2020.10.02  私が出会った忘れ得ぬ人々(34)
        春日野清隆さん――品格と風情のある力士を育てたい
            
横田 喬 (ジャーナリスト)

 春日野清隆さんは、日本相撲協会理事長として一九八五(昭和六〇)年、JR両国駅前に大相撲の殿堂・現国技館を借金なしの工費百五十億円で見事に建設した。相撲界の基盤を盤石にした功労者だ。戦後まもなくの現役当時は技能賞九回という無類の業師上がりの名人横綱・栃錦として鳴らし、優勝十回。名力士にして、かつ名伯楽という二役を演じた稀有の人物と言っていい。

 私が大相撲のテレビ中継に熱中し始めたのは五五(昭和三十)年辺りからだ。戦後日本が高度成長を迎える直前で、大相撲は「栃若時代」と呼ばれるブームに沸いた。技能賞九回という稀代の業師・栃錦は横綱まで張り、正攻法に切り換えて変身し、優勝十回。当時は東京で学生生活を送っていたが、夕方になるとそわそわし、寄宿先の近くの中華料理店へ出かけ、ラーメンを一杯(確か三十円)注文。テレビの画面にくぎ付けとなり、力士たちの激しい攻防に胸を躍らせた。

 その頃の土俵の主役は、横綱に昇進したばかりの栃錦と関脇・若乃花だ。二人とも身長が百八十㌢足らず、体重は百㌔少々の小兵。当時の角界は、横綱が千代の山・鏡里・吉葉山、そして大関や関脇では大内山・三根山といった巨漢力士が居並んでいた。が、小躯の栃・若両者はこれらの大男たちと互角に戦うどころか、翻弄~なぎ倒したものだ。

 栃錦は内掛けや二枚蹴りなどが得意で、「名人」「技の展覧会」と呼ばれ、技能賞をなんと五場所連続を含む九回も受賞。若乃花は強靭な足腰で呼び戻しなど大技を揮って「異能力士」の名があり、三賞を五回受け、平幕時に横綱を破る金星も五個得ている。その栃・若両者の直接対決は互いに秘術を尽くし合い、片時も目の離せぬ好勝負になり、相撲ファンの血を沸かせた。この二人が存分に活躍する五〇年代が世に「栃若時代」と称えられ、戦後の大相撲の黄金期とされるのも納得がいく。

 さて、「栃若」対決のピーク時からざっと三十年後の八五(昭和六十)年、『朝日新聞』記者だった私は元横綱・栃錦こと日本相撲協会理事長・春日野清隆さんをインタビューする機会に恵まれる。氏は取材に応ずる条件として、「(朝稽古最中の)午前六時ちょうどに部屋へ来るように」と告げた。さすがは角界のトップ、語気に有無を言わさぬ断固とした響きがあり、「はい」と承るほかない。

 早春のころの当日、未だほの暗い朝五時に横浜・青葉区の自宅へ会社からハイヤーを回してもらい、高速道路を使い三十分余りでJR両国駅前に到着。運転手さん共々立ち食い蕎麦で腹ごしらえし、両国国技館からほど近い春日野部屋を訪ねる。若い力士たちが汗まみれで激しいぶつかり稽古を交わす最中、力士人生や相撲道にまつわる含蓄のあるお話を二時間余り伺った。触りはこうだ。

 ――「角界は日本人だけの純血がいい」と説く親方衆もいるが、ワシはそうは思わん。来る者は拒まず、異色の血も交え切磋琢磨しつつ全体がレベルアップすれば、それでいい。
 ――今は家庭での食生活が成ってないから骨格が脆く、新弟子がぶつかり稽古ですぐ骨折したりする。毎食に目刺し五匹を頭から食わす食事の改善だけで、ニ~三年はかかる。
 ――力士の丁髷は武士と同じで、力持ちの紳士と言ってもいい。それなりの品格と風情を具える力士たちを育成していくのが私ら先輩の役目、と思う。

 当時ちょうど落成したばかりの現在の両国国技館は工費百五十億円を借金無しでまかない、話題を呼んだ。詳しい経緯は後ほど記すが、その資金捻出の苦労話をあれこれ聞くうち、その出来物ぶりに深く敬服する。その昔の名人横綱・栃錦は、今や名理事長・春日野へ見事に変身していた。

 栃錦(敬称略、本名・大塚清)は東京都江戸川区小岩の傘職人の次男に生まれた。子供の頃から体格が良く運動神経に優れ、スポーツは何でも得意で、学業成績も良かった。近所の人が紹介し、小学校を出た翌年の昭和一三(一九三八)年に春日野部屋へ入門する。本人いわく「当時、日の出の勢いで連勝記録を更新中の横綱・双葉山関に憧れた」。

