2020.07.16 私が出会った忘れ得ぬ人々(25)
          辺見じゅんさん――楽しようなんて泥棒根性
                
横田 喬 (ジャーナリスト)
 
 私の家の書架には、故辺見じゅんさんから頂いた署名入りの本が五冊並ぶ。頂いた本のうち、『男たちの大和(上)』『同(下)』は新田次郎文学賞を、『収容所から来た遺書』が「大宅壮一」「講談社」両ノンフィクション賞を受けている。辺見じゅんはペンネームで、本名は清水(旧姓は角川)真弓。父は角川書店の創立者で俳人・国文学者でもあった角川源義で、かの角川春樹(出版人・映画製作者・俳人)と暦彦(実業家・(株)KADOKAWA会長)は実弟だ。

 文筆の世界は実力勝負だから親の七光りは通じないが、なおかつ亡父・源義に多くのものを負っている、と彼女は素直に認めていた。代表作『男たちの大和』を書く気になったのも父の影響からだ。日本が太平洋戦争に突入する昭和十六年(一九四一)十二月、源義は国文学を学んだ国学院大学を臨時徴兵制度によって繰り上げ卒業。郷里の富山市に兵営を構える陸軍富山連隊へ、二十四歳の二等兵として配属された。南方戦線に行く間際に病のため留められ、命を拾う。昭和五十年に癌のため五十八歳で他界する間際に、娘に対し軍隊や戦争のことをぽつぽつ語り聞かせる。

 ――不器用な人だったので、手の上げ下げ、銃の扱い方、万事へた。おまけに眼鏡をしてインテリっぽく見えるので、よく殴られたらしい。当時のことを、戦友が次々召され、自分独り取り残された、と歌にも詠んでいます。父の鎮魂のためにも、太平洋戦争の重大さはきちんと書き残しておくべき、と考えました。

 太平洋戦争が始まった年に完成し敗戦の年に沈没した世界最大の戦艦「大和」を主人公に、苛烈を極める戦闘の実相を伝えよう、と思い立つ。「大和」の乗組員三千三百三十二人のうち運よく命を拾ったのは二百六十余人で、取材時に健在だったのは百五十人余り。普通の人間の目で見た戦のありさまを描こうと、取材対象は下士官・兵にしぼった。

 「ずるはするな」という父の戒めを拳拳服膺。取材に三年をかけて百十七人も訪ね歩き、七十六番目に出会ったのが四日市市に住む内田貢さん(当時六十九歳)だ。激闘のレイテ沖海戦で左眼を失う瀕死の重傷を負って入院。だが、山本五十六司令長官から形見にもらった短刀を「大和」に置き忘れていたことに気づき、病院を抜け出し、こっそり艦に戻る。「大和」はそのまま沖縄を指して出撃。公式乗組員ではない三千三百三十三人目として又もや死線をきわどくくぐり抜け、辛うじて命をつないだ奇跡の人物である。

 ――内田さんは、それまで一切沈黙を守り、伝記ふうの小説『山本五十六』を書いた作
家・阿川弘之さんでも会えなかった人。二度断られたのを押してお願いし、その劇的な体 
験をうかがった時、ああ、これで『大和』が書ける、とずっしり手ごたえを感じました。
 三年間にインタビューしたテープを起こすと四百字詰で八千枚。うち内田さんの分は三千枚を占める。作中の彼をめぐる一部始終は、正しく「事実は小説よりも奇なり」を地でいく波乱万丈ぶりを遺憾なく示す。(前)(後)二冊にわたる長尺のノンフィクション物の中身を要約するのは難事だが、辺見さんの労苦の一端を伝えたい一心で以下にあえて試みてみる。

 内田貢(敬称略)は日米開戦の昭和十六年に二十二歳の徴募兵として海軍に入った。身長百八十㌢・体重八十㌔の巨漢で柔道三段、「大和」の露天甲板での寒稽古で上段者の上官でも手加減せず投げ飛ばし、自身も柔道をたしなむ山本長官から剛直な個性を見込まれる。
 緒戦のハワイ海戦こそ華々しい戦果を挙げたものの、開戦半年後のミッドウェー海戦では事前に暗号を解読して待ち伏せる米機動部隊により虎の子の空母四隻を失う惨敗。直後の米軍のガダルカナル島上陸以降は、日本側は形勢が不利に傾く一方となる。

 ガ島攻防をめぐり連合艦隊の旗艦「大和」はトラック環礁に半年近く駐留。肩こりに悩む山本は力自慢の内田にしきりに揉み療治を依頼する。気軽に「内田君」と呼びかけ、心を許すふう。艶福家の彼には粋筋からの女文字の手紙がよく届き、堅物の内田を冷やかすように文の触りを読んで聞かすことさえあった。

 山本の肩こりは心中の鬱屈ゆえでは、と憶測したくなる。知米派として前任の海軍次官当時は米内光政海相とともに日米開戦に強く反対するが、運命は皮肉で連合艦隊を指揮する身へ。ミッドウェー海戦では兵力は日本側が圧倒的に優勢だったのに、情報が敵に筒抜けで思わぬ敗勢に。内田相手の語らいには、内心の苦渋をまぎらす効能があったのかも知れない。

