2020.09.01  私が出会った忘れ得ぬ人々(33)
   阿部裕行さん――先進的な市政運営に注目

横田 喬 (作家)
  
 東京の多摩地域南部にあるベッド・タウン、多摩市の先進的な市政運営が衆目を集めている。「非核都市宣言」制定と「公契約条例」施行がそれ。意欲的な市政運営で注視される阿部裕行市長は、私の旧知の人だ。
 東日本大震災で福島第一原発が炉心溶融事故を起こし、周辺の環境に深刻な被害をもたらした。その「3.11」の教訓から多摩市は二〇一三(平成二五)年、「原発ノー」を謳う「非核平和都市宣言」を制定した。「核兵器廃絶」と「脱原発」をめざす同市の「宣言」は、脱原発に関してこう記す。

 ――安全といわれていた原子力発電所から、一度事故が起これば大量の放射性物質が拡散され、大事に育て築いてきたものが、たちまち奪われる。私たちは、人と人との絆を大切にし、原子力に代わる、人と環境に優しいエネルギーを大事にしていきます。
 
この「宣言」は、市民の声を反映する仕組みで決まった。市議会では自民・公明両会派が難色を示すが、阿部市長の説得が功を奏し、自公の八人を除く保守系を含む十六人の議員が賛成して先進的な内容の「宣言」が成立する。

阿部氏は学生当時、核科学者・故高木仁三郎氏の原発苛酷事故の危険性に対する警告を学んでいる。東日本大震災の折、原子炉メルトダウンを直感し、すぐ対策本部を設けて放射能対策と福島からの避難者受け入れ態勢を整えた。市内の小中学生や保育園児らに対する放射性物質への防護対策を通達し、福島の被災地への救援措置も直後に実行している。

原発被災のつけは、多摩市にも早々に回ってくる。東京電力が電力需給の制約から五回にわたり一方的な「計画停電」をおこなったのだ。市当局や市民が何も知らされぬまま、市域の半分は突然真っ暗になり、暖房は利かぬ、病院では腎臓透析をどうしてくれる、と怒りや苦情が市役所に殺到する。対応策にほとほと困惑したそうだ。阿部氏は言う。
――原発事故が人々の日常の暮らしをいかに脅かすかを、まざまざと実感できた。原発に依存することの危うさを、市民たちが皮膚感覚で味わういい体験になった、と思います。

 多摩川の南岸にある多摩市は、市域の六割方が高度経済成長期にニュータウンとして造成された住宅都市だ。阿部さんに会うため一七(平成二九)年、私は随分久しぶりに同市を再訪。私鉄線の「聖蹟桜ケ丘」と「多摩センター」の両駅前通りの壮観さや高層建物の林立ぶりに目を見張った。彼は市の当時のホームページに「市長コラム――多摩の風」と題し、こう記す。
――「多摩市には街路樹が二万本ある(隣の日野市は約三千本)」「多摩市民の健康寿命は男八三・一六、女八五・九五と共に都内二十六市随一です」。

 多摩市がもう一つ注目を浴びるのは、画期的な内容の「公契約条例」の制定~運用だ。この条例は阿部氏が市長に初当選した翌年の二〇一一(平成二三)年、市議会各会派を根気よく説得し、全会一致の賛同を得て成立した。条例のねらいは、市関連の公共サービスを担う人々の賃金水準や労働条件を守ることだ。

条例運用のため、学識経験者一人と事業所側・労働者側から各二人で構成する「公契約審議会」を設置。業種ごとに適正な労働賃金、たとえば「時給八百ン十円也」と定め、受注業者はこの基準を上回る賃金を支払わねばならず、三か月に一度、市に対し下請けを含めた全ての労働者に賃金をいくら支払ったか報告するよう義務付けられている。

 長年にわたる財政削減で担い手不足が深刻なのが公共工事の現場だ。建設業界では、賃金低下や雇用条件の悪化が続いて、若年労働者が急速に減少。全体の一割程度にまで落ち込み、技能の継承が危ぶまれている。一二年に起きた山梨県の笹子トンネル崩落事故を機に始まったインフラの安全対策の中で、予算の削減や熟練した人材の不足が改めて浮き彫りになった。
 
危機感を抱いた国は一五年、公共工事の実態を調査。全国の自治体の四割以上が、国の定めた適正な入札予定価格を違法に切り下げていた実態が明らかになる。そのしわよせが悪影響をもたらし、将来再びトンネル崩落など大事故が起きては大変だ。危機感を抱いた国は、担い手を確保し工事の安全性を守るため、違法行為を撤廃するよう全国の自治体に強く要請した。

