2020.11.26 私が会った忘れ得ぬ人々(38)
      南方文枝さん――「父(熊楠)は集中力が強かった」
                    
横田 喬 (ジャーナリスト)

 紀伊半島の中ほど、田辺湾の美しい岬・天神崎は日本初のナショナル・トラスト(市民による自然環境の買い取り~保存)運動の成功例として知られる。深い緑の海岸林を背に、黒々と広がる岩礁の磯を黒潮がゆったり洗う。海と森がうまくかみ合う天与の環境に、水陸の珍しい生物が数多く住み、子供たちの自然学習には絶好の場所。関西地方では、市民グループなどの自然観察会や小中学校の遠足の行く先としても、もてもてだ。

 今から半世紀近く前の一九七〇年代半ば、好景気の波を当てこむ開発業者の手が伸び、天神崎の自然環境は存亡の危機に立たされる。間一髪、岬の自然破壊を食い止めたのが、日本初の「市民による海岸買い取り運動」だ。運動の中心人物は、田辺市在住の元高校教師で謹直なクリスチャンの亡き外山八郎さん。

 古希を迎える身で、退職金など一千万円余と月々受け取る年金の半額を運動に注ぎ込み、捨て身で取り組んだ。無私の姿勢が同志を次々に生み、運動の純粋さが通じて県や市はもとより、業者や金融機関までが理解者の側に回り、常識では考えられないドラマも度々起きる。私も外山さんのお人柄に打たれ、取材と併せ心ばかりのカンパをさせて頂いた。

 驚くことに、天神崎のこの危機を半世紀も前に予言していたのが紀州の生んだ情熱と博
学の巨人、南方熊楠だ。当時、田辺市に暮らす長女の文枝さんは私にこう言った。
 ――よくよく洞察が利いたのは、集中力がすごかったせいでしょうか。
 生前の熊楠は粘菌や植物類の標本採集のため近くの天神崎によく出かけ、眺望の良さを熟知。いずれ別荘地などへの開発の危機が迫ることを予見していた、という。

 文枝さんは亡父・熊楠が植物学などの研究に励んだ田辺市の旧宅を守り、『父南方熊楠を語る』という著作もある。一九四一(昭和十六)年に熊楠が亡くなるまで、傍らで研究助手の役を務めたり、身辺の世話をし、その人となりを誰よりもよく知る。平明で滋味あふれる語り口が伝える巨人の面目は、不思議な光彩を放つ。

 偏屈なばかりのその激情。明治末、政府の神社合併政策に体を張って反対し、投獄の憂き目をみる。「鎮守の森が失われ、土地の歴史が破壊される」。環境破壊の危険を阻むための決死の抵抗だった。虚飾を嫌い、天衣無縫。記憶力抜群で十八か国語に通じ、民俗・鉱物・宗教学なども独学で研究する。その博識、見識は欧米の学者を圧した。洋行の折、曲馬団に加わって旅をしたり、裸暮らしが好きだったり、野性の人でもあった。
 
 専門の植物学の業績では、粘菌の研究が名高い。粘菌とは、アメーバ状の動物ふうな一面、菌類のように植物ふうの器官もそなえる奇妙奇天烈、なんとも不可思議な生き物だ。熊楠は生涯に六千点以上の標本を残し、それまで日本国内では三十六種しかなかった記録に百七十八種を追加。自宅庭の柿の木から見つけた「ミナカテルラ・ロンギフィラ」(「長い糸の南方の粘菌」の意。イギリス菌学会会長リスター女史の命名)をはじめ十種ほどの新種を発見した、とされる。

 後年期の熊楠の良き助手役を務めた文枝さんは、彼が全精力を注いだ粘菌の標本づくりを甲斐甲斐しく手伝った。彼女は、きっぱりと言った。
 ――粘菌って、とても美しいんです。
 顕微鏡写真で確かめると、球形や円柱状・粒状など様々な形態をし、赤や黄・青・白・黒・・・といろいろの色合いを帯び、確かに美しく映る。

