2020.05.30  「封城」(ロックダウン)下の武漢の暮らし
           - 方方女史の『武漢日記』(12)

田畑光永 (ジャーナリスト)
                       
 3月19日
 封城57日目。
 今日とうとう待ち焦がれたいいニュースを聞いた。武漢で感染確認がゼロ、疑似患者もゼロ!そして友人の医師が興奮して言う、「ついにゼロだ。3つのゼロ、蔓延は抑え込んだ。外からの侵入も抑えた。今の主題は治療だ」。
 同時に、今日は湖北省のお役所が他省へ働きに行く労働者を送り出し、全国の人民に湖北人をよろしく、と呼びかけた。そう、湖北人をよろしく。感染した人が病人なのであって、湖北人全員が病人というわけではない。数千万の湖北人は感染を広げないために2か月近く、家の中に閉じ込められた。受けた圧力と克服した困難はよその人には分かってもらえないだろう。湖北人はこの災難の中で克己、隠忍、全中国への蔓延を抑えるために大きな貢献をした。だから、ここで叫びたい。各地の友人の皆さん、湖北人をよろしく。皆さんの安全に貢献した人間たちをよろしく。
 次の段階はよそから人が武漢市に来ることになる。私個人について言えば、お手伝いさんもパートの雇人も早く来てほしい。もう2か月、わが家は徹底した清掃が必要だ。老犬は汚くなり、臭くなった。皮膚病が再発したのだ。私の手も荒れて、裂け目ができてしまい、彼を洗ってやることが出来ない。動物病院はいつから始まるのかしら?毎朝、彼を庭で放す時、「もうちょっと待っておくれ、あと何日かで気持ちよくしてやるからね」と言い聞かせている。百業、興るのを、我らはじっと待つ。
 いつものように朝起きて、朝食をとりながらスマホを見る。意外なことに、昨日は「高校生」が公開書簡を送ってきたが、今日は彼の家のあっちこっちの「親戚」が出てきて(彼の「親戚」はまことに多い!)(注1)、彼に公開書簡を書いている。勿論、ほかにも大学生、中学生、小学生も手紙を書いている。そのうちの何篇かにはこらえきれずに笑ってしまった。自分でもこれほど笑ったのは久しぶりだった。今日はゼロの日だったから、大笑いにはピッタリだ。易中天学長の曰く、今日は全民、手紙を書く日だとか、これにも噴き出してしまった。
 李文亮についての調査も、今日、結果が出た(注2)。この結果をみんなが受け入れるかどうか、満足するかどうか、それは分からない。私はもはや何も言いたくない。李文亮は死んだ。彼のブログは人々の嘆きの壁となった。無数の人々が彼を永遠に忘れないだろう。誰もが知っている。彼は英雄ではない、生活も普通の人と変わらない、彼のしたことも人の普通の感情の範囲の中のことだ。しかし、われわれは彼を忘れない。そしてできる限り彼の家族を助けよう。それでいい。
 あの調査結果はほんとにどうでもいい。われわれの記念は、言うなればわれわれ自らを記念する。われわれがこのような日々を過ごしたことを記念する。その日々の中で一番重要な人間、それが李文亮だ。
 けれど若い人は私より激しい。午後、若者が1人、私にコメントしてきた。「時代の一粒の灰、それが中南派出所に落ちた。それだけのこと」。前記の高校生への返信を読んだ時と同じように、こらえきれずにまた笑いだしてしまった。しかし、やはりこれだけは言っておきたい。本当のことというのは、複雑なのだ。それはわれわれ凡夫俗子には明らかにはできない。ある事柄には時間を与えよう、時間が役に立つかどうかは不明だが。
 このところの武漢は相変わらず外出禁止ではあるが、基本的には安全都市となったことは皆、知っている。勿論、人々はまだ警戒しなければならないと言うが、心理的にはすでに解放されている。都市の現実、庶民の心中、ともに1か月前とは天地の差がある。われわれの生活は間もなく以前のリズムを取り戻すだろう。封城は急ブレーキのようなものだったが、開城はおそらくゆっくり進む徐行型だ。
 しかつめらしく某々と名乗る指導者が出てきて、「明日より開城」と宣言してこの記録が止まる、などということが必要だとは思わない。あるいはそんな区切りの日は来ないかもしれない。なぜなら城門にはすでに一本の割れ目が入り、それがゆっくり全開へと向かっているようなものだからだ。
 そこで私は数日前に二湘さん(注3)に言った。「54篇を書き終えたら、おしまいにする。丁度、トランプのカード一組分を切り終えたところで」。ところがなんと昨日が第54篇だった。だからと言って、今日中
にあの「10萬+」を名乗る「高校生」の公開書簡に返信しようとは思わないし、そんなことは不可能だ。そこで、結びを書く機会を失ってしまった。今、私はいつこの記録を終わりにしようか、思い迷っている。
 ついでに言っておきたいことがある。私の文章はウイチャット上でずっと二湘さんのアカウントに助けられて発信している。理由は簡単で、私のブログが封鎖されたためなのだが、その日に丁度、李文亮が亡くなった。私は唯一のアカウントを失い、ウイチャットもできないので、発信するすべがなくなってしまった。そこで普段読んでいる二湘さんのブログを通じて、彼女に私の文章を発信してほしいと、助けを求めた。
彼女は同業者としてすぐに承諾してくれた。
 当時、私は彼女が小説を書くという以外、なにも知らなかった。会ったこともなかった(勿論、今もまだ会っていない)。その後、彼女を紹介する文章を読んで彼女の基本的な事柄を知った。簡単に言えば彼女と私の関係は、ネットのアカウントを使いこなせる作家が使えない老作家を助けて文章を発信してくれたというだけのことである。それを陰謀論の愛好家が重大な陰謀のように仕立てたのである。
