2020.04.04 私が出会った忘れ得ぬ人々(19)
木内幸男さん――「野放図なようで集中心が強い」

横田 喬 (作家)

 いま世間を騒がせている新型コロナウイルスのせいで、楽しみな春の選抜高校野球大会が中止になった。高校野球といえば、取手二高~常総学院のかつての名監督・木内幸男さんの面差しが想い浮かぶ。茨城出身の朴訥で飄々としている、御年八十八歳の御仁だ。

 もう三十六年も以前の一九八四(昭和五九)年十月の『朝日新聞』紙面に、私の記事がこうある。
 ――この夏、甲子園をわかせ、県民を歓喜させた取手二高球児たちの全国制覇。その伸び伸び野球を演出した前監督木内幸男(五三)は土浦市生まれ。同校監督として苦節二十八年、最後の夏を飾る劇的な栄光だった。決勝戦九回裏の窮地をしのいだ大胆的確な投手交代の采配は、「監督のプロ」の手練のほどを実証した。

 現役当時の巨人・長島の大きな写真を自宅に飾り、「野放図なようで集中心が強いところは私も同じ」。土浦市の新設私立高、常総学院に三顧の礼で迎えられ、今秋から新監督に。「五年以内にまた甲子園へ行きます」――
 実は、木内さんとは差しで二時間余もやりとりし、この分量の優に十倍は書ける中身の濃いお話を伺っている。ユーモアたっぷりで、こくがあり、当世の高校生論としても考えさせられる節が多々あった。企画上の制約に捉われず、なぜもっと突っ込んで書かなかったのか、と未だに悔やまれる。

 この折の取手二の優勝は、誰もが「まさか」と思うほど予想外で劇的だった。決勝戦の相手は、後に共にプロ入りする全国屈指の好投手・桑田真澄と強打の四番打者・清原和博のKKコンビを擁する強豪私立のPL学園。取手二は公立校のハンデもあり、とても敵いそうにない、というのが事前の大方の感触だった。
 が、いざ試合が始まってみると、名門PLの都会ふうで緻密な組織野球に対し、茨城の泥くさく野性的な球児たちは「のびのび野球」で善戦敢闘。なんと4対3と一点リードのまま、土壇場のPL九回裏の攻撃を迎える。

 取手二のエース石田は硬くなって腕が縮んだか、PLの先頭打者にいきなり本塁打を見舞われ、あっという間に4対4の同点。動揺するまま、石田は次打者に死球をぶつけてしまう。(こりゃまずい)。テレビの実況中継を見守る私は十中八九PLのサヨナラ勝ちだろう、と踏んだ。ここで木内監督が放った手練の勝負手が後に「木内マジック」と称えられる奇策である。

 うなだれる石田をライトへ下げ、控え投手の柏葉を急遽リリーフに送る。その柏葉が一死をとるや、一呼吸ついた石田を再びマウンドへ。気合のこもった投球で石田は四番・清原を三振に、五番・桑田を三塁ゴロに仕留め、同点のまま試合は延長戦へ。取手二は十回表に五番の捕手・中島の3ラン・ホーマーなどで8対4の劇的勝利を収め、甲子園球場をうずめた大観衆を沸かす。
 急場での控え投手起用は、今で言うワンポイント・リリーフ。当時はプロ野球でも珍しく、ましてや高校野球では見られぬ変則的な采配だった。が、木内監督の脳裏には石田や柏葉の正念場での心理状態や力量発揮に対する的確な見極めがちゃんとあり、成算が十分あっての一手だったのだ。

 木内さんは、こう振り返る。
 ――試合で勝つにはチームプレーが肝心。ランナーが出たら、打者は鋭くゴロを転がすのが鉄則で、大振りして凡フライでは駄目。が、いつ頃からか、言う通りせん子に「こら!」と叱っても一向に怖がらず、効き目がなくなった。何か手はないか、と頭をひねりました。

 で、一計を案じる。子供らは小遣い銭が減るのを何より嫌がる。監督の指示に違反したら罰金を取る仕組みとし、違反一回に付き罰金十円と取り決める。一回百円ではまずいが、十円なら許容範囲ではと考えてのこと。たかが十円と言うなかれ、少年たちは懐が寒くなるのを案じる。目の色が変わり、口で言い聞かすより、よっぽど効きめがあった。