 熊楠は、なぜ粘菌という奇妙なものの研究に一生をうち込んだのか、私は不思議でならなかった。が、文枝さんの一言で、その疑問は氷解した。自然の風景であれ、人の容貌であれ、人間は美しく映ずるものに無性に心惹かれる。我が熊楠大先生も、粘菌の美々しい色合いのとりこになり、次から次と確かめたい一心で野山をつい駆けずり回ったのだろう。

 田辺市のすぐ隣の白浜町に、熊楠にまつわる数々の貴重な学術資料や記念品などを展示する「南方熊楠記念館」が建つ。私は熊楠に対する強い関心が高じ、中年期から高年期にかけて都合三度もここへ足を運んでいる。その都度、ご挨拶に文枝さん宅を訪ね、熊楠先生の思い出話を拝聴した。

 熊楠は幕末の慶応三年(一八六七)、紀州徳川家の城下町・和歌山の金物商・南方弥兵衛の次男として生まれる。南方家は海南市にある藤白神社を信仰し、同神社には熊野神がこもるとされる子守楠神社があり、その言い伝えにちなむ熊楠の名を授かった。
 幼いころから記憶力が異常なほど優れ、大部の書物の内容を丸々暗記し、後刻それを筆写するのを得意とした。小学四年の九つのころ、近くの知人の家で『和漢三才図会』を読ませてもらう。江戸中期に著された百五巻もある漢文体の百科事典だが、五年がかりで全て読了し、丸暗記した内容を帰宅後そのつど文字に起こす。

 「熊楠記念館」には、彼が当時こしらえた写本の堆い山が並ぶ。少年時代の楔形文字めく几帳面な筆致で豆粒のような漢字がぎっしり連なり、「博識無限、動く百科事典」と言われる彼の原点を知る思いがした。熊楠は十二歳になるまで同様にして植物学の大事典『本草綱目』五十二巻や『諸国名所図会』『大和本草』などの大著も全て筆写している。常人の技とは、到底思えない。熊楠は田辺湾に浮かぶ小さな無人島・神島の珍重な植生の喧伝に努め、国の天然記念物指定をかちとっている。熊楠がエコロジー運動の先駆者と奉られるのも不思議ではない。

 昭和四年(一九二九)、生物学に造詣の深い昭和天皇がお召し艦「長門」に座乗して田辺湾へ来着。フロックコートで正装した熊楠はキャラメルの大箱に詰めた粘菌の標本百十種を献上し、艦内の一室で粘菌や海中生物について三十分間の進講をおこなう。天皇に対する無位無官の者の進講は前例がなかった。立ち会った侍従によると、熊楠は「礼儀正しく慇懃な態度で、皇室への敬虔な念がうかがえた」という。

 しかし、娘の文枝さんに言わせると、いささか趣を異にする。三度目の対面の折、彼女の口からこんな秘話が飛び出した。熊楠という人物は案外剽軽なところがあり、人を笑わすのが好きだった。昭和天皇に対する御進講の際にもその癖が出たのか、天皇が思わず吹き出しそうになる場面があったという。
 ――父が申すには、帝王学のしつけで神聖たるべき天皇は人前でたやすく笑ってはならない。お腹のあたりを机の縁に押し付け、必死で笑いをこらえておられた、とか。「すめらぎ(皇)とは、ほんまに不自由でお気の毒や」と、つぶやいておりました。

 さらに、熊楠はこうも言ったそうだ。
 ――多方面への目配りが必要な天皇という存在は、本来的にゼネラリストであるべき。だが、今の帝は植物学に入れ込み過ぎのスペシャリストや。学者としてはそこそこだろうと、すめらぎの身としてはどうかな……

 戦前の天皇は陸海軍大元帥の地位にあり、国の安危にかかわる重大事の最高責任者だった。先の大戦に対する戦争責任の問題を一つ見ても、熊楠の危惧は的を射ていた、と思う。熊楠という人物の洞察力の凄さは、このエピソードにも端的に見てとれる。
 南方文枝さんは二〇〇〇(平成一二)年、八十九歳で亡くなった。

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