 私は二湘さんには大変に感謝している。彼女が武漢に来遊されるのを心から歓迎する。武漢では魚をご馳走したい。武漢の魚は本当においしいし、武漢には魚さばきの名人がたくさんいる。
 もうすこし余談を続ける。はるか昔、大学生のころ、いくつもの文学サークルがあって、文学上の話題について議論を交わしていた。しかし、討論を重ねたところで、到底結論は出ない。やがて私は面倒くさくなって、そういうテーマをこっそり「老三篇」(注4)と名付けた。その3つのテーマとは、称賛か暴露か、喜劇か悲劇か、光明か暗黒か、であった。そして討論を繰り返したのは要するに、文学は称賛の文章を書くことしかできないのか、喜劇だけしか書けないのか、社会の明るい面しか書けないのか、であった。そして社会問題を暴露し、人間の悲劇や社会の暗い面を描くのは反動的作家である、ということであった。
 そして1978年から1979年にかけて(注5)、結論に至らないまま、どういうわけか、みんな討論をやめてしまった。その後、またクラスで一度、大討論が起こった。「文学は階級闘争の道具であるか否か」がテーマだったが、やはりこれという結論は出なかった。時間がゆっくりと過ぎて、私は卒業し、仕事をし、職業作家になった。そしてある日、発見した。同窓の仲間たちといわず、文学界全体として、これらの問題にはすでに共通認識が出来ていたのだ。それは、何を書いてもいい、重要なのはうまく書けているかどうかだ、ということであった。そこで私は講演などでは、たくさん問題はあるけれども討論など必要ない。時間が答えを出してくれると言ってきた。
 ところが今度、突然、自分が間違っていたことに気づいた。42年もの時間が過ぎたが、時間は答案を与えてくれなかった。われわれの文学は改めて古い問題に帰って来た。なぜ私に無数の悪罵が投げかけられるのか、それはまさに私がこの災難の中で、称賛を書かず、喜劇を書かず、明るい面を描かないからこそ、ではないか?この輪廻のごとき巡り合わせは、思えばまことに不可思議である。ここまで書いた時、友人が『察網』に載った文章を転送してきた。タイトルは「悪意満々の『封城日記』」、筆者は斉建華。(注6)
 そこで私はまず一言、警告したい。斉先生、貴方が私を罵ることには問題ありません。しかし、デマをねつ造し、人を陥れようとしている疑いがあります。貴方が自分の文章を削除し、公開で謝罪するよう提案します。もし削除も謝罪もしなければ、私は法的手段で解決します。『察網』も含めて、貴方が毎日、私を罵倒することには問題はありませんが、斉建華のごとく大っぴらにデマを飛ばし、人を誹謗する文章を発表するのであれば、貴方にどのような背景があろうと、どれほどのお役人が貴方の腰を支えていようと、貴方の後ろ盾がいかほど強大であろうと、勿論、貴方ともども告発します。中国は法治社会です。私が貴方たちの私に対する悪罵を許すのは私の寛容です。それはつまるところ、貴方がたの品格の問題です。しかし、デマをでっちあげて陥れようとするのは違法の疑いがあります。ここで、『察網』と斉建華先生に申し上げます。ご自分のしたことをしっかり認めてください。それが出来ないのなら、法廷でお会いしましょう!貴方が見えなくとも、武漢はまもなく開城です。私は退職者といえども裁判を争う力はまだあります。(続)
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注1:作者が手紙とかコメントとかいう場合はおおむね作者に対する批判、攻撃であり、「高校生」とか「親戚」とかいうのは、その際に投書者が使う筆名である。
注2:昨年末、新型の感染症が流行していることを医師仲間のチャットで警告し、「デマを流した」かどで警察から「訓戒処分」を受け、その後、自分も感染して2月7日に死去した中心病院の李文亮医師について、世論の動向から政府は評価を一転して、「烈士」として称揚することにした。そのことを指す。
注3:二湘とは珍しい名前だが、女性作家(のおそらくペンネーム)である。「湘」は湖南省の別名だが、この人は湖南の出身。北京大学卒業後、米テキサス大学オースティン分校でコンピュータ修士号。その後、カリフォルニアで作家活動。代表作は『狂流』、『重返2046』、『白的粉』など。
注4:「老三篇」とは毛沢東思想学習の基本文献とされた『ベチューンを記念する』、『人民に服務する』、
『愚公、山を移す』の三篇の論文を指す。
注5:「1978年から1979年」というのは、毛沢東が1976年に死去した後、鄧小平による改革開放路線が緒に就く時期であり、北京市内に大量の壁新聞が張り出され、また新聞・雑誌でもかなり自由な言論活動、創作活動が展開された。
注6:斉建華というのは一見して「一斉(そろって)に中華を建設する」という意味を込めたペンネームであることが分かる。その前の「高校生」とかその「親戚」とかいうのと同じである。したがって、こういうわざとらしいペンネームには受け手もそのつもりで読むことが方方の書き方に現れている。『察網』と言う名前が登場するが、「察」という字から警察関係?と気を回さないように。警察は中国語では「公安」、検察は日本と同じで「察」を使うが、この場合は「網」(ネット)を観「察」すると見たほうがいいと思われる。
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