 ――練習も、単純な反復ばかりでは飽きがくる。控え選手を含め二手に分け、実戦形式の紅白試合を数多くやらす。試合の運び方を考えさすため、全員に順番で主将役をやらせ、打順の編成や投手交代なんかも一切任す。こっちはネット裏で腕組みしとればいいんだから気楽やし、あははは。
 高校野球にありがちな、しごき抜く猛練習とは対極の行き方、とも言える。交代で主将役をやらせると、指揮ぶりから度胸の有無や勝負勘の良し悪しが知れる。ネット裏で観察を重ね、個々の性格の特徴を洗い出して全員の「査定表」をこしらえ、ここぞという場面での采配に存分に生かした。

 試合形式の紅白戦もマンネリ化してはだめ。勝負に真剣になるよう、褒美と罰則を用意。前述のミス一回に付き十円の罰金が「ちりも積もれば山」、一シーズンにン千円位はたまる。勝った方は各人ジュース一本をもらって喉を潤し、負けた側は全員何㌔かのランニングを課される決まりに。
 自主性といえば、木内監督は選手たちの男女交際を公認。彼らは好きな女の子の名前をバットに記し、そのご利益もあってかヒットを連発したという伝説も生んだ。木内野球は管理野球の真逆を行く「のびのび野球」だったのは確かなようだ。

 公立の取手二高での木内さんは教員身分でなく用務員扱いのため、月給は六万二千円という薄給。糟糠の妻・千代子さんは質屋通いや新聞配達をしたり、キリンビール取手工場へ働きに出て家計を支えた。暗い話を好まぬ木内さんはからりと明るく、こう笑い飛ばした。
 ――二十何年も監督をやれば、野球部の教え子たちが取手の街中にわんさといる。居酒屋で飲んでも、八百屋や魚屋で買い物をしても、「(懐の怪しい)監督から金が取れるかい」と全部ただ。だから、素寒貧でも何とかかんとか、やってこれたんですわい。

 郷里の土浦に誕生~開校三年目の私立高・常総学院から三顧の礼で迎えられ、取手二の全国優勝を置き土産に八四年秋、同学院野球部新監督へ。金銭には恬淡としていて、自伝によると学校側の「契約金二百万円、月給三十五万円」という条件を自身の申し出で「契約金百万円、月給二十五万円」に下げてもらった、という。「最初から沢山もらわん方が気が楽で、伸び伸びやれるから」。

 公約通り、就任三年目の八七年春の選抜で甲子園初出場を達成。同年夏の選手権大会で甲子園準優勝。以来、常総学院を甲子園常連の野球名門校として着実に定着させていく。七十代を迎えた今世紀に入り、二〇〇一年の選抜では強豪校を相手に次々と接戦をものにし、決勝で仙台育英を七対六で降し初の全国優勝。〇三年夏の大会決勝では現在米大リーグで活躍中のダルビッシュ投手を擁する東北高と対戦。バントを使わない強攻策で打ち崩し四対二で快勝し、見事優勝している。

 取手二高~常総学院と二十代から八十歳の高齢になるまで高校野球の監督一筋に五十一年間、まさしく空前絶後の野球人生と言っていい。甲子園出場は春七回で優勝・準優勝が各一回、夏十五回で優勝二回・準優勝一回。

 常総学院で教えを受けた仁志敏久氏(元巨人・現「侍ジャパン」コーチ)は言う。
 ――言動の一つ一つにちゃんと理由があった。選手自身がしっかりと自分の意見を持つ、そんな自主性のある野球を教えてもらった。黙ってついて来い式で選手を型にはめがちな日本の高校野球界では珍しいタイプの指導者です。
 プロ野球でも活躍した松沼兄弟(取手二高出身)や仁志氏ら数々の名選手をはじめ、教え子からは高校野球や社会人野球の監督が五人も誕生している。「木内野球」のDNAは着実に拡大再生産を遂げつつある。

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