2020.06.05  私が会った忘れ得ぬ人々(21)
          長嶺ヤス子さん――私には神がかりな何かがあるの

横田 喬 (作家)

 世の中には、なんとも不可思議な人がいるものだ。会津地方の山中で長年百匹以上ものネコを飼い続け、前衛舞踊の公演は都内で年に二度ばかり。八十代半ばの今なお現役というのも凄いが、暮らしは一体どう立てているのか、首をひねりたくる。
 初対面は三十余年も前。取材で東京・港区内の賃借マンションを訪ねた折の新鮮な驚きは、未だに忘れられない。室内に同居する三匹のワンちゃんと二十一匹ものネコたちが主の身ごなし一つで、即座にシーンと静まり返る。直前まで、ワンワン、ニャーニャー、狂騒の極みだったのに。

 彼女の佇まいには不思議な気品が漂い、動物たちの反応はオーケストラの指揮者のタクトに従う楽団員を連想させた。たくさんのネコたちの大半は捨てネコ。公演にそなえ体をしぼるため夜の街へランニングに出、捨てられた子ネコたちが哀れに鳴くのを見るとたまらず、つい拾ってきてしまうのだ、という。芸術至上主義がたたって生活は年中火の車、三度の食事さえどうかするとままならぬ中でのこと。殉教者さながらの奇矯な振る舞い、とさえ映った。

 彼女の横顔を手っ取り早く紹介するため、私の記した一九八四(昭和五九)年当時の『朝日新聞』の関係記事を紹介する。
 ――身の毛がよだつような舞台の迫力そのまま、舞踊家長嶺ヤス子(四八)の妥協のない人生は、一種の痛ましささえ感じさせる。長唄の生演奏とスペイン舞踊を組み合わせた『娘道成寺』は四年前、芸術祭大賞。舞踊を生活の糧にしたくない、と公演は年に数えるほど。『娘道成寺』のニューヨーク公演は一昨年、大成功を収めながら、制作費自己負担がたたり、三千万円近い赤字。一時は毎日の食事代にも事欠くほどで、名声とは裏腹に生活は火の車だ。

 会津若松市に生まれた。小学校のころは戦時中で灰色の時代。会津藩士の娘だった祖母のしつけが厳しく、女の子らしいおしゃれができず、地味に地味にと育てられる。その反動で、「真っ赤な色とか太陽、燃える火・・・、激しいもの、きらびやかなものが好きになったの」。雪国の長い冬、こたつで絵本に見入り、真っ赤なドレスのカルメン人形に心を奪われる。
 そのときめきが後年、物語の舞台・スペインへの関心をかきたて、フラメンコ舞踊への道を開く。高校時代から習い始め、青山学院大を中退、二十四歳でスペインへ。足のツメが全部はがれ落ちるほど猛レッスンを重ね、スペイン随一のクラブにデビュー。異邦人ゆえの差別にめげず、「ジプシーよりもジプシーらしい踊り手」として声価を不動にする。

 「スペインの鷹」と異名をとるフラメンコの大スター、ホセ・ミゲルとの愛と別離。音楽や踊りを介して生まれた多くの愛の遍歴。その激情が『サロメ』や『娘道成寺』の迫真の舞台を生む。二十代のスタミナを保つため、般若のような形相で毎晩マラソンを続け、体をしぼりぬく。家族も財産も将来のあてもない独りぼっちの暮らしだが、「私には神がかりな何かがあるの」。――

 私は彼女から、忘れがたい告白を聞いている。八〇(昭和五五)年二月の深夜、車を運転中に原宿の街頭で急に飛び出してきた野良猫をはねてしまう。一瞬、置き去りにしようかと迷うが、いやダメと車を止めて介抱。瀕死の重傷と知るが、真夜中に獣医さんを煩わすのもとまた置き去りを思い迷う。
 が、立ち去ろうとする瞬間、ブチの大猫は瀕死の息の中、無心の瞳でじっと自分を見つめている。はっとし、ブチを抱き知り合いの獣医さんの許へ。手当てをしてもらうが甲斐なく、じきに息を引き取ってしまう。このてんまつに気がとがめ、遺骸は深大寺のお寺の境内に埋葬してもらった。

