2020.08.20 私が出会った忘れ得ぬ人々(30)
西沢潤一さん――工学振興こそが地球を救う
     
横田 喬 (作家)

 この十月二十一日は西沢潤一氏の三回忌に当たる。氏は光通信の発案をはじめ高性能のトランジスタや発光ダイオードなどの優れた発明で、日本の半導体研究をリードしてきた独創性に富む工学者だ。学界の通説と衝突~異端視されて不遇な時期もあったが、ファイトと実力で道を切り開く。「工学こそ日本の立国の基礎」と説いた。

 もう四十年近くも以前になる。朝日新聞の一九八二(昭和五七)年二月五日付けの夕刊紙面に、私は半導体工学者・西沢潤一氏の業績を概略こう紹介している。
 ――東北大電気通信研究所教授で、静電誘導トランジスタ、光ファイバーなど半導体や光通信の分野での世界的な発明、開発で知られるのが西沢潤一(五五)。最近の発明の一つに高輝度、高効率の発光ダイオードがある。白昼の太陽光線の下で十分見える半導体製品の小光源で、すでに赤、緑、黄色光の三種を開発ずみ。

 例えば、数百個の発光ダイオードを束ね、現在の電球の代わりに交通信号灯として使うと、消費電力は電球のざっと百分の一。東北各県では交通信号灯に使う電力が、総電力消費量の数パーセントにも上る。広告灯などへの応用も可能なので、発光ダイオードが実用化された時の電力削減~省資源による社会的波及効果は大きい。「革新技術は、社会に対するインパクトが大きいんです。日本の科学にも独創的な芽は十分あるのだから、それをちゃんと育てていく社会的な体制が早くできてほしい」――

 この一文が活字になった翌日、築地の朝日新聞東京本社に詰める私あてに一本の電話が入った。壮年の男性の声で、紙面を読んで発光ダイオードの実用化に企業家として関心がわき、西沢先生に直接お話を承りたいので仲介してもらえまいか、という依頼である。住所・氏名をちゃんと名乗り、きちんとした話ぶりから、私は取り次いでもよかろうと判断。仙台の東北大電通研・西沢教授室へ電話を入れ、応対に出た女性に委細を告げて対処方をよろしく、と頼んだ。

それから数日後、西沢先生から『朝日』本社社会部の私あてに速達便の小包が届き、中身は松島産の生牡蠣である。過日の返礼と知ってご丁重ぶりに恐縮し、ご厚意をありがたく頂戴することにした。その生牡蠣を肴にする当夜の一杯は格別に美味かった。ほろ酔い機嫌の私はお礼を言上すべく、小包便に記された先生のご自宅へお礼の電話を入れた。当夜は深酔いしてしまい、会話の内容はまるで記憶がない。
 
 西沢氏はそんな私を面白い男と思われてか、当時刊行されたばかりのご著書『闘う独創技術』(日刊工業新聞社)を手渡したいから、と上京した際に会おうと提案された。それからまもなく、羽田空港ロビーで再会がかない、小一時間ほど対話した。その折、感じたのが風貌の立派なこと。眼光炯炯として鼻がぐんと高く、一見してただものではない。そして、語気の端々から、東北人らしい生まじめで一本気なお人柄をしかと感じとった。

 西沢(敬称略)は東北大工学部教授・西沢恭助の長男として仙台に生まれた。生まれつき体が弱く、少年の頃は「怠け者の夢想家で、よく劣等感にさいなまれた」という。旧制の仙台二中~二高を経て、敗戦の年の一九四五(昭和二〇)年に父と同じ道の東北大工学部へ進む。戦中・戦後の混乱期にぶつかり、勤労動員や食糧買い出しに追われ、高校~大学ではが十分にはできなかった。

 東北大工学部卒業後、電気通信工学者として知られる渡辺寧教授の下で大学院課程特別研究生として教えを受ける。同課程三年目の五〇(昭和二五)年、整流器や検波器などに使用される半導体ダイオードの研究を進める中で、極めて優れた整流特性を示す「pinダイオード」や「pinpトランジスタ」のアイデアを弱冠二十四歳でまとめる。

 その当時では信じられないほど高い特性を持つ半導体の誕生を意味し、この二つの発明は、その後の半導体工業分野の発展に大きく貢献する。当時の半導体ダイオードやトランジスタは、小さな電力しか取り扱えなかったし、周波数もたかだか音響領域どまりと信じられていた。だが、西沢の発明は当時の常識を突き破り、取り扱える電力範囲と周波数範囲を一挙に数桁にわたって拡大する画期的なものだった。彼はとことん実験を重視した。戦後まもない時期ゆえ、実験設備は貧困だし、研究試料も入手難という恵まれない条件下での独創的な発明発見である。

