2020.11.04  私が出会った忘れ得ぬ人々(37)
          高野悦子さん――作品の良し悪しは心で感じる

横田 喬 (作家)

 東京・神田にある映像文化の殿堂「岩波ホール」の切り回し役を長らく務めた女性だ。若くしてパリの高等映画学院へ留学。映画制作のノウハウや作品の良否を見極める眼を培う。第三世界の国々などに埋もれていた名作を数々輸入~上映し、海外の映像文化の紹介に大いに尽くした。

 古書店街の神保町交差点角のビル十階にある岩波ホールには随分お世話になった。故・宮城まり子さんが撮った「ねむの木の詩」やポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の「大理石の男」、そしてインドなど第三世界の国々の隠れた名作・佳作の数々。多忙な記者生活の合間にここへ時たま通い、私はたくさんの感動をもらっている。

 今から三十年ほど前の一九八九(平成元)年、この岩波ホールを切り盛りする総支配人・高野悦子さん(当時六十歳)の取材がかなった(記事は九月一九日付け富山版)。旧満州生まれの彼女の亡父は富山県出身で、十五歳で引き揚げてきた御本人も同県の旧制魚津高女(現県立魚津高)に一時期学んでいる。大の富山びいきで知られるだけに、富山県人で六つ齢下の私は、心強い姉貴分に会いにいくような心地がした。

 彼女の今日をもたらしたのは、なんと言っても二十九歳の時に敢行したパリ留学だ。話の発端は、当時の思い出から始まる。
 日本女子大在学のころ、南博主任教授(著書『社会心理学』は毎日出版文化賞)から「マスメディアとしての映画」を研究テーマに与えられたのがきっかけで、映画のとりこになる。大学卒業後、東宝に入社して観客調査の仕事をするうち、自分で映画を作りたくなった。が、「女性監督は必要ない」と、会社に助監督志望をけられてしまう。ならば、日本が駄目なら海外で、とパリ高等映画学院に留学しようと思い立つ。

 ――今のように海外渡航が当たり前ではなかった昭和三十年代前半のこと。世の多くの親のように、怒って子の夢をつぶす父、泣いて決心を変えさせる母だったら、私のパリ行きはかなわなかったでしょう。しかし、私の両親はそんなに驚くふうもなく、相談に乗ってくれ、「決心したのなら、やりなさい」と励ましてくれた。父も母も、若いころにポッと中国大陸に渡っている人間。そんな血が流れているからこそ、私の渡仏が実現したとも言えるんです。
 と、高野さんは振り返る。

 だが、このパリ留学には苦難が待ち受けていた。向こう見ずにも、フランス語が一言もできないままの渡仏。通訳付きで映画学院にあいさつに行くと、「言葉もできないのに留学とはふざけている」と校長が激怒する。今さら日本へ帰ることもできず、泣いてばかりいたが、「自分で決心したのだから、頑張り通しなさい」という母の言葉を思い出し、気を取り直す。
 
 一心不乱に一日に五十ずつ、単語を暗記し始める。辛い毎日だった。体重はたちまち十二㌔も減った。こうして三か月。それまで鳥のさえずりのようにしか聞こえなかった周囲のフランス語が、ある日突然、人間の言葉となって聞こえてくる。
 やつれ、衰え、ふらふらになりながら、十八科目の試験に合格し、首尾よく入学がかなう。三年間の学生生活は、すさまじいほどのスパルタ教育だった。パリの生活に慣れるにつれ、元気が出てきて、勉強に次ぐ勉強。ビリで入学しながら、卒業時は監督科のトップになっていた。
 
 実を言うと、私は学生のころ大変な映画ファンだった。なけなしの小遣いをはたき、毎年二百本以上は欠かさず見ていた。二本立て・三本立ての映画館をはしごしたり、時には二十何日もぶっ続けで映画館通いをしたこともある。池袋の東口にあった文士経営と銘打つ「人世坐」と隣の「文芸地下」という映画館がなじみでほぼ毎週のように通い、往年のフランス映画の名作や邦画の佳作などに胸を躍らせた。だからこそ、彼女の映画熱には大いに共感するし、パリ行きまで敢行した勇気には強い尊敬の念を抱く。

 パリから帰国した高野(敬称略)は思わぬ災難に見舞われる。六五(昭和四〇)年、今度はポルトガルへ渡って一年近く滞在。『鉄砲物語』のシナリオを書き上げ、現地の映画人らを相手に日本ポルトガル合作映画の段取りをつける。十六世紀に火縄銃がポルトガル人によって種子島に伝来した史実を基にし、彼女の最初の監督作品となるはずだった。だが、日本側の窓口・旧大映が米国との合作を勝手にもくろみ、構想を横取りしてしまう。

