2020.07.01  在日の追悼は民族名で
          大阪空襲の聞き取り進める

田中洋一 (ジャーナリスト)

 いつ来るとも知れぬ空襲に怯えながら、75年前の今ごろ人々は生きていた。B29による主要都市の爆弾や焼夷弾の爆撃に加え、戦闘機は地方の町にも突然現われて機銃掃射を浴びせた。

 大阪は1944年12月19日から、日本がポツダム宣言を受諾した45年8月14日まで50回を超す空襲にさらされた。死者・行方不明者は1万5千人以上とみられる。その中には在日朝鮮人も多数いたはずなのに、氏名はもちろん人数さえほとんど把握されていない。
 朝鮮人犠牲者の追悼集会を催す運動が大阪で進んでいる。本来の民族名で追悼することにより、空襲で朝鮮人が受けた被害の実態を明らかにし、尊厳の回復を図ろうとしている。

 私は、関東大震災の混乱で殺された朝鮮人への東京都政の差別的な姿勢や、在日コリアンをめぐるヘイト言動を考える中で、この運動を市民団体の機関誌で知った。気にかかり、関係者にさっそく連絡を取る。
 大阪空襲による朝鮮人犠牲者の追悼集会を計画している実行委員会の呼びかけ人に横山篤夫さん(79歳)がいる。横山さんは「大阪空襲被災者運動資料研究会」の代表を務めている。高校の日本史教員OBで、地域の近現代史を掘り下げてきた。

 空襲資料研究会は4年前に発足した。先輩世代の「大阪大空襲の体験を語る会」が集めた約450編の体験手記を整理する中で、朝鮮人のものは皆無と気がついた。これを契機に大阪の在日朝鮮人からの聞き取りを手掛ける。これまでに7人から話を聴いた。
 聞き取った内容は、第1次大空襲の3月13日に合わせた今年の追悼集会で資料として配る予定だった。だが、新型コロナ禍は収まらず、第3次大空襲の6月7日にいったん延期された追悼集会は、来年に再び持ち越された。
 
 ここではまず、聞き取りの内容にざっと目を通しておこう。

 1941年に国民学校に入学した辛基一さん(男、85歳)は「地主の田んぼの小作と荒地の開墾をしているところで物心がつき育ちました。家と言ってもトタン屋根のバラックで……板張りにゴザを敷き、壁も板張り、割れた窓ガラスは紙でつぎはぎだらけ、冬の隙間風が寒かった……ここで弟が二人生まれました。……電灯はありましたが水道は無く、井戸からつるべで水をくむ生活でした」と振り返る。
 4年生で空襲に遭う。「軍国主義教育に染まって、日本は決して負けないと思い込んでいました。……戦争末期には私は予科練に憧れて、志願したいと思って」と教育の恐ろしさをかみしめる。

 4歳で被災した金由光さん(男、80歳)は「町内会の防空壕でも危ないと感じ、子どもの足で駆け足でも20分位かかる淀川の堤防迄逃げました。……家のすぐ横の電柱の所に焼夷弾の火に焼かれて倒れている人を見ました。……梅田界隈はほとんど丸焼けでした」。

 近現代史家の小山仁示(故人)は『改訂 大阪大空襲』(東方出版刊)で空襲の全体像を示している。その中で、「六月は空襲がことのほか激しかった」と強調する。6月7日の第3次大空襲で劉載鳳さん(女、85歳)の姉と妹は長柄橋の川原に避難したが、焼夷弾を受けた。
 「(妹は)焼夷弾の破片が頭に直撃して亡くなりました。駆けつけたオモニに、『痛い、痛い、オモニ、オモニ』と言ったのが最後のことばだったそうです」。姉は背中に大火傷を負った。
 妹を亡くしたことで、「オモニは『長柄橋に逃げろ』とどうして言ったのかと……自分を責めました。家にいればよかった、と。なぜ2人を長柄橋まで送り出したのか、取り返しがつかないことをしてしまった」と悔やんでいた。

