2020.10.12  私が出会った忘れ得ぬ人々(35)
        春日野清隆さん(続)――イマダ、モッケイタリエズ

横田 喬 (ジャーナリスト)

 私が大学生だった当時の一九五〇年代半ば、大相撲は「栃若時代」と呼ばれる熱狂的ブームを迎えていた。主役は横綱に昇進したばかりの栃錦(後の春日野親方)と関脇の若乃花だ。二人とも身長が百八十㌢足らずで、体重は百㌔少々の小兵。その両者が番付上位に居並ぶどでかい巨漢力士たちを手玉に取り、次々なぎ倒すから、相撲ファンは沸きに沸いた。

 栃錦は好敵手・若乃花とは五一年五月場所での初対決から常に熱戦・好勝負を重ね、千秋楽での両者優勝圏内の対決が五回(相星決戦が二回)もあった。六〇年三月場所までの四十場所間で因縁の対戦は三十四回実現し、栃の十九勝(うち不戦勝一)十五敗。春日野さんは言った。
 ――互いに負けてたまるかとライバル意識で切磋琢磨し合った。二人の相撲っぷりが時代の進運にぴったりしたんだろうな。

 「栃若時代」が去った後に「柏鵬時代」が訪れる。軽量の業師同士の組み合わせから、大鵬・柏戸という巨漢同士の両横綱の時代へ。その移り変わりは「安保闘争」の激動する時世から「所得倍増」の高度経済成長時代へ移行するタイミングともぴったり重なる。「安保世代」に連なる私が「栃若時代」への思い入れが強いのも無理はない。

 師父と仰ぐ親方(元横綱・栃木山)と養子縁組を結んだ栃錦は引退後、次代の年寄・春日野として部屋の経営を受け継ぐ。相撲協会の運営にも関わり、弱冠四十九歳で理事長の要職へ。就任当時は協会内部に派閥争いがあり、短命政権視する向きが強かった。が、派閥に捉われぬ公平な立場から若手のやる気のある親方を積極的に協会幹部に登用。角界の興隆発展に尽くし、七期十四年の長期政権を全うする。

 業績の最たるものは、旧蔵前国技館の二倍の規模を持つ新しい両国国技館の借金なしでの建設だ。百五十億円に上る建設資金を用意すべく、あの手この手を工夫する。建設用地に当て込んだのは、当時大赤字に悩む旧国鉄の所有地。相撲協会は蔵前に所有地があり、蔵前が両国より地価が高い時期を見計らい蔵前の土地を売って両国の土地を購入し、この差額で資金の一部を手に入れる。
 協会の財政を考え、親方衆や力士たちの給与節減にも努めた。資金集めのため坪当たり二千五百円で債券を売り出し、親方らは身銭を切って購入した。「協会の主軸が戦後の苦境を乗り切った体験を共有するからこそ、やれた。伝統って有難いな、とつくづく思う」。

 こんな逸話も。工事を引き受けた鹿島建設が当初出した建設費の見積もり額は百六十一億五千万円。端数の十一億五千万円を値引きさせるべく、協会ナンバー2の二子山親方(元横綱・若乃花、春日野の後任の理事長)と二人で同社社長に会いに行く。「相撲取りは相手を負かすのが仕事。相撲では横綱に五人掛かりというのがあり、今日は社長に『栃若』二人掛かりで負かしに来ました」と機転のユーモアでくすぐり、思い通りの値引きにまんまと成功している。

 春日野理事長が「土俵人生で一番の財産」と振り返るのは、初土俵を踏んだ三九(昭和一四)年一月場所の四日目の出来事。花道の奥でたたずむうち、世紀の大一番の劇的な一瞬を目の当たりにする。「不世出の名横綱」双葉山が前頭四枚目・安藝の海に外掛けで敗れて六十九連勝で止まった瞬間である。

 ――思いもよらぬ伏兵の大金星に国技館が大混乱し、大歓声で沸いた。信じられん思いで、一瞬頭がボーっとした。双葉山関は土俵入りが神々しく、間近に仰ぐだけで胸がジーンとしたものだ。
 連勝が69で止まった後、双葉山は「イマダ、モッケイタリエズ」と友人に電報を打った。木鶏は木製の闘鶏を指し、「強い闘鶏は、木彫りの鶏のように動かず泰然としている」(『荘子』)
ことの例え。

 双葉山は子供のころの事故で右目が半失明状態だった、という。「打倒双葉」を言い交す出羽一門は「右足を狙え」を合言葉に対策を研究。安藝の海は、双葉が右すくい投げに来るところを左外掛けで対抗し、双葉の体が先に落ちて劇的な結末を迎えた。私は栃・若とほぼ同時代に活躍した「江戸っ子力士」の元関脇・出羽錦(引退後は年寄・田子ノ浦)にも当時の記憶を確かめている。彼は、こう言った。

 ――相撲は気持ちが七で、力は三。(相手に呑まれて)自分でダメだと思ったら、もうダメ。禅の修養から、双葉関は「オレは絶対負けないんだ」と思い込んだとたん、無敵の強さを発揮しだした。「心・技・体」の順序通りで、やっぱり「心」が一番肝心だな。

 春日野さんは九〇年に脳梗塞のため六十四歳で亡くなった。故郷の江戸川区南小岩に近いJR小岩駅の改札前に、横綱当時の栃錦が土俵入りする姿をかたどった銅像が建てられている。

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