阿部氏は言う。
 ――公共サービスへの財政負担は確かに増えるが、技術者や労働者にしっかり働いてもらわないと、良質なもの作りはできっこない。工事や介護・教育などに関わる地域の産業を守るためにも、働く人々の労働環境を改善することが何より大切です。
 
一六年二月に放映されたNHKの「クローズアップ現代」は多摩市のこの条例を自治体の先進的な取り組みの一例として紹介。番組に登場する多摩市関連の三次下請け業者は「(公契約条例のおかげで)手取り収入は一・五倍位に増えた」と証言した。発注事業の対象は原則五千万円以上だが、市長の裁量で一千万円以上から可となり、事業らしい事業は全て含まれると言っていい。働く人々の懐が豊かになり、その分が支出に回れば地域経済の活性化にもつながっていき、めでたい限りだ。
 
そして、多摩市が市政運営のスローガンに掲げるのが「健幸まちづくり」。市民みんなが健康で幸せに暮らせる街づくりを、との意気込みだ。庁内の横断的な取り組みを図るため、「健幸まちづくり政策監」という常勤特別職を一六年に条例で設け、福祉政策に詳しい若手キャリア職員の派遣を厚労省に要請。東京の自治体では初めての試みで、赴任してきた女性職員は市長の分身として活発に動き、市内の民間有志による福祉活動「子ども・だれでも食堂」の支援などに意欲的に尽くした。

 阿部氏は二〇一〇年、現職市長の引退に伴う多摩市長選に共産党を含む革新系統一候補として出馬し、保守系の他の二候補にせり勝って初当選。前記したような実績を着実に積み重ね、再選時・三選時は他候補をよせつけず、信任投票さながらに圧勝している。が、同市での真の「市民派」市長誕生の秘密を解くカギは、二〇〇二年の市長選にある。

 当時の多摩市長が産廃業者に指名入札の便宜を図る見返りに現金約八百万円を受け取ったとして警視庁が収賄容疑で逮捕。まもなく辞表が提出され、後継者選出へ市長選が告示される。市議会多数派の自民・公明などは、市役所の女性幹部職員を後釜に擁立。一連の動きに対し、地元住民の怒りが爆発。対抗馬に据えられたのが阿部さんだ。

 彼は三十代半ばのころ、長男が通う多摩第二小のPTA会長を務めている。三人の子持ちで夫婦共働き、家事や子育てと日本新聞協会勤務の仕事を両立させている人物としてマスコミに紹介されたのが発端だ。学校側と信頼関係を築き、親子連れでの田植えや稲刈り行事を企画。近くの多摩川へサケの稚魚を放流する環境教育の実践などもPTA主導で試みた。

 市長選出馬に妻は大反対し、本人も当初はためらった。無名の身で当選する当てはないし、落ちて勤務先がクビなら路頭に迷いかねない。が、「あなたしかいない」という皆の必死の説得が土壇場で功を奏する。いざ選挙戦は出遅れが響き、本命の女性候補に大差で敗れる。が、知名度のある他の落選二候補を上回る九四四五票を集めて次点に入る善戦だった。

選挙費用約四百五十万円はほぼ全額を街頭や集会などでのカンパ活動で賄った。選挙終了後、中心メンバー三十余人が編んだ分厚い報告書には彼らの真情や並々ならぬ苦労が随所ににじみ、一読して度々胸が熱くなった。後々に阿部さんが正真正銘の「市民派市長」として名乗りを上げる素地はこの時に生まれた、と見ていい。

 阿部さんと私は一九八五(昭和六〇)年当時、国家秘密法(通称スパイ防止法)に対する反対運動を通じて知り合った。彼は情報公開をめざす立場から運動に参加し、「国家秘密法に反対する市民ネットワーク」のリーダー格だった。私は反対運動を伝える報道記者としてひんぱんに接触し、同憂の同志として親密な仲になる。ごく普通の市民感覚を生かした斬新なPR活動が目覚ましい成果を挙げ、主婦連や他の市民団体などとの連帯の効果も相まち、中曽根内閣当時の自民党タカ派は最終的に法案の提出を断念する。

 三十余年ぶりに再会した阿部さんは、さっそうとしていたその昔と少しも変わっていなかった。女性秘書などへの口の利きようもていねいで、高ぶったところはおよそない。車の運転と写真撮影のため同行した連れ合いはその人柄と見識にすっかり感心し、帰路に「もっと大きな舞台で活躍してほしい人ね」と漏らした。私も無論「異議なし!」。「出たい人より、出したい人を」ぴったり。自治体の意欲的経営で培った貴重な体験と識見を国政の場なりに生かしてほしい、と切に願う。
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