 同じ6月7日の空襲で金禎文さん(男、81歳)は祖父を亡くした。埋葬した寺の過去帳を調べた大阪府朝鮮人強制連行真相調査団の記録から、日本人風に改められた祖父の名前「金谷富彦」を見つける。年齢もぴったり合う。
 大阪城公園の一角にある大阪国際平和センター(ピースおおさか)は大阪空襲を語り継ぐ平和博物館だ。そこに、判明している9千人近い空襲犠牲者が公的に記録されている。名前は<刻(とき)の庭>のモニュメント銅板に刻まれている。金さんは祖父について「(創氏改名後の名前ではなく)本名『金麗濬』に改めて欲しい」と望む。さらに、「周りにもたくさんの朝鮮人が住んでいたので、犠牲者もたくさんいた」。

 子ども心に警報の不気味なスピーカーの音を覚えているという呉時宗さん(男、79歳)も、戦災で命を絶たれた朝鮮人犠牲者を追悼する意義を訴える。「幸いなことに私の家族や親戚で、空襲で死んだ人はいませんでした。……しかし確かに在日朝鮮人が大阪にはたくさんいたのですから空襲で犠牲者も大勢いたに違いない」

 では、ピースおおさかに名前が刻まれた約9千人の中に朝鮮人は何人いるのか。「多分そうなのは金姓9人と朴姓4人の13人だが、そんなはずはない」と横山篤夫さん。1万5千人以上とされる大阪の犠牲者の中に1200人はいるはずだ、とみる。敗戦直後の公文書から、戦災に遭った朝鮮人は大阪府民の被災者のうち8.2%と読み取れる。同じ割合を犠牲者にあてはめれば1200人となるからだ。

 前に触れた「大阪大空襲の体験を語る会」は犠牲者の二十七回忌に当たる1971年に結成された。前年には「東京空襲を記録する会」が発足し、戦災を伝える気運が各地で盛り上がっていた。最近では、戦災による朝鮮人犠牲者の追悼のニュースは、ネット情報に限るが、東京大空襲しか見当たらない。
 語る会のきっかけは、軍需工場に動員されていた6月1日に第2次大空襲に遭遇した金野紀世子(故人)の新聞投稿だ。1971年3月9日付け朝日新聞で「あの空襲にあわれた方で、なにか資料をお持ちの方はいらっしゃいませんか。……悲惨さにおいて見逃すことのできない大阪大空襲をぜひ私たちの手で正確に記録にとどめようではありませんか」と呼びかけた。

 体験記は続々と集まる。収録した冊子は40年以上にわたって9集まで出た。手記だけでなく、体験画も描いた。だが、集まった約450編の体験記の中に、朝鮮人のものは1編もなかったのだ。その訳を横山さんはこう考える。
 「戦災・空襲は在日朝鮮人にも過酷な体験だった。だが朝鮮人の場合は、社会の厳しい仕打ちや、必死に生きた生活苦、さらに敗戦後は民族差別や祖国の分断が加わり、過酷さの土俵が日本人よりはるかに大きかった」。だから、「日本人の体験文集活動に共感できなかったのではないか」。

 『創氏改名』(岩波新書)の著作がある水野直樹・京大名誉教授(朝鮮近代史)は、創氏改名の政策で名前を変えざるを得なかったという問題だけでなく、差別を受けることを恐れて日本人風の通称名で生きてきた在日朝鮮人も大勢いる、と指摘する。その上で語る。「大阪空襲の朝鮮人犠牲者を本名で追悼すれば、創氏改名を含む日本の植民地支配が朝鮮人にどんな被害をもたらしたのかを明らかにすることにつながり、一つの清算になる」

【注】朝鮮人の名前の読みは、聞き書きを進める空襲資料研究会が公表していない。

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