2020.06.27  「護郷隊」とはだれのことか
          ――八ヶ岳山麓から(315)――

阿部治平 (もと高校教師)

このほど、長野県駒ケ根市の旧赤穂町・旧中沢村で太平洋戦争の末期、日本軍が住民の思想傾向を探っていた文書が見つかった。同市博物館の専門研究員小木曽真一さん(71)の調査によるものだ。
発見された文書は、1945(昭和20)年6月29日付で陸軍大尉から各町村長あてて、「問題ヲ生ズル場合ハ細大漏ラサズ当部隊当通報」を指示し、「一般民衆ニシテ思想的ニ動向不穏ト認ル者アリタル場合」「部隊、工場等勤務者ニシテ其ノ町村ニ悪影響ヲ及ボス言動アリタル場合」などを例示し、学校長や在郷軍人とも連絡をとりあい、指示を徹底するよう求めていた。
6月2日付の信濃毎日新聞の記事はこれにつづいて「当時、諜報・謀略などの研究をしていた陸軍登戸研究所が45年4月ごろから、同地域に疎開し、学校、神社を軍需工場や倉庫にし、住民に爆弾作りなどをさせていた。疎開は本土決戦準備の一環とされ、住民を巻き込んだゲリラ戦を想定していたとみられている」と記している。

私は驚いた。というのは、つい数日前読んだ三上智恵著『沖縄スパイ戦史』(集英社新書、2020・02・22)に、こう記されていたからである。
「終戦間際、沖縄だけではなく全国に地域の住民で組織するゲリラ兵部隊が作られていた(召集されたのは14~40歳で、ゲリラ訓練は主に少年が対象だった)。このことはまだ知られていないが、地域の住民でゲリラ戦をするという無茶な考えは決して沖縄だけに限られたものではなく、ましてや沖縄県民だから軽視され、少年たちが消費されたという問題でもない……」

太平洋戦争の末期、1945年3月26日から沖縄戦が始まった。その3か月後6月23日牛島満司令官が自決し第32軍は崩壊した。しかし、日本はまだ降伏していない。沖縄本島北部では米軍に対するゲリラ戦が続いていた。
これよりさき、1945年1月大本営は本土決戦の準備を進め、男子の根こそぎ動員をはかった。沖縄の旧制中学生が動員された鉄血勤皇隊の名前は私も知っている。沖縄本島では、陸軍中野学校で訓練を受けた青年将校が14歳以上の少年たちを「護郷隊」という名のゲリラ兵として組織、訓練し、山岳戦に兵士として投入した。
彼らは、日本兵が敗残兵となって略奪殺人を働くなか、圧倒的な戦力をもつ米軍を相手に橋や道路の爆破、戦車の破壊、偵察斥候にかりたてられ多数が戦死した。今でいえば中学2年生くらいから高校生の年代である。

『沖縄スパイ戦史』の著者三上さんらは上記の本に先立って映画を作った。著作と映画の関係についてこう述べている。
「本書は平成30(2018)年夏に公開したドキュメンタリー映画で、2019年度文化庁映画賞文化記録映画部門優秀賞や第92回キネマ旬報文化映画部門ベストワンほかに選ばれた『沖縄スパイ戦史』(三上智恵・大矢英代共同監督作品)の取材をもとに、映画の中には登場していない方々を含む元少年兵20人あまりの証言に始まり、『秘密戦』を遂行した陸軍中野学校出身の隊長らの生涯や、日本軍によるスパイ虐殺の被害者側、加害者側双方の証言や資料調査などを、映画が完成してからさらに取材を重ね、1年半かけてまとめたものである」

三上さんは映画『沖縄スパイ戦史』に、あえて沖縄の少年兵のゲリラ戦の事例を提示した。こうすれば「他府県でも地域に根差したジャーナリストたちが必ず埋もれた少年兵部隊の存在を掘り起こすだろう」と期待したのである。
はたせるかな、岐阜県で、陸軍中野学校でゲリラ戦を学び、岐阜県の少年を訓練した人が健在であることがわかった。この本にはその聞き取りが収録されている。
そしてこのたび長野県駒ケ根市で篤実な研究者によってほとんど同じ内容の文書が発見された。敗戦直後、米占領軍への警戒感から多くの公文書が焼かれたが、戦争の一端を物語る貴重な文書がたまたま生き残っていたのである。

本土決戦つまり国内を戦場として戦うとなれば、住民を軍に動員し協力させ、さらに動揺を抑えないわけにはいかない。沖縄では、先の見通しの得られない極限状態で、疑心暗鬼になったのは兵隊だけではない。総動員体制の下での住民は相互監視のなか、密告しあう事態が生まれた。ときには通敵行動の疑いだけで惨殺したのだから、戦後生残った人々の間では語るのは躊躇される事態が数多く生まれた。
三上さんはこれを取り上げ、体験者にリアルに語らせ、自身このように語る。
「ここでかたる『スパイ』という言葉の意味は、陸軍中野学校の工作員たちが敵を欺いて情報をとるというだけでも、少年や住民を使って、スパイ戦やゲリラ戦を展開したことだけでもない。軍が住民を欺き『始末のつく』状態にすること、また軍がスパイ容疑で住民を手にかけたり、住民同士がスパイの疑いをかけあうなど、秘密戦の枠の中で『スパイ』という概念は、相互に悲劇を生む多義的な忌まわしい言葉であることも理解してもらえればと思う」

三上さんは「しかし護郷隊を知ることによって、私は初めて率直に戦う兵隊側の気持ちになってみることができた。……沖縄戦の兵士の立場を考えることが可能になった。さらに中野学校の卒業生が課せられた秘密戦の全貌が理解できるようになってくると、正規軍の武力衝突と並行して行われる裏の戦争の輪郭がようやく見えてきた。なぜ軍隊は住民を守るどころか利用し、かつ見捨てるような結果になったのかも、秘密戦の構造を知れば謎が解けた」
「戦争マラリアも強制集団死も住民虐殺も、全部起こるべくして起きたことだとわかった」という。

私は三上さんらが作った映画を見たことはなかった。
この本をかつての教え子が「惜しむらくは、著者が随所で反自衛隊・基地反対的な話を証言者に向ける点です」といいながら、三上さんの本を紹介してくれたので、読む機会が得られた。この生徒は「日本政府は靖国神社で会おうといって死んだ護郷隊員や生残った少年らに表彰と恩給を与えるべきだった」とメールをよこした。
私はこの本を読んで、あれもこれも含めて沖縄戦について認識がまた一歩進んだと感じた。もう何十年も前、沖縄出身の畏友宮里政充が「一家に死者がいなかったのは、我家だけだった」と故郷の沖縄戦を語ったとき、非常な衝撃を味わったが、この本を読んでそれ以来の感動を受けた。不覚にも満州で死んだ少年義勇隊の従兄たちを思って私は涙を流した。(2020・06・03)
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