 が、「出る杭は打たれる」習いは学界も同様。pinダイオードの実験結果を物理学会で発表すると、米国崇拝色の強い学界の大勢は向こうの通説などを盾に拒否反応を示す。田舎の若輩視し、「そんなこと、あるわけない」と頭から批判する。学会誌に論文を出しても査読委員会に引っかかり、掲載までに二年もかかるありさま。

 そんな空気が影響してか、渡辺寧主任教授との不幸な関係に発展する。これぞと信ずる諸論文が一顧だにされず、教授の机の上に三年間も店晒しにされた。論文の一つは、彼の提出時期より三年遅れで向こうの学者が『米国物理学会誌』に大々的に発表した内容とほぼ一致していた。このことは、前記した取材の際にも彼の口から直接聞いた。むざむざ三年間も放置しておくとはなんて酷い、と私は義憤にかられ、「なぜでしょうか?」と尋ねた。彼は憮然として答えた。

 ――日本人に、そんな独創的な発見などできるわけない、と思い込んでいたからでしょう。私は焦燥感と無念さで夜も眠れず、気が狂いそうになった。ベートベンの交響曲などクラシック音楽のレコードを繰り返し聴き、ひたすら気持ちを静めるように努めました。
 彼は絵画も好きで、ルオーがご贔屓。画面に滲む懊悩が当時の精神状態と重なり、鑑賞が癒しにつながったらしい。後年、パリの美術館でルオーの作品「睡蓮」が逆さまに展示されているのを発見~館側に通知して『ル・モンド』紙に報道された逸話はよく知られる。

 ちなみに、渡辺寧教授は茨城県出身で東大工学部卒。東北大では外様に当たり、なまじ中央の空気に通じるだけに、西沢の扱いに微妙に影響したのかも。だが茨の時期を過ぎ、五二年に工学部助手となり、翌年には二十七歳の若さで一躍助教授に抜擢される。先輩の助手十一人をごぼう抜きする異例の昇進人事だった。その卓越した能力と研究への熱意を師の渡辺がやはり認めていたからだろう。

 二年前のpinダイオードの発明に話をもどす。彼の発明より十八日遅れてアメリカのゼネラル・エレクトリック社(GE)のロバート・ホールが同種の特許を出願。シリコン整流器が使われ始めて五年後の五五(昭和三〇)年、日本の各社は競ってGEと契約し始める。西沢は自分の方が早く特許を取っているからGEと契約する必要はないと各メーカーに連絡する。外貨審議会が動き出し、GEとの特許契約なしでpinダイオードの生産が日本でも可能になるという一幕もあった。

 西沢への風当たりが決定的に変わるのは、静電誘導トランジスタ(SIT)の発明に対する七四(昭和四九)年の日本学士院賞の授与であろう。大電流に耐えるSITは動作速度が速くて消費電力が少なく、99㌫以上の高効率の電力交換を実現する理想的な素子として、直流の電流送電から音響に至るまで幅広い需要が見込まれた。学者連中も学士院という権威には弱かった。

 西沢は米国で電子工学関係の特許を十四も取り、八三年に固体電子工学のノーベル賞とされるモートン賞を、そして二〇〇〇年には米国電気電子学会が出す電子工学部門の最高章エジソン・メダルを日本人として初めて受けた。国内では八〇年に大河内記念技術賞、八五年に朝日賞を受賞。八三年に文化功労者に、八九年には文化勲章に輝く。素人考えでは、ノーベル賞を受けていないのが不思議なくらいだ。九〇年に東北大学長に就いた後、岩手県立大学長や首都大学東京学長も歴任している。

 長い研究人生を基に、氏はこう提言している。
 ――独創的な仕事というのは、確実に個人の資質に依存する。逆に言えば、資質を持った人にしか独創的な仕事はできない。暗記主義の教育から若者たちを解放し、理解を中心とした教育をして、独創性を引き出すようにしてやるのが大人たちの務めだ。
 ――真の工学とは、自然現象を有効利用し人間の役に立つようにする学問。人間が生きていくには否が応でも自然破壊を伴うが、それを最小限にするための学問と言ってもいい。美しい自然と大切な資源を子々孫々に残しておくためにも工学は振興しないといけない。

 西沢氏は二〇一八(平成三〇)年、九十二歳で亡くなった。私は氏のほろ苦い述懐に接し、科学の面でも日本人のいじましさ、情けなさが存在することをつぶさに知った。その提言にある「独創性を引き出す」よう、斯界のリーダーの方々には次代の牽引役を然るべくお願いしたい。

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