2020.02.03  私が会った忘れ得ぬ人々(17)
          伊東正義さん――国民の代表たる者は己を律するに厳しくないと

横田 喬 (ジャーナリスト)

 安倍首相ら一統の「桜を見る会」がスキャンダル化している。共産党議員が資料要求すると、内閣府がすぐさま招待者名簿を廃棄処分に。詐欺まがいの商法で倒産したジャパンライフの会長やら反社会的勢力の誰それまで招待・・・。公私混同の大盤振る舞いに五千五百余万円も費消されている。一強政権の驕り~身勝手ぶりに憤激しない方がおかしい。

 安倍首相と昭恵夫人の媒酌人・故福田赳夫元首相はその昔、自民党の危機に際し、「(長期政権下で)ボウフラが湧いてるのに掃除を怠り過ぎた」と名せりふを吐いた。かのリクルート事件が金権政治への強い批判を招き、自民党が参院選と東京都議選で大敗した際の発言。当時、自民党幹部には極めて稀な清廉潔白な存在と目されていたのが伊東正義さんだ。

 私が保存する古い取材ノートを繰ると、彼はこう発言している。
 ――永田町(政界)の常識と国民の常識は違い過ぎる。国民の代表がおかしなことをするのはいかん。変なことするのはいかん。己を律するに厳しくないといかん。
 安倍首相をはじめ各閣僚や自民党首脳のお歴々に、とくと噛み締めてほしい苦言だ。

 今から三十二年前の一九八八(昭和六三)年、ロッキード事件と並ぶ戦後最大の汚職事件とされるリクルート事件が発覚。辞意を固めた竹下首相はじめ党内実力者の面々は自民党総務会長の要職にあった伊東さんに「ぜひ後継首相になってほしい」と再三懇願する。が、彼は「本の表紙だけ変えても、中身が変わらなければダメ」と発言し、首相就任をきっぱり拒絶する。首相への呼び声がかかりながら自ら断った政治家は、彼以外に見当たらない。

 私は『朝日新聞』記者だった頃の八四年、伊東さんを衆議院議員会館の自室に訪問。一時間余りやりとりし、次のような記事を記している。前記した「首相推薦」劇の五年前だ。
 ――四年前の外相辞任劇で、自民党代議士伊東正義(七〇)は郷里の人々に「会津の血」を思い出させた。会津藩の幕末の悲運は、本家・徳川幕府破産のツケを一手に引き受けた縁者のそれ。派閥のボス・鈴木前首相の失態の身代わりになった観のある伊東の役回りは、その歴史の因果にぴったりだったからだ。当の伊東は「バカといえばバカ。亡き大平(元首相)にも『会津っぽは頑固だのう』とよくいわれた。オレみたいのは得な生き方じゃないわな」

 会津若松市の生まれ。両親とも教育者で、「誠実」「清廉」が最上の徳目と教え込まれる。
筋の通らぬことには耳をかさず、農林省の幹部のころ、農相の故河野一郎ににらまれ、二度も左遷された。半面、役所ぐるみ昭電疑獄で大揺れの際、主管の肥料課長の身で疑惑一つ生まない人徳で株を上げる。

 自民党のアジア・アフリカ問題研究会や超党派の日中友好議連の会長を務めるハト派。昨秋、中曽根首相と会食し、「不沈空母」「四海峡封鎖」などの突出発言をとがめ、「一言多過ぎる」とクギを刺す。昨今論議の政治倫理問題では、「田中さんは異能の政治家。それだけに出所進退もよく考えてほしいな」――
 机の上に堆く本が重なり、主が非常な勉強家であることを偲ばせた。私の記事が紙面に載って間もなく、お人柄が伝わる丁重な御礼状を頂いた。私が五年間専従した『新人国記』シリーズで政治家の紹介は与野党を通じ二十余人に上るが、礼状が届いたのはこの折だけだ。

