2021.01.01  コロナ禍がつきつけたもの
          ー「共生」を真剣に考えるべき時

田畑光永 (ジャーナリスト)
 
 この「リベラル21」は2007年3月のスタート以来、ここに14回目の新年を迎えた。ここまで続けてこられたのは、同人のみならず多くの執筆者のご協力、そしてなによりもわれわれの地味な原稿を読んでくださった読者の皆様のご支持があればこそである。あらためて皆様にお礼を申しあげる。

 さて、昨年2020年という年は、平均年齢の高さでは昨今話題の学術会議にもひけを取らないと自負しているわれわれでも、初めての経験となった新型コロナウイルスによるパンデミックに追いまくられた1年であった。
 「であった」といっても、年があらたまっただけで、まだパンデミックが終わったわけではない。終わるどころか、感染力の強い新変異ウイルスが発生したと言われる英国では、12月28日1日の新規感染者が41,385人と初めて4万人を超え、死者の累計も7万人を超えたという。人口約6700万人、わが国のおよそ半分の規模の国での数字である。
 したがって、この状況を脱するまでにあとどれほどの時日を過ごさねばならないかの予測はできない。これから先、何がおこるか分からないことを覚悟したうえで、新しい年の生活を始めねばならない。
 そこでここではとりあえずこれまでのコロナ経験でなにが明らかになったか、今、われわれは何を考えねばならないか、についてのとりあえずの私見を述べさせていただく。

 これまでのコロナ禍の見聞の中で、強く私の印象に残っているのは、まずニュース映像で見たどこかの航空会社の同じマークを 付けた機体が何十機(いや百機を越えていたかも知れない)も地上にずらりと並んで待機している光景である。
 旅客機は人体に比べるとバカでかい。まるでガリバーだ。それが地上でおとなしくじっとしているのがまず奇妙だったが、それ以上に通常ならこのうちの大きな部分は空中高くをものすごいスピードで飛んでいるのだということを思い出すと、なんとも空おそろしい(ダジャレではありません)。1つの航空会社でもこんなに機体をもっているとすると、いったい世界中ではどれほど飛行機が四六時中、引力に逆らって膨大な量の化石燃料をじゃぶじゃぶ燃やしながら飛んでいるのだろうか。いくらなんでもやりすぎだよ、とコロナは極微の世界から言っているのではないか。
 映像でなく、言葉で耳に飛び込んでくるたびに不快な思いにさせられるのは、「経済を動かす」という政治家の言である。コロナの流行を食い止めるために、人の動きを制限すると経済活動が鈍くなり、お金の回転が小さくなるので、政治が経済を動かして、人々の生活への影響を緩和するというのである。
 なぜ不快かというと、災害から人々の生活を守るのは政治家のつとめであり、ごく当たり前のことである。それをさも自分たちがなにか働きでもするかのように、「経済を動かす」などというのが気に入らないのが第一。しかし、それだけではない。災害で被害を受けた人を助けるのに「経済を動かす」のは間違っているからである。
 彼らが「経済を動かす」というのは、国費を投じて何らかの需要を作り出し、その需要が満たされる時に支払われる対価の連鎖のいずれかの段階に災害被害者が関与して、なにがしかを受け取ることによって、その被害を軽減、経済を活性化するという過程である。
 いかにももっともらしい理屈づけであるが、実際に行われるのは、すでに報道でも指摘されている通り、役所はまず大きな広告代理店に事業の設計、実施を丸投げして、災害被害者でない事業者がまず利潤を確保し、その先も段階を経るごとに災害救済へ回る分は目減りする。典型的なのは「ゴ―ツー・トラベル」とかいう愚策で、いちばん困っている人はすこしくらい費用が安くなったからといって、旅行なんぞに出かける余裕はない。あれは旅行業界に君臨する自民党のボスが支援者を国費で応援するために考えたもので、だからそのボスに「使い勝手のよさ」を見込まれた現総理が、コロナの第3波がそこまで打ち寄せてきても、なかなかやめると言えなかった事情はすでに国民みんなお見通しであろう。
 ただでさえ世界に冠たる財政赤字大国がいい気になって赤字を増やして、いったいその始末を誰がどうつけるのか。そのうちまた「責任を痛感(だけ)します」という答弁を聞くことになるのだろう。
 しかし、ここで改めて気がつくのはこの国には経済を動かす仕組みが国の仕組そのものに重なっていて、国民の生活を守る仕組がすっかり影の薄い存在になっているということだ。災害被害者の生活が壊れないようにするには、社会そのものの自助の仕組がなければならない。
 現総理は「自助、共助、公助の順」をことあるごとに強調する。彼の言う「自助」は文字通り「自分個人でなんとかする」のであり、それが出来なければ友だちに「共助」してもらい、国に「公助」を求めるのは最後の最後にしてくれというのである。正直といえば正直であるが、こんなことをあからさまに言う輩には総理でいてほしくない。

 パンデミックに限らず、自然災害でも、その他の大規模災害でも、住民の生活が破壊されそうになったら、面倒なことを言わずに地域の共同体が無条件に生活を支える仕組をこの機会に作るべく努力を始めるべきである。
 現行の失業保険制度、あるいは生活保護制度その他もその一部となりうるが、別々の役所の系統に属するのでなく、地域共同体そのものの一部として有機的に必要に応じた「公助」の手を素早く差し伸べられる仕組が必要である。それには最近、注目されているベイシック・インカムの考え方なども大いに参考になるはずだ。

 ここで国民の側でも考えなければならないのは、本来は社会の生産部門の組織にすぎない経済組織がいつの間にか社会そのものの唯一の組織となり、それとは別にあったはずの社会の組織、共同体がとうの昔に崩れてしまったことである。
 勿論、中央官庁からその支部、都道府県からその下の各自治体へと組織の体系はあり、それぞれに住民を代表する各級議会も存在するのだが、それらが十分に機能しているとは言いがたい。それには住民の側にも責任がある。自分の会社や仕事にはらう関心の半分どころか、日常的には平均的して10分1も地域の問題に関心を持っていないのが実情ではないか。
 じつはわれわれはこのブログをスタートするときに、「護憲」、「軍縮」と並んで「共生」を指針に掲げた。しかし、残念ながら「共生」について考えたり、論議したりははなはだ不十分であったと言わざるを得ない。
 コロナ禍の中ではからずもリモート就業が日常化し、それが企業への帰属意識にも影響を及ぼしつつあると聞く。果たしてこれが今後とも続き、日本の企業社会にどういう変化をもたらすかは予測しがたいけれども、パンデミックによって社会が変化することは不思議でないし、問題を解決するチャンスとなるかもしれない。
 このブログも今年はコロナと日本社会について考えを深める場として、執筆者、読者の皆さんにおおいに活用していただきたい。



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