 敏腕の製作者として知られる旧大映のワンマン社長・永田雅一は当時、政治やプロ野球などにも手を染め、経営のやりくりに苦労していた。高野は旧大映側が著作権を侵害したとし、訴訟手続きをとる。仲裁裁定により賠償金が支払われるが、彼女は全額をポルトガル側の関係者へ渡し、国際信義を損なわぬよう配慮した。

 この一件で映画作家への道は断念し、岩波ホールの経営に深くかかわっていく。ホールの所有者・岩波雄二郎は長姉の夫で、気心が通じ、自由にやらせてもらえる当てがあった。客席が二百三十二しかない小ホールだが、学生時分から親しい作家・野上弥生子は「大きな所ではできない質の高い催しができるはず。どこにもない独特の文化の花園に育て上げて」と励ました。学問・文化・芸術と広いジャンルにわたるアドバイザーとして評論家・英文学者の中野好夫を口説き落とす。

 六八年のホール幕開けには、義兄・岩波に頼み込み、二か月がかりで大改造をおこなう。天井の反響を良くし、照明や録音の設備も良いものと取り換えた。映画講座・音楽サークル・古典芸能シリーズ・学術講座が発足当初の四本柱で、スタッフは大卒と高卒の男女四人。切符を売りさばくのに苦労して一日中いらいらし、食事は不規則、夜は睡眠不足に陥り、三か月で胃潰瘍を患う。

 何と言っても彼女の本領は優れた映画の紹介役だ。映画通で息の合う川喜多かしこ夫人と手を携え岩波ホールを本拠に七四(昭和四九)年から「エキプ・ド・シネマ(フランス語で「映画仲間」の意)」運動を始める。映画は世界の歴史や文化、人々の魂までつぶさに教えてくれる。様々な国々の埋もれた名画を発掘し、広く人々に紹介しようという趣旨だ。ちょうど映画産業が不振に陥っていた時期で、諸外国の数々の芸術作品が見向きもされず、世界のあちこちに眠っていた。

 上映第一作はインドの巨匠サタジット・レイ監督の「大地のうた」。初日の入場者こそ五十人足らずと惨憺たる幕開けだったが、姉妹作の「大樹のうた」は四週目に満員。新聞や雑誌の好意的な紹介もあって、「大河のうた」を含む三部作の土・日の一挙上映は通算十一週のアンコール記録となり、地味な作品の選択をいぶかる興行界を驚かす。

 三年後の七七年、宮城まり子が撮った第二作「ねむの木の詩がきこえる」は十六週にわたるロング・ランとなり、岩波ホールのあらゆる興行記録を塗り替える。ダフ屋が当日券を買い占める騒ぎにまで発展し、「ねむの木」ブームが全国的に巻き起こる先駆けを成す。私も足を運び、ご本人の舞台挨拶に間近で接することができた。

 高野は翌年のカンヌ映画祭でアンジェイ・ワイダ監督の「大理石の男」を知る。旧ソ連スターリン体制下での人間性の圧殺――七〇年にグダニスクの造船所でストライキが起き、闘争中に殺された一人が映画の主人公だ。この作品をポーランド国民は圧倒的に支持し観衆は拍手と歓声で迎え、上映後は国歌の合唱が巻き起こった、と聞く。

 カンヌでは一日に五本の映画を見て、六人の監督に会い、三時間の昼食と四時間の夕食をこなし、「鉄の女」と呼ばれる。全世界六十二か国にいるパリ映画学院OBのネットワークが、埋もれた名画の発掘に大いに役立った。「作品の良し悪しは、頭で考えるより心で感じる。心が燃えないと力も出ないし、好きにならなければ労働意欲は湧かない」と、彼女はきっぱり言う。

 発足から十年。岩波ホールは順調に発展をとげ、当時は正社員が十人に嘱託やアルバイトも含め総勢三十人弱。高野を除けば平均年齢二十四歳の若い男女の集団だが、全員で上映する映画の選択について自由に討論し、大きな食い違いはなかった。当初の八年間で、トルコ・韓国・中国・アフリカ・中南米など十八か国に及ぶ日本未公開の長編劇映画五十六本を上映。エジプト・ブルガリア・ルーマニア・コートジボアール・ポルトガル・グルジア各国の作品は日本では初公開だった。

 多年にわたる文化活動と映画運動の功績が認められ、八一年に菊池寛賞(川喜多かしこと同時受賞)を受け、二〇〇四年には文化功労者の誉れに輝く。ほかにも、日本映画ペンクラブ賞や日本アカデミー賞特別賞などを数々受賞。海外からはフランス芸術文化勲章・同国家功労賞、並びにポルトガル功労勲章を贈られ、イタリア・ポーランド・キューバなどからも表彰を受けている。二〇一三(平成二五)年、高野さんは大腸癌のため八十三歳で亡くなった。
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