2020.03.30 チベット高原の3月は……
         ――八ヶ岳山麓から(310)――   

阿部治平 (もと高校教師)

はじめに
地球規模で新型コロナウイルス感染が猖獗をきわめ、東京オリンピックが吹っ飛ぶかというこの時期に、チベットがどうだこうだというのはおかしいと思うものの、毎年3月が来るとどうしても何か一言いいたくなる。毎年3月にはチベット人地域に中共軍・武警・公安(特高)などが進駐して異様に緊張するからである。
60年前の1959年3月、「チベット叛乱」の末にチベット仏教至高の存在である十四世ダライ・ラマがインドに亡命した。また12年前の2008年3月には、北京オリンピックを控えて民族独立とダライ・ラマのラサ帰還を求めるチベット人1万余による「暴動」=「ラサ事件」が起きた。このため中国当局は事件を未然に防ごうとして、チベット高原に緊張状態を作り出すのである。
 注)中共軍:革命前の労農紅軍、革命後の人民解放軍はいずれも国家の軍隊ではなく、中
   国共産党の軍事部門なので、ここでは中共軍とする。

1959年と2008年
1956年毛沢東は民主改革と称して、チベット人地域の農牧民社会の階級区分と土地改革、仏教寺院の改革を命じた。これに対するチベット人地域各地の一揆的抵抗が「チベット叛乱」の始まりである。毛沢東は独特の階級闘争理論で、チベット人の抵抗を反動派の「反革命」と断定し、徹底殲滅を命令した。中共軍は「叛徒」はもちろん、巡礼や山野に逃げた農牧民も「反革命」「反動派」とみなして見境なく殺害した。
  注)チベット人地域:方言や習慣の違いにより三分される。ラサ政権が掌握していた
    ウ・ツァンと、今日の自治区チャムド地区に雲南省北部、四川省西部を合わせた
    カムと、青海省の大部分・甘粛省南部・四川省北部を合わせたアムドである。民
    主改革はラサ政権直轄地では行われなかった。
  
2008年のラサ事件は、1959年の「チベット叛乱」が統一指揮部をもたない自然発生的なものであったのとは全く異なり、民族独立運動の一環であり、計画的であった。インドの亡命チベット人青年組織は、8月の北京オリンピックを好機とみてラサで反中国のデモンストレーションをおこない、チベット問題を世界にアピールしようとしたのである。
ところがインドのチベット人亡命地の中国公安機関は、これをいちはやく察知していた。140人余の工作員がヒマラヤを越えてラサに入るという情報はただちに中共中央に届けられた。ところが中共中央は潜入した中核分子を捕らえて、暴乱を未然に防ごうとはしなかった。
この結果、3月10日には尼僧のデモがあり、やがてデプン寺などの僧侶が町に出た。17日にはこれに一般市民も加わり、「暴徒」の焼討ち打壊しがはじまった。だがここでも公安当局は大量の軍警・公安部隊と装甲車を並べただけで、目の前で暴行破壊が行われているのに、これを静観し、その一方で街頭に監視カメラを置いて暴乱の状況と暴徒の顔を撮影した。
やがて当局は、頃合いを見計らって断固たる反撃に転じ、4月9日までに逮捕したもの953人。最終的には数千人になっただろう(この項、本ブログの拙稿「チベット高原の一隅にて(17)」2008.05.27 参照)。

狙いは当たったか
治安当局は「暴乱」をやらせて、そのテレビ映像を公開して国内外に「蔵独(チベット独立派)」の「祖国分裂」行動の野蛮さを明らかにし、武力弾圧を正当なものと印象付けようとしたのである。
期待通り、テレビで「乱暴狼藉」の映像が流れると、中国国内では激しいチベット人非難の声が高まった。私が住んでいた青海省西寧市内ではチベット人にモノを売らない、タクシーに乗せないなどの嫌がらせがあった。一方チベット人は、破壊活動を見て地位のある人も農牧民も「これはやらせだ」とみな嘆いた。
だが同じ映像から、日韓欧米など国際世論は「暴乱」の実態を受け入れず、むしろ同情はチベット人に集まり、反中国デモが各地に起こり、オリンピックの聖火リレーはロンドン・パリ・サンフランシスコで妨害され、中国政府の面子は地に落ちた。
ラサ事件発生のニュースは、携帯電話によって1日もたたないうちにチベット人地域全体にひろがり、だれもが知るところになった。農村牧野の青年らもラサに呼応して町に出た。青海省では確認できただけでも10数の県政府所在地で、「独立」と「ダライ・ラマのラサ帰還」を叫ぶ大小のデモが起きた。西寧と蘭州、成都の大学、さらには北京の中央民族大学でもチベット人学生の座り込みとデモがあった。カムやアムドのチベット人はラサの事件に連帯を表明し、「民族独立」というスローガンを支持したのである。