 連合艦隊の旗艦が「大和」から同型艦の「武蔵」へ替わって退艦する折、山本は「長い間、世話になったから」と内田へ鞘に「五十六」と銘が入る短剣と茶掛けを形見に贈る。異例なことであり、内田が当の品を長官自身のように大切に思ったのも無理はない。
 山本は昭和十八年四月に前線視察に赴き、米軍機の待ち伏せ攻撃に遭って戦死し、元帥の位を贈られて国葬に。対米戦争に批判的ながら戦争反対を貫けず、航空重視の先駆者でありながら機動部隊中心に転換できず、日本海軍の悲劇を象徴する存在として終わる。

 一方、内田が乗る「大和」は翌年十月にレイテ沖海戦へ出撃。米軍の爆撃機や戦闘機の大群の四日間にわたる波状攻撃で直撃弾や無数の機銃掃射を浴び、死傷者は百五十三名にも上った。内田は至近弾の破片で左眼をやられ、腰を銃弾が貫通し、次の至近弾に吹き飛ばされて昏倒。戦死者の上に積まれ水葬になる寸前にうめき声を上げ、間一髪で命を拾う。

 それでも「大和」はなんとか危地を脱し、内田は病院船で内地へ送られ、呉の海軍病院で療養生活へ。翌二十年四月一日、米軍が沖縄本島に上陸し、「大和」は沖縄突入の海上特攻へ出撃。海軍病院を勝手に抜け出した内田は、軍港の上陸桟橋から雑踏にまぎれてランチに乗り込み、「大和」への無断乗艦に成功する。艦内の自分用のロッカーにあるはずの故山本長官形見の短剣が気がかりだったのだ。艦の柔道仲間らはその無鉄砲さにあきれながら、純な一途さに打たれて最下甲板の通路にかくまい、握り飯や水をこっそり差し入れる。

 運命の四月七日、「大和」が東シナ海の鹿児島県坊ノ岬沖にさしかかった午後零時半過ぎ、米機動部隊の戦闘機・攻撃機約二百機が四囲の上空から襲いかかる。さらに第二波、第三波と次々に来襲。機銃弾や爆弾が間断なく炸裂し、「大和」も高角砲や機銃で激しく応戦。
 激闘一時間半余、左舷中央に爆弾三発が、右舷中央に魚雷一本が、さらに左舷中部にも魚雷三本が次々に命中。艦体は左舷に大きく傾き、前後部の砲塔が誘爆し、瞬時に沈没する。艦長・有賀幸作中将をはじめ内田を艦内にかくまった柔道仲間の親友・唐木正秋ら乗組員三千三百三十二人のあらかたが「大和」と運命を共にし、海のもくずとなる。

 最下甲板の一隅に居た内田は空襲が始まると血が騒ぎ、親しい仲の唐木が詰める右舷後部の三番主砲のもとへ向かう。不自由な身の友を気づかう唐木の計らいか、いつのまにか彼は丸太にくくられていた。流れ弾が右足を貫通し、背中や胸に無数の鉄片が食い込んで肋骨が八本も折れ、命があるのが不思議なくらいの重傷をまたもや負う。
 現場海域には僚艦の駆逐艦二隻が健在で、大和の生存者の救助に当たった。内田はどう救助されたのか、覚えていない。超人的な生命力と不思議なほどの運勢の強さで、今度もまた死線をくぐり抜ける。探し求めた山本の形見の短刀は、終に行方知れずに終わった。

 満身創痍の体は「保っても二~三か月」と診断されながら、麻酔なしで大小百回近い手術を受け、奇跡的な回復を遂げる。四日市の開墾地へ入植したり、近所の「顔役」に凄みを買われ賭場での用心棒暮らしへ。戦災孤児を延べ十一人も引き取り、ちゃんと育て上げる奇特な振る舞いも。内田は戦後の生き様も波乱万丈だが、いちいちは紹介し切れない。

 「大和」沈没後、生き残った副砲長・清水芳人少佐は次のような「戦闘詳報」を綴る。
 ――(前略)今後残存駆逐艦等ヲ以テ此ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニハ、慎重ニ計画ヲ進メ、事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ要アリ。『思ヒ付キ』作戦ハ、精鋭部隊(艦船)ヲモ、ミスミス徒死セシムルニ過ギズ。

 通例の「報告」には類を見ない激烈な怒りが表出。沖縄突入作戦が唐突に下令され、「大和」以下の出撃が「思ヒ付キ」作戦であり、精鋭部隊が「ミスミス徒死」と恨みの念を吐露している。米軍の沖縄侵攻を知り、海軍軍令部総長・及川古志郎が昭和天皇に戦況を奏上した際、天皇は「海軍にもう艦はないのか、海上部隊はないのか」と質した。恐懼した及川総長が「全兵力を使用致します」と奉答。急遽、「大和」の特攻出撃が決まった経緯がある。援護の戦闘機群の十分な付き添いもなく、丸裸同然での無謀な出撃計画だった。辺見さんのペンは、当時のそんな帷幄の内情も見逃すことなく、入念正確に記録している。

 辺見さんの著作を基に二〇〇五年、戦後六十年記念作品として映画「男たちの大和/YAMATO」が制作された。弟・春樹氏の製作で、監督は佐藤純弥、出演は反町隆史・中村獅童・松山ケンイチら。興行的にはまずまず成功したようだが、こと「反戦平和」のアピール度では映像は文章の力に到底及ばなかった、と私は感じている。
 辺見さんは二〇一一年、七十二歳で亡くなった。


Comment
管理人にだけ表示を許可する
 
TrackBack