2020.08.25 私が出会った忘れ得ぬ人々(31)
北裏喜一郎さん――坊主にはエライもんがおるでぇ
 
横田 喬 (作家)

 人を肩書だけで軽々に判断すると、間違う場合がある。北裏喜一郎さんは野村証券元社長という経済人だが、哲人の風格さえ漂う深い見識を感じさせた。青年期に胸を患い禅門に学んで名僧知識と接し、人生の機微に触れる。この人とじっくり話し、私は人間の在り方について、貴重な示唆を数々頂戴した。

 もう三十余年も前になる。朝日新聞の記者だった私は日本橋の野村證券本社で彼をインタビュー(記事は五八年四月一六日付け夕刊一面)した。午後一時半から一時間の約束が、なんと三倍の三時間にも延びた。生い立ちや社会生活などをめぐる本題から脱線し、北裏さんが青年時代に指導を仰いだ希代の禅僧・山本玄峰師の思い出話にとっくりふけったためだ。やりとりが約束の一時間に迫るころ、なんの拍子か北裏さんはぽつんとつぶやいた。
 
――坊主にはエライもんがおるでぇ。
 それまでの標準語調の口ぶりが急に関西弁へ変わる。水を得た魚のように能弁になり、北裏さんは時間におかまいなく、山本玄峰師が生前いかに「エラかった」かを延々としゃべった。面白い逸話が次々と飛び出し、私は飽きることなく有難く拝聴した。
 
 北裏さんは一九三三(昭和八)年に旧神戸商大(現神戸大)を出て野村証券に入社するが、八年後に肺結核を発病する。日本がちょうど太平洋戦争に突入する時期とも重なり、前途を半ばあきらめ療養を兼ね静岡県三島市の臨済宗・龍沢寺に三年間、身をあずける。参禅するため法衣をまとって読経三昧に明け暮れ、素足にわらじ履きで托鉢にも出かけた。
 
 三島といえば、「〽三島の女郎衆はノーエ」と来る民謡『ノーエ(農兵)節』で有名な三島遊郭が戦前は名所だ。一方、龍沢寺住職の玄峰師は熊野本宮大社や湯の峰温泉で知られる和歌山県本宮町湯の峰の生まれ。十代のころは熊野川の筏流しをやり、遊里にも出入りした。野育ちの磊落さがあり、高年になっても三~四合の晩酌を欠かさぬ酒豪でもあった。遊郭への偏見など一向になく、郊外の寺から繁華街外れの三島遊郭を指し、師を先頭にてくてく托鉢行へ向かう。北裏さんは言った。
 
――(路地へ現れた女郎衆は)師匠にだけわっと群がり、我先にお賽銭を差しだす。人の値打ちが、もうパッと一目で判るんやな。お付きの衆らは、みんな指をくわえてるだけ。(修行をしっかり積んで)早う、ちゃんとお賽銭がもらえる身にならんとあかん、と思うたもんや。
 
 玄峰師の逸話では、師がかかわった終戦秘話も外せない。敗戦当時の鈴木貫太郎首相(元海軍大将)と昵懇の仲で、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」終戦工作に鋭意専心するよう書簡で励ました、と言われる。この名セリフが昭和天皇の終戦を告げる玉音放送で使われたのは、周知の通り。

 玄峰師は六一(昭和三六)年六月三日未明、九十六歳で遷化する。前年暮れに狭心症の発作で倒れ、一か月後に再び容態が悪化するが、持ち前の気力で再々持ち直す。四月半ばに絶筆を揮毫し、五月下旬から絶食を始め、六月二日夜に「旅に出る。支度をせい」と言い、意識が途絶えた。絶食に入ってまもなく、玄峰師は北裏さんに「遺言がある」と伝えて枕元に呼び寄せ、こう言い残す。
 
――アメリカは肥った豚じゃ、貪欲で切りなく喰い尽くそうとする。ロシアは飢えた狼じゃ、相手が弱っとると見ると襲いかかる。どっちも世界の人々に仇をなす。ようく心することじゃ。
 ――地球は、どんどん裸になるばかりじゃ。木をどしどし植えてやらにゃ、あかんよ。
 
 当時の日本は、本格的な高度成長に入る前である。「公害」とか「地球温暖化」なんて、だれの念頭にもなかった。北裏さんはこの遺言を受け、後述するニューギニアでの熱帯雨林伐採跡地での人工造林事業に側面から尽力するに至るが、玄峰師の卓抜した先見の明にはただただ驚くほかない。

 玄峰師の回想談が一段落して、北裏さんは少々ナゾめくこんな言葉をつぶやいた。
 ――私の郷里(太平洋に面し、元カナダ移民らの異郷めく「アメリカ村」で知られる和歌山県美浜町)では、子供のころ「首取りごっこ」という遊びがあった。ニューギニアの子供の遊びにそっくりなのがあり、細かいところまで全部同じ。元々日本人はボートピープルやし、きっと向こうから伝わったんやな、と合点がいった。

 その折は正直言ってピンと来ず、何やら突拍子もない話だなと感じただけである。それから数年して、パプア・ニューギニアと縁が深い親しい知人とたまたま話し込むうち、そのナゾが解ける。

 大手製紙会社に勤める彼は中年を過ぎ、ニューギニア政府と合弁の子会社へ出向した。現地の熱帯雨林は製紙の原料用などに年々大量に切り出され、あちこちがハゲ山・ハゲ地状態に陥っている。その伐採跡地に似通う樹種の苗木を大量に植え、樹林の原状回復をめざす野心的プロジェクトの現地責任者が彼の役割だ。苗木は十年も経てば高さ十㍍ほどの大木に育つ。示した写真には、無数の高木がうっそうと生い茂る様子が映り、なるほどと合点がいった。

 現地では言うに言われぬ苦労がある。作業員は気心のよく知れぬパプア・ニューギニア人が大半。若年層の婚礼や親族の葬儀があれば、ジャングル奥地の集落へ出かけねばならない。ヤシ酒を酌み交わし、見よう見まねで踊りの輪にも加わる。雨季には土砂降りの豪雨に襲われ、一台数千万円もする大型ブルドーザーが泥地にはまり故障する。その点検~修理には、日本のメーカー側との折衝が欠かせない。苦労話が一段落し、思いもよらぬ北裏さんの名が彼の口から飛び出す。

 ――(社長・会長職の)エライさんでは、北裏さんだけが現地にまで足を運んでくれた。飯場もどきの汗臭い作業員宿舎なんかも覗いて、現場の苦労を肌で知ろうとした。
 実は、高度成長期の頃の野村証券は望みのあるベンチャー企業に対し積極的に融資し、財政的な面倒をみていた。北裏さんの前後には瀬川美能留や田淵節也といった名の通った経営者が在職しているが、パプア・ニューギニアの現地には足を運んでいない。

――北裏さんは一見地味だが、歴代トップの中でも飛び切り傑物だな。
 彼は口を極めてそう称賛し、私もうなずいた。ほんとに世間は狭い。彼とのやりとりで、頭の片隅にずっと引っかかっていた「首取りごっこ」のナゾが一遍に解ける思いがした。
 長くなるので、今回はここまで。次回にナゾ解きの顛末や北裏さんの人物像の詳細を述べる。ちなみに、北裏さんは一九一一(明治四四)年生まれ~一九八五(昭和六〇)年没。

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