チベット人地域に君臨する官僚群
ラサ事件当時、温家宝総理はメコン川流域開発会議に出席していたが、事件が起きると現地から「ダライ・ラマが彼の影響力を使ってチベット事件を納めてほしい」旨の声明を発した。チベット亡命政府は色めき立っただろうが、ダライ・ラマが介入する幕はなかった。
というのは、彼らの「やらせて打ち取る」方針は微動だにしなかったからである。チベット人地域各地の警備当局は温家宝総理の発言を無視して、「反分裂」のために断固たる武力鎮圧方針を貫きとおした。私は、最高指導者の一人である温家宝総理のダライ・ラマの出馬を求める発言には驚いたが、それが無視されたのは驚きよりも不可解が先に立った。
すでに、チベット人地域を支配する中共中央と民族委員会、軍、公安機関、自治区官僚、青海・四川など各省高官が形成する集団は、同盟を組み路線を定め、最高指導者の発言であっても、その方針と異なったものは、排除あるいは無視する仕組みができあがっていたのである(王力雄《西藏独立路线图》http://woeser.middle-way.net/)。

責任の行方
中国は1959年の「チベット叛乱」以来、毎年ブラックホールといわれるほど多額の予算と多くの行政要員をつぎ込んできた。しかも、チベットに君臨する官僚たちは、「チベットはいまや史上最高の繁栄に達した」と言いふらしていたのに、反中国の民衆運動が起き、国際世論が反中国に傾き、胡錦涛国家主席の顔に泥を塗る結果となったのである。
中国内地(漢民族地区)に毎年何万と起きる対政府抗議行動や暴動の際は、地方行政機関の一部門とか個人が責任を取らされるのが普通である。だから私のようなものにも、チベット関係の官僚は到底失脚を免れまいと思われた。
ところが意外にも、チベット自治区・各省の行政担当者はもちろん、中共中央や民族委員会のだれも失脚しなかった。チベットに君臨する官僚同盟は、互いにかばいあって、失政の責任を取ろうとしなかったのである。
そのかわり、彼らはラサ事件の全責任をダライ・ラマに押し付けることにした。そこで新華社をはじめ、中国のメディアはダライ・ラマを「中国を分裂させるもの」と激しく非難した。
だがダライ・ラマその人は、「高度自治を求め、独立を望まない」と公言して久しく、従来から暴力闘争を戒めていたのはよく知られていた。だからこのダライ・ラマ非難はあまりに奇抜で滑稽で、情報を制限されている中国国民ならばともかく、国際的には全く相手にされなかったのである。

終わりに
私は、いまも2008年ラサ事件は、急進青年組織の極左的冒険主義によって不必要な犠牲を出し、民族運動に大きな損害を与えたものと考えている。
だが、反体制派の論客王力雄氏は、「2008年のチベット事件はチベット独立か否かの分水嶺であった。……これ以後はチベット独立が現実的なレベルに浮上したのであり、視野の及ぶところとなった。この変化を生んだのは、ほかではなく、中国権力構造の中で『反分裂』を分担する官僚集団である」と言う(前掲論文)。
1959年以後の中共官僚集団によるチベット支配は、たしかにチベット人の民族意識を育て、連帯感を高めた。私も2008年のラサ事件はそれが確認される機会になったと考える。けれども、チベット人地域人民の意識が「独立が現実的なレベルに浮上した」というほどの高みに達したとは到底思えないのである。(2020・03・24)
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