10日付けのピーテル・ガーボルの上申書によれば、ラーコシは裁判長、検事、弁護団が論じる筋書きをすべて用意したという。誰の弁護をどの弁護士が担当するかまで、ピーテル・ガーボルに指示した。
判決内容はラーコシが決めた。判決内容を記した紙切れが裁判長に渡された。当時の手順として、主犯の判決内容はラーコシが、それ以外の人物への判決内容はピーテル・ガーボル等の保安警察幹部が決めた。1949年9月24日、ライク・ラースロー、スーニィ・ティボール、サライ・アンドラーシュの3名に死刑の判決が下され、1949年10月15日に絞首刑が執行された。
これと並行して、軍事・警察ラインの逮捕者の裁判が行われた。表の裁判は政治的クーデター、裏の裁判は軍事的クーデターを裁くというシナリオである。軍事法廷で起訴されたパルフィ・ジョルジュ国防省副大臣、ネーメト・デジュー大佐、コロンディ・ベーラ警察大佐、ホルヴァート・オットー警察中尉の4名は10月10日に死刑判決を受け、10月24日に処刑された(処刑現場には当時の防衛大臣ファルカシュ・ミハーイとゲルー・エルヌーが立ち会った)。
ラーコシは裁判が終わった後、スターリンに死刑執行の許可を求めた。これにたいして、スターリンから「死刑執行の必要はない」との回答電報が送られてきた。しかし、その後、第2電が到着し、死刑執行が容認された。この二つの電報が往来した間に、ラーコシがスターリンに死刑執行の必要性を訴えたと考えるのが自然である。生かしておいてラーコシに有利になることは何もないからである。ナジ執行にたいする、カーダールの論理も同じものだっただろう。権力者の普遍的な論理である。

死刑執行状況
ライク他2名の死刑執行に際して、ハンガリー保安警察幹部ならびに死刑囚の尋問に加わった取調官全員が、コンティ通り(現在のブダペスト市VIII区トルナイ・ラヨシュ通り)にあった保安警察の監獄に招集された。ファルカシュ・ミハーイとカーダール・ヤーノシュも立ち会った。彼らは建物内の部屋から中庭に設置された絞首台を見下ろすことになった。絞首台までスーチ・エルヌーが死刑囚を誘導した。
死刑執行後、スーチは保安警察幹部たちが待つ部屋に戻り、執行状況を報告した。死刑執行を告げた時にライクとスーニィは何も望まなかったが、サライはコニャック1杯を所望しそれを呷(あお)った。執行に際して、ライクは共産党とソ連を讃えたが、スーニィは何も語らなかった。しかし、サライは「俺たちを騙しやがって!」と叫んだという。処刑された遺骸は丁重に埋葬されることなく、トラックでブダペストから30kmほど離れた町外れの森に運ばれ、そこに掘られた穴に無造作に埋められた。再埋葬のために1956年9月に掘り返されるまで、そのまま放置された。
スーチの報告が終わり、集まった保安警察幹部等は簡単な飲み物とサンドウィッチでそれまでの労を互いにねぎらった。さらに、夕方にはピーテル・ガーボル主催のドナウ・クルージングがあり、ベルキンを主賓としたソ連国家保安省の代表者、ハンガリー保安警察幹部、取調官が参加した。

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