 以来、ブチは仏様のお使いだったのかも、と思い煩う。近所に捨てられていた子猫、安楽死寸前だった子、夜のランニング中に出遇った野良・・・。内心、困った、困った、と思いながら、拾い猫が八匹にまで増えた時、はっと思い至る。(すべては縁、仏様が私に与えて下さってるのだ)と考え、(これはもう自分の運命、みんな残らず拾って面倒を見ていこう)と固く決意する。

 長嶺さんが都内の賃借マンションを引き払い、生まれ故郷の会津若松市にほど近い猪苗代の山中に移り住んで三十年近くたつ。たくさんのネコやイヌたちと一緒に暮らすためのやむを得ぬ選択だった。「常時ネコ百数十匹、イヌ数匹が十部屋ある屋内で一緒に暮らし、食事代や二人のお手伝いさんの人件費に暖房費・動物たちの非常時の医療費などで毎月百万円ほどの経費がかかる」(十余年前の述懐)とか。

 年に僅かな舞台公演は制作費がかさんでおおむね赤字で、生活は相変わらず火の車だ。が、予期せぬ収入がピンチを救ってくれる。彼女がネコやイヌたちを題材にして描く油彩画がファンの間で思わぬ人気を呼び、かなりの高値で売れるようになったのだ。年に一回都内で開かれる個展はマスコミの注目を浴び、「おどろいたニャン!猫の恩返し」と書き立てられる。
 絵を描くのは幼いころから好きだった。小・中学生のころ、親が油彩画を習わせた時期もある。スペイン当時から飼っていた小型犬ピピが十七年余の生涯を閉じた時、悲しみをまぎらすため似顔絵を描こうと思い立つ。可愛らしい姿態や動作をなぞるうち、胸中の熱い思いが絵筆に乗り移り、舞踊も絵画も目指すところは同一と気づく。幻想的で優しいタッチの作品は色づかい・構図とも独特で、どこか寂し気に映り、不思議に心を打つ。

 前段に記したインタビューの際、彼女は「私には神がかりな何かがあるの」と漏らし、こう口にした。
 ――夜中に都内で車を走らせていると、隣の席から亡父が手を差し伸べ、風のようにそっと頬に触れるの。
 亡父は貧しい暮らしの中で苦労して育ち、一代で土木建築業で財を成した。そんな父が自分の言うことを聞かないと、彼女はハンストをしてでも我がままを通すすべを知る。大学時代には異性関係をとがめられ、睡眠薬自殺を図って驚かせ、以後は言いなりにさせた覚えも。が、それでいてファザコン気味なところもあり、我ながら気がさす行状が続くと、夢うつつに必ず亡父が出現。「いい子になりなさい」と諭す声がする、ともいう。

 思うに、彼女には超常現象と縁がある巫女さんのような資質があるのかも知れない。実をいうと、この私自身も十代半ばと五十代半ばのころ、理屈では説明のつかぬ不可思議な現象を二度にわたり体験している。そんな個人的事情もこれあり、あながち彼女の述懐を「そんなバカな」と一蹴する気にはなれないのである。

 さて、長嶺さんは中年を過ぎてからも、都内の劇場を足場に実験的・前衛的な創作舞踊の公演を次々と行う。二〇〇二(平成一四)年、その芸術活動の功績に対し紫綬褒章を授与されている。以後も活動のペースは衰えを見せず、矍鑠(かくしゃく)として今なお舞台を務めている。 
 彼女が三十年近い間に面倒を見てきたネコやイヌたちは優に千匹を超えよう。その命の終末をみとる悲しい体験も数え切れぬほど積み重ねたに違いない。長年にわたる無償の愛の功徳か、近年の面差しは慈母さながらの優しさを宿している、と私には映る。

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