2020.01.09 記憶と反省と想像 (6)  朴正熙박정희
   韓国通信NO626

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

日本語読みで「ボクセイキ」、正式には「パクチョンヒ」。1917年生まれ、創氏改名による日本名は高木正雄である。大邱(テグ)師範学校卒業後、満州国陸軍士官学校を経て日本の陸軍士官学校57期生として教育を受けた。
私の叔父が朴正熙の士官学校時代の教官として大統領から招待をうけ韓国に行ったことがある。
大統領から招待されるなんて、「叔父さんスゴーイ!」と僕は目を丸くした。朴正熙は日本の軍人だった。
その後の経歴は省くが、1948年 麗水・順天反乱事件に南朝鮮労働党員として反乱軍に加わり終身刑判決を受けたが、仲間の情報を当局に提供して免罪釈放された経歴がある。
1961年の5.16軍事クーデターで最高会議議長に就任すると、直ちに反共法を公布。日本との国交正常化交渉に意欲を示し、1963年に第5代大統領に就任した。
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             <クーデター直後の朴正熙/左端>
腹心の部下、中央情報部(KCIA)長の金載圭によって射殺されるまで16年間軍事政権の大統領(5代~9代)として君臨し続けた。

<朴正熙大統領の記憶>
朴正熙は朴槿恵前大統領の父親として知られるほかは「過去の人」になりつつある。朴正熙の評価はさまざまだが、私の記憶にあるイメージは不正選挙、狂信的な反共主義、事件の捏造、中央情報部(KCIA)による恐怖政治を行った独裁者以外の何者でもない。
人民革命党事件(1964)、東ベルリン事件(1967)、統一革命党事件(1968)、金大中拉致事件(1973)、民青学連事件(1974)、第二次人民革命党事件(1974)、学園浸透スパイ団事件(1975)など数々の事件を捏造し、民主化を求める運動もことごとく力で押さえ込んだ。
日本のかつての治安維持法下の憲兵・特高とそっくりな中央情報部が人々を苦しめた。アメリカに促されて成立した日韓条約による経済協力金が、朴正熙政権を支えた。日本の関与が疑われる金大中拉致事件もいまだに真相は明らかでない。朴政権はアメリカの極東戦略に組み込まれた親日、対米従属政権だった。
突然訪れた朴正熙大統領の死。だが、その後の5.18光州事件によって民主化運動は挫折を余儀なくされた。後継の全斗愌政権が目指したのは民主化勢力の一掃、不満分子の再教育、労働運動への弾圧、報道干渉、日米との関係強化だった。中曽根内閣とレーガン大統領は新軍部政権を全面的に支持、全斗煥は国賓として来日(1984)、中曽根首相は40億ドルの借款を約束した。

<ああ光州よ>
文在寅大統領は政権発足直後の5.18光州事件記念演説で、「文在寅政府は光州民主化運動の延長線上に立っている」「新政府は5.18民主化運動とローソク革命の精神を仰ぎ、民主主義を完全に復元する。光州の英霊たちが心安らかに休めるよう 成熟した民主主義の花を咲かせよう」と述べ、3.1独立運動、4.19学生革命とともに光州事件を憲法に盛り込むことを国民に約束し、軍事政権時代の反省と清算にもとづき歴史を前に進める決意を語った。
光州事件は6年間に及ぶ全斗愌軍事独裁を生んだが、それは朴正熙から始まった長い軍事政権の終わりを告げる序曲でもあった。

<5.18光州事件>
1980年5月18日、全羅南道光州に起きた光州事件の映像が流れると全世界に戦慄が走った。
容赦なく打ち据えられ、連行される学生・市民たち、血まみれのまま路上にうずくまる多数の市民たちが映し出された。圧倒的な軍隊に向って抵抗を続ける人たち。
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人間がこれほどにも残虐になれるのか! 「兵士たちは薬物を飲まされたに違いない」と在日の韓国語の老先生は涙した。
事件は朴正熙大統領の死後、労働争議が多発、民主化を求める運動が高まるなかで起きた。当時、学生運動、在野運動が盛んな光州では市民と一体となった民主化運動が展開されていた。
全斗煥少将は光州に空挺団を派遣した。光州を「みせしめ」にして反政府勢力を押さえつける目的で、金大中を扇動者として逮捕した。鎮圧部隊は妊婦、子供まで逮捕、連行、そして殺傷した。
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光州事件については多くの写真、映像が残され、出版物も多い。ドラマ・映画作品としては『砂時計』(1995)、映画『光州事件』(2007)、『タクシー運転手- 約束は海を越えて』(2017年)などがある。事件を物語る数字として、鎮圧部隊3万人、市民の死者154人、行方不明者70人が記録されている。全斗煥の軍事行動は事前に在韓米軍の了解の下で行われた。

<日本人にとって光州事件とは>
事件から11年後の1991年に初めて光州を旅した。宿泊した市内を見下ろすホテルで光州事件の夢を見た。その8年後、旅の途中で出会った文学者青柳優子氏に望月洞(マンウォルドン)にある市民墓地を案内してもらった。2005年には小説『太白山脈』の舞台となった筏橋(ポルギョ)をまわり、5.18式典当日に光州を訪れたことも忘れられない。その日、市内には、『ニムのための行進曲』が流れ、光州は悲しみに包まれた。
『ニムのための行進曲』は光州事件の翌年、道庁で銃撃戦のすえ亡くなった若者を追悼する集まりの中から生まれた。以後、今日まで民衆抵抗の歌として歌われてきた。
歌に感動し、これを『君に捧げる行進曲』と翻訳し直し、作曲家の安藤久義氏にピアノ曲にしてもらい発表会で演奏したことがある。この曲に「入れ込んだ」理由はただひとつ、光州事件の悲劇を心に刻んでおきたいという思い、それも悲劇として刻むだけではなく、民主化のために闘った韓国の民衆の心を自分のものにしたいという思いからだった。


     君に捧げる行進曲       詞 白基玩(ペク・キワン)

         愛も名誉も名も 残さず
         貫き通した 熱い約束
         君は 斃(たお)れ旗はたなびく
         明日を信じて ともに進もう

         歳月は流れても 山河は忘れない
         君を思う熱い心
         君の後に ともに進もう
         君の後に ともに進もう !


 2016年に起きたローソクデモの源流をたずね、東学農民戦争から始まり、3.1独立運動、5.18光州事件にいたる韓国の歴史をたどった。軍事政権は悪あがきを続けたが、民衆の力に抗しきれず1987年6月29日、「民主化宣言」を発表して崩壊した。
 多くの犠牲を払った末に掴みとった民主主義はタナボタ式民主主義とは違う。そのタナボタ民主主義が皮を剥ぐように奪われてきたことに気づかない日本人が多い。
民主主義を求め地底から這いあがってきた韓国社会を、傷ついた「上り龍」に喩えるならば日本は何に喩えるべきか。四半世紀の同時期、日韓がたどった道はこんなにも違う。

 光州は民主化運動の聖地となった感がある。民主主義は「闘いとるもの。闘い守るもの」。学ぶことが実に多い。だが、「民主化宣言」以降も韓国の苦難の道は続く。未完の民主化運動。祖国は分断されたままだ。



映画『1987、ある闘いの真実』は民主化闘争のなかでKCIAによる拷問死を遂げた学生をテーマにした作品で、韓国では公開後700万人以上が見た話題作だ。

『君に捧げる行進曲』は次のサイトから見ることができます。2106年12月10日 60万人が集まったローソクデモ光化門広場の歌声です。
https://www.youtube.com/watch?v=j3ezBIj1mJw
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