 部屋の師匠・春日野親方は力士時代は栃木山と名乗り、栃木県出身の第二十七代横綱。一六九㌢、一〇一㌔の小兵ながら、立ち合いの妙と筈押しの神技で鳴らし、大正期の名横綱と称えられる人だ。横綱在位十四場所で百十六勝八敗、勝率はなんと九割三分五厘というから、驚く。「普段は温厚そのもので争い事は好まず、心底敬える人だった」。

 入門後まもなく親方の付き人となるが、酒豪の春日野は杯を傾けつつ相撲談義にふける。剛力の相手に褌をつかまれたら、どう切るか。大きな者の懐に、どう入り込むか。四十八手の中の難しそうな技を手取り足取りていねいに説く。酒の燗を付けながら、師匠の話にじっと耳を澄ます。「同じことを詳しく幾度も聞かされるから、いやでも頭に入る。後々の土俵人生に、うんと役立った」。

 力士の関門の十両入りは戦争中。両国の国技館が軍用に接収され、後楽園球場で俄か造りの“青空本場所”に。「敵機襲来の警報で、取り組みが二日も延びたのは忘れられない」。戦後も国技館は米軍に接収され、受難が続く。明治神宮や浜町公園で“ジプシー興行”を余儀なくされ、「吹き曝しだから、雨天中止。冬なんか寒かったなあ」。

 土俵を変幻自在の技で盛り上げ、四七年六月場所に幕内入り。反り技などは栃錦が使うため四十八手に入ったとさえ言われ、平幕~三役の四年間に技能賞を九回受け、協会から特別表彰を受ける。翌年九月場所に十四勝一敗で初優勝し大関昇進。二年後の五月場所と九月場所に共に十四勝一敗で連続優勝を決め、場所後に晴れて第四十四代横綱に昇進する。

 しかし、翌年五月場所で横綱昇進後初の優勝を果たした直後の巡業中に蓄膿症と慢性気管支炎で体調を崩し、続く九月場所は七日目から初土俵以来初の休場へ。次の優勝まで二年ほど低迷し、引退説まで飛び交う。が、休養と稽古不足で三十㌔ほど増量した体を逆に生かす「押し」「寄り」の正攻法の相撲に切り替え、五九年三月場所で「奇跡」と言われた復活優勝を遂げる。同じ力士がこれほど取り口を変化させ、かつ成功した例は稀だろう。
 ――五体満足なんてなく、医者の言う通りやっていたら務まらない。(患部を)自転車のチューブでぐるぐる巻きにして、なんとか取ったこともある。

 復活優勝以降は引退する六〇年三月場所までの七場所とも各十二勝を下回ることなく通算九十五勝十敗、勝率九割五厘という驚異的な強さを発揮する。が、翌五月場所で初日から二連敗すると、「横綱が衰えてから辞めるのは芳しくない」という亡き師匠の言いつけを守り、即座に引退を表明。直前の場所では十四勝一敗、優勝次点の好成績を収めており、余力を保っての潔い引き際だった。
 長くなるので、以降は次回に譲る。


■短信■
絵画展「靉光と同時代の仲間たち」

「靉光と同時代の仲間たち」と題する絵画展が、10月10日(土)から12月13日(日)まで、群馬県桐生市の大川美術館で開かれます。同美術館と広島市現代美術館の共催です。
 靉光(あいみつ。1907~1946)は広島生まれの画家。1944年に応召され、敗戦直後に中国・上海で戦病死しました。日本におけるシュールレアリズムの先駆者と位置づけられていますが、戦時下にあっても戦意高揚のための戦争画を描くことを潔しとせず、「精神の自由」を求める画業に徹した、とされています。
 靉光の周辺には、数は少なかったものの、やはり、時流に乗ること拒んだ画家仲間がいました。主催者は「戦後75年を機に、戦時を生きた画家の戦中および戦後間もない時代の作品を見つめなおし、今なお輝きを失わない絵画の魅力に迫ります」としています。
 
展示される作品は、広島市現代美術館所蔵作品を中心に約50点。靉光の代表作の一つ『梢のある自画像』(東京芸術大学所蔵)のほか、長谷川利行の『靉光像』や、丸木位里、山路商、難波田龍起、井上長三郎、鶴岡政男、吉井忠、森芳雄、松本竣介、寺田政明、麻生三郎らの作品です。月曜日は休館。群馬県教育委員会など後援。

入館料は一般1000 円、高大生600 円、小中生300 円。

大川美術館は▽東武浅草駅より伊勢崎線赤城行き「特急りょうもう号」に乗り新桐生駅で下車。駅よりタクシーで約10分▽JR桐生駅より徒歩約13分▽上毛電鉄西桐生駅より徒歩約8分。美術館の℡は0277-46-3300
  (岩)

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