2020.07.10  私が出会った忘れ得ぬ人々(24)
        下保昭さん――冒険あるのみですよ
                  
横田 喬 (ジャーナリスト)

 一昨年に肺癌のため九十一歳で亡くなり、この八月七日が三回忌に当たる。水墨を主とする日本画家だが、言行一致の稀に見る潔い人だった。「画壇の腐敗」を糾弾して日展を飛び出し、独立。ヘリコプターを駆使して普賢岳噴火口の危険なスケッチに挑んだり、揚子江への波乱含みの船旅を試みたり。口癖の「冒険あるのみ」を地で行く画家人生を貫いた。

 私が下保さんを取材したのは今から三十一年前の一九八九(平成元)年のことだ。彼が四十年近く所属した日展を飛び出した翌年に当たる。三十五歳で審査員、四十三歳で評議員と、異例のスピードで地歩を築き、「次は芸術院会員」と声がかかった矢先である。翻意を促す先輩画家たちの再三の説得も、固い決意は変えられなかった。

 ――芸術院会員になる話が元。何十人もの偉い人の所を回って運動し、土下座してお願いしろ。これぞという大物には大枚の金を包め、とまで言う。そんな下らんことはやれん。会員になったからって、絵が上手くなる訳でなし。画壇なんて自民党と一緒。腐り切ってしもうてリクルート(注:八八年に発覚した政財界がらみの汚職事件を指す)並みですよ。

 痛烈だが、高ぶったり、衒ったりせず、嫌味がない。反骨は生得のものだ。締め付けられるのが何より嫌いで、旧制砺波中(富山県)に通った戦時中は、軍事教練を徹底的にサボった。それが祟って、学科や実技の成績はいいのに、志望する京都の絵画専門学校に入学できない羽目に。戦後の混乱で「日本画滅亡論」が囁かれる中、京都で画家人生をスタートする。

 画塾に一応身は置くが、月に一回の研究会に出席するだけで、戦火に疲弊した都市の貧民街を転々。親元からの仕送りは絵の具代と酒代で放埓に使い尽くす。二十三歳の時の五〇(昭和二十五)年、日展に『港が見える』を出品し、初入選。以後、『求職』『旧オランダ商館』『港』『河岸』が連続入選。四年後の日展で、『裏街』が待望の特選(白寿賞)となり、それから三年後に『火口原』で再び日展特選。生一本の性格で鼻っ柱が強く、権威を恐れない。画塾に通い出した二十代の頃、画壇の大立者・中村岳陵と派手にやり合い、名を上げた。

 ――私が日展に出した「失業者」という題の絵を「プロレタリア的な画題だから変えろ」と言う。私は「何だろうと、放っといてくれ」とやったから、さあ大変。でも、この一件で岳陵さんとは逆に仲良くなり、年に一回東京で会うと、向こうから抱き着いて来る程だった。

 下保(敬称略)は富山県の西部、散居村の景観とチューリップ球根栽培で知られる砺波市の旧地主の家に生まれた。祖父も、父も、自分の信念を通す人で、特に祖父は美術の方面に嗜みがあった。そんな影響もあって、小学生の頃から自然に絵筆を握った。「大きな自然に惹かれ、冬の寒い時分の空の色とか、光みたいなものとかを、よく描いたようです。」

 自然のエネルギーや風景に惹かれるのは、長じてからも同じ。冬が長くて色彩感に乏しい富山で育ったせいか、墨絵やモノクロが基調の岩絵の具の絵を好んで描く。黒々とした山影、草木の妖しいざわめき、台風の時の不気味な空の色が印象的な七六年日展出品画「颱」。自然のエネルギーが一種の妖気となって感銘を呼ぶ。「墨は一発勝負だから好きだ。一本の描線に生命のリズムが直に出るところがたまらない。」と彼は言う。

 八一年には、『近江八景・下保昭展』を催す。近江八景とは滋賀県・琵琶湖畔の美しい眺めを代表する八つの景勝地を指す。古くは和歌に詠まれる名勝(歌枕)で、近世では葛飾
北斎や安藤広重の浮世絵版画が名高い。近代には今村紫紅の意欲的な出世作が知られる。下保は舟を出し、ヘリコプターを駆使し、名勝をスケッチ。独自の境地を示す彩色画・水墨画で彼流の「近江八景」「琵琶湖十景」を制作。「近江八景」の連作は日本芸術大賞を受ける。この画業は、後年の「中国シリーズ」「日本の山水シリーズ」を準備する礎となった。

 五十代に入って、下保は中国の自然の景観に惹かれ、十年ほど毎年のように現地に渡っている。揚子江の波が描きたい一心で、重慶から武漢へ船旅をした時のこと。雄大な眺めの渓谷を夜中に通り過ぎたのに気づき、通訳を介して船長と強談判、一般客も乗った船を引き返させる荒業も演じた。
 ――おかげで、朝もやの渓谷の景観を百枚もスケッチできた。お返しにその晩、船の乗客・乗員二百何十人かに残らず酒を振る舞ってね。僕が黒田節を唸り、持参したブランデーのボトル半分を一気にあおったら、やんやの大喝采。日本の李白だなんて、おだてられました。

 八五年、「水墨桂林」「水墨黄山」の連作で芸術選奨文部大臣賞を受ける。
 京都に居ても、酒が入れば気分は高揚する。時には郷里の砺波地方が無性に恋しくなり、真夜中だろうが自家用車のハンドルを自ら握って走り出したくなる衝動を覚える。交差点が赤信号だろうが突っ走りかねない勢いだから、家族は心配でならない。運転させないよう免許証をどこかに隠されてしまった、という打ち明け話も楽し気に私に対し口にした。

 ――絵描きは冒険できなくなったら、終わり。自分のスタイルは絶えず壊していかなきゃ。
 が口ぐせ。九一(平成三)年には、長崎県普賢岳の大噴火後の火口のスケッチに出かける。ヘリを使い、マグマが躍動する最中、ぎりぎりまで接近。ヘリもろとも吸い込まれそうな危険を冒し、速写する。命がけのスケッチを基に「岩漿吐煙」など迫力ある連作を生む。
 「冒険あるのみ」の口ぐせそのまま、古希を迎えた九七年にも、ヘリを使う。郷里・富山県の黒部川上流や立山・剣岳などを上空から取材し、「黒部幻瀑」などの傑作を生む。墨の滲みなどが生み出す陰影を生かし、静謐でいて気迫のこもる深遠な水墨世界を現出する。
 
 九九(平成十一)年、富山市内に富山県水墨美術館が設立され、「下保昭作品室」が常設される。彼の作品百点が同県に寄贈されたのを契機に同美術館設立が決まった経緯があり、他に富岡鉄斎や横山大観・竹内栖鳳など近代の美術作家約三十人の作品も収蔵する。
 対面は一度きりだったが、下保さんは忘れ難い記憶を私の胸に刻んだ。「天衣無縫」そのままの懐かしいお人柄であり、機会があれば、ぜひ一献酌み交わしたい相手だった。
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