2019.12.20 ライク外務大臣粛清の全容(3)
―ライク裁判と処刑(下)

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

共産主義ファシズム:スターリン主義
ライク処刑の報奨を兼ねて、翌11月末に、ハンガリー勤労者党(ハンガリー共産党)はガヤテトゥー(ハンガリー北東部のマトラ山)にてコミンフォルム会議を主催する栄誉を得た。ユーゴスラヴィア問題が最大のテーマで、ルーマニアのゲオロギウ・デジが「ユーゴスラヴィアの殺人者とスパイ権力」と題する主報告を行った。また、イタリア共産党トリアッティは国際労働者運動のイデオロギー的、政治的、組織的な統一性の重要性を強調する報告を行った。チェコスロヴァキアからは、後に粛清対象となるスランスキー書記長も参加し登壇した。ハンガリーの代表団は、ラーコシ、ゲルー、レーヴァイ、カーダールで構成された。
12月21日、ハンガリーではスターリン生誕70年の祝賀会が、オペラハウスで盛大に挙行された。この忌まわしい1949年が終わろうとする暮れに、閣僚会議布告が発せられ、1950年1月1日より、ハンガリー国家保安警察は内務省の管轄から離れ、独立した組織として機能することになった。保安警察本部のあるアンドラーシ通りはスターリン通りに、アルパード橋はスターリン橋に改名された。
ライク処刑はスターリン主義権力の狂気の始まりに過ぎなかった。国家や党を超えた独立権力となった保安警察は、その後の2年間に、多くの人々を拘束し虐殺することになった。「貧すれば鈍する」。やがて、保安警察幹部相互も疑心暗鬼になり、ハンガリーは狂気と化した権力の断末魔を見るのである。
ライク処刑で党内粛清に自信を深めたベルキンはブルガリア副首相コストフを、「アメリカのスパイ、ユーゴスラヴィアの手先」として処刑し(1949年12月)、1951年初頭から翌年末にかけて、チェコスロヴァキア共産党書記長スランスキーを標的にした粛清事件を主導した。これが国際的な注目を浴びたスランスキー裁判である。シオニストの手先、ティトー主義者、トロツキー主義者の汚名を着せられ被告となった14名の共産党幹部と政府高官のうち、11名に死刑、3名に終身刑が言い渡された。終身刑を受けたアルトゥール・ロンドン(A.ロンドン)は釈放後に自らの体験を綴った長文の手記(邦訳『告白』サイマル出版会、1972年)を発表し、フランスではそれにもとづく映画(日本上映タイトル「告白」、1969年)が制作された。
この事件の最終標的はスランスキーであり、その筋書きを成立させるために、スランスキーと仕事の上で関係があった政府高官を次々と拘束し、スランスキー逮捕のシナリオが秘密裏に準備された。1951年初頭から春にかけて、A.ロンドンを初めとする政府高官が逮捕・監禁されたが、そのほとんどはユダヤ系でスペイン内戦に参加した筋金入りの共産党員であった。あからさまに反ユダヤ主義が打ち出され、スペイン内戦に参戦した者はソ連の指導に従わなかったトロツキー主義者であり、ノエル・フィールドやダレスと関係があった者はアメリカ帝国主義の手先であり、ナチの強制収容所から生きて戻ってきた者はゲシュタポの手先であり、フランスやイギリスの収容所から戻ってきた者はそれぞれの国の諜報員だと断定された。
フランスを中心に活動し、スペイン内戦にも参加した経歴のあるA.ロンドンは、肺疾患の治療のためにフィールドの助けを借りたことがあり、それを口実に「トロツキー主義者でアメリカ帝国主義のスパイ」という役割を与えられた。フィールドがハンガリーの取調べで記した中・東欧の知人リストが、明々白々の証拠にされた。
しかし、A.ロンドンの手記にあるように、逮捕・拘束された者のほとんどは、第二次大戦下で全体主義と闘い、スペイン内戦に参加した純粋な社会主義者・共産主義者であった。彼らの英雄的な経歴も知らない若い取調官に拷問を受けながら「自白」調書をとられ、自らの「有罪」を告白しなければならなかった。A.ロンドンを除き、すべての逮捕者が「自白」したところで、スパイ事件の首謀者としてスランスキーが逮捕された(1951年9月)。それから1年かけたシナリオが完成し、公開裁判(1952年11月20日)で死刑判決が下され、12月3日に11名の絞首刑が執行された。実に手の込んだ大がかりな事件であった。

チェコスロヴァキアの事情
1951年初頭のA. ロンドン逮捕からスランスキー逮捕(1951年9月)までかなりの時間が経過しているだけでなく、スランスキー逮捕から裁判開始(1952年11月)までさらに1年以上の時間を要した。ライク事件に次ぐスランスキー事件を指揮したアバクモフ内務大臣がスランスキー逮捕前に失脚し(1951年7月)、アバクモフの配下で中東欧の責任者だったベルキンがスランスキー逮捕の翌月(1951年10月)に逮捕された。このソ連指導部内部における権力闘争が、スランスキー事件の処理を大幅に遅らせたと考えられる。権力闘争だけでなく、事件処理の落としどころをめぐって、意見の対立があったと推測される。
中・東欧諸国における粛清事件は、当該国の権力を超えた存在(ソ連共産党と国家保安省)が仕組んだもので、当該国のソ連追随者を使い、当該国の指導的人物に狙いを定めて粛清し、衛星国にソ連への従属を強いたものである。こうした粛清事件にかかわった者は、スターリンの死(1953年3月)やフルシチョフ「秘密報告」(1956年2月)を契機に告発・逮捕され、逆にそれまで逮捕・監禁された者は釈放され復権されるというプロセスを踏んだ。ハンガリーではこのような復権運動が動乱へと発展していったが、チェコスロヴァキアでは、A.ロンドンなどの終身刑を受けた者の釈放が遅れただけでなく、処刑されたスランスキー等の復権は拒否された。ハンガリーやポーランドに比べ、粛清事件のフレームアップに遅れをとったチェコスロヴァキアにたいして、ソ連側が完全な主導権を握って粛清を展開したためである。スターリンの威光で幹部に抜擢された者たちが共産党幹部に居座ったために、「秘密報告」以降もチェコスロヴァキア共産党の自浄作用が働かず、1968年の「プラハの春」を迎えるまで、スランスキー事件の犠牲者の復権は実現されなかった。

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