 伊東は旧制会津中~浦和高~東大法学部を経て三六(昭和十一)年にキャリア官僚として農林省に入る。入省後まもなく大蔵省の同じ新入官僚との対抗野球試合があり、先方のメンバーの一人、大平正芳と初めて顔を合わす。試合後、呉越同舟で銀座のおでん屋で痛飲し、二人はたちまち意気投合~親友の仲になる。

 翌年、日中戦争勃発と共に日本政府は中国(上海・南京)に行政機関の「興亜院」を設置。三九年に伊東は興亜院勤務となり、現地へ渡る。まもなく大平も興亜院勤務となり、机を並べて仕事をした。敗戦後まもなく日本に戻るが、世田谷の自宅は戦災で焼失。やむなく先に引き揚げていた大平の家の離れを借り、夫婦で二年ほど居候暮らしをしている。

 五四年に食糧庁業務第一部長に任じた折、自民党党人派の「暴れん坊」河野一郎が農林大臣に就く。前回に紹介した同じく農林省畑の無類の正義漢・竹内直一さんの項でも記したが、権力者・河野の無茶ぶりは目に余るものがあったようだ。伊東さんは言う。
 ――(傲然として)大臣室の机の上に足を上げ、(強引な)人事だけをやった。(言うことを聞かぬからと)すぐに地方へ飛ばされた。二度目の(左遷の)時は「すぐ売ってやれ」「いや、そんなことはできませんよ」という応酬の直後。口を極めて罵倒されてね。(筆者注・何を売るかで両者が対立していたかは、その時伊東さんに確認していない)

 が、そんな河野も経綸を秘める伊東の資質は認めていたらしい。伊東が農林省事務次官まで務め上げ、六三年に退官。地元で政治家への擁立運動が起こり、先に政界入りしていた大平の引きもあって衆議院選挙に打って出る際、河野派からも誘いがかかった、という。大平は「お前みたい頑固なのは、どこでも務まらん。オレと一緒にやれ」と口説いた、とか。

 伊東の「反骨」「潔癖さ」は会津人持ち前のものだろう。学んだ旧制会津中学は、「ならぬものはならぬ」の教えで知られる旧藩校・日新館の流れを汲む。その源流は強烈でラジカルな山崎闇斎の革命派朱子学だ。武士道の理念に殉じて命を捨てることも辞さない思想が幕末の戊辰戦争で、あの痛ましい白虎隊の悲劇を生む。その悲話が人を打つのは、己の奉ずる理念に殉じる殉教の潔さだ。彼は「侍はどうしても孤立するんだよ」とポツンと言った。

 金権に反対する伊東はスポンサーから金を貰うことを潔しとせず、政治資金集めのパーティは遂に一度も開いたことがなかった。彼が自民党総務会長を務める八七年当時、閣僚・党幹部級なら、一夜のパーティで億単位の稼ぎが常識とさえ言われていた。若手議員の政治資金パーティに呼ばれる派閥ボスたちがご祝儀を百万~二百万円と包む中で、伊東のそれは十万円ぽっち。カネ集めの意欲に元々欠ける上、派閥活動にも不熱心だったからだ。

 世田谷区千歳台の自宅は錆びたトタン屋根で壁のペンキが剥げかけている。東京の事務所は議員会館の自室だけ。秘書は公設の二人を含む五人だけ。地元・会津若松の自宅兼事務所も風呂なし四部屋だけのボロ家で借地。何から何まで、自民党最高幹部の常識外だった。

 伊東は体調の変化もあり九三年の総選挙に出ず、政界引退へ。翌年、肺炎のため八十歳で
死去する。妻・輝子は故人の遺志に反するからと叙勲話を固辞した。「政治家は何になるかではなく、何を為すかだ」が彼の口癖だった。盟友・後藤田正晴元副総理が弔辞を読み、
 ――(政治家の中では)珍しい愚直なまでの潔癖漢でもありました。この潔癖さこそが今
の政治に最も大切なことだ、と思います。
 と述べた。この言及をそっくり、安倍首相をはじめ政府・自民党の面々に差し向けたい。
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