2021.01.06  私が出会った忘れ得ぬ人々(42)
          北杜夫さん――僕の仕事は親父の歌一首に及びません

横田 喬 (作家)


 作家の北杜夫さんは不惑にさしかかる年頃の一九六六(昭和四一)年春、躁病をいきなり発症した、という。
 ――躁が来る時は、自分でもわかる。口数が多くなって、陽気になる。仕事をなんでも引き受け、ふだんは嫌いなテレビ出演なんかも自分から申し込んだりします。子供に返ったのと同じで、次から次と湧いてくる思い付き、つまり妄想に熱中し、あげくに挫折する。

 四十代後半のころ、気分が高揚して全能感に満ちあふれ、「文学は男子一生の業にあらず」と事業家への転身を志す。株でもうけようと、新聞や雑誌で勉強に励み、証券会社に口座を開設。玄人並みに仕手株の売買までやらかすが、ド素人でうまくいくはずがない。短期間ですっからかんになったどころか、借財の穴埋めに追われる。なじみの出版社はおろか母・輝子さんや同人誌以来の親しい仲の作家・佐藤愛子さんらから各ン百万円単位の借金をこしらえ、億単位の損害による禁治産者の身となったというから凄まじい。

 幸い、新潮社からタイミングよく個人全集が刊行されて印税が相当入り、なんとか借金は返済することができた。躁状態になると人変わりし、日ごろのていねいな口利きとは一転。しとやかな賢夫人・喜美子さんに対しても、「バカ、このノロマ!お前なんか出ていけ!」と散々口汚く悪態をついた、とか。念のため、後ほど夫人に確かめたところ、
 ――何人もの夫と暮らした気がします。なにせ様子がまるで変わってしまいますから。
 と、遠回しながら、当時の苦労を認めた。

 躁状態の波が引くと、気分がぐんと落ち込み、鬱症状がやってくる。奈落の底に沈んだような絶望感を覚え、外界への興味を失ってしまう。何もやる気が起こらず、日中は布団にくるまって横になったまま。気持ちがひどく沈み、何事にも興味や関心が湧かない。北さんは自嘲気味に、こう打ち明けた。

 ――朝の三時、四時までビデオを見ながら酒を飲み、後はうつらうつら睡眠が浅いんで十四時間も寝てます。生きてると言えるかどうか、もう分からないくらい。
 ――酒飲みが酔っ払って騒いでいるのが躁だとすれば、酒が切れてひどい二日酔いで苦しんでるのが鬱。躁の時はひらめくんで、形容詞なんかもパッと浮かぶ。筆が勝手にどんどん走り、月に原稿用紙(四百字詰)八百枚くらいは軽い。鬱だとそうはいかず、月に六~七枚を綴るのがやっとになります。

 当初は三年周期くらいで躁病の波がやってきて半年ほど続いて消えるパターンだったのが、齢とともにエネルギーが失われ、最近では躁の気配がだんだん薄れつつある、とも述べた。根が精神科医だけに、「躁状態」と「鬱状態」の我が身の転変を冷静的確に観察~分析している。聴くうち、いろいろ思い当たる節があり、私自身も躁鬱症の部類に入るのでは、と感じたのを思い出す。北さんは、しまいにこう言った。
 ――でも、鬱病は斎藤家では新種なんです。自分ではゲーテに似てきた、と得意になってます。精神病者をやっかい者視する風潮には腹が立つ。病者にも、いい人や素晴らしい人はちゃんといるんです。

 北さんは戦時中に東京の小・中学校(旧制)を卒業した。子供のころは昆虫採集に熱中し、『昆虫記』で知られるファーブルのような人物が憧れだった、という。戦後、旧制松本高校に進み、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』を知る。イタリア出身の母の血を受け継ぐ芸術家気質と北ドイツの富裕な事業家だった父譲りの堅実な気質。その相克に揺れるマンの告白的・記念碑的な作品だ。当時の学友には後に作家・フランス文学者として名を成す辻邦生氏がいて交りを深め、初めて文学の価値に目を開く。

 父・茂吉の厳命で旧制東北大医学部へ進むが、学業には身が入らなかった。純文学ふうの小説を次々と書いては雑誌の懸賞に応募するが、落選に次ぐ落選。「親の七光り」のそしりが嫌で名乗ったペンネームは、仙台すなわち北の都にちなむ「北」と、前述のトニオをなぞらえる「杜二夫」(字面上「二」は後に省略)に由来する、という。

 東京へ戻り、慶応大学病院勤務の六〇(昭和三五)年春、書き下ろしの『どくとるマンボウ航海記』を中央公論社から上梓して一躍ベストセラーになる。海外へ憧れ、前年に水産庁の漁業調査船に船医として乗り組み、半年近い航海を体験した。
 長い洋上生活を味わい、アジア・ヨーロッパ・アフリカの風景や文化をじっと観察。奔放ですっとぼけたユーモアとユニークな文明批評を盛り込み、型破りな旅行記として人気を博す。題名のマンボウは、魚なのに尾びれがなく、泳ぎが下手。体長一㍍前後、重さが数十㌔もある巨体で海面に昼寝さながら浮遊している奇態な生き物だ。このマンボウが作家・北杜夫の代名詞と化し、その後の数々の「マンボウもの」シリーズの人気へ道を開く。

 吉報は続き、この年に雑誌『新潮』に発表した小説『夜と霧の隅で』が同年上半期の芥川賞を受ける。作品の舞台は、第二次大戦末期のドイツの地方都市の精神病院。ナチスはユダヤ人排斥~大量抹殺という非道な蛮行とは別に、自国民に対しても遺伝性精神病者の断種を決定した。
 ヒトラーの命令で回復の見込みがない精神病者の安死術~焚殺を通達する。主人公のドイツ人医師は患者を救おうとする余り、電気ショックを過剰に与え、脳の部位を大量に切除さえしてしまう。極限状況におかれた人間の不安と矛盾。正気と狂気は紙一重と感じさせ、人間という存在は何なのか、と深く考え込ませる。

 北さん自身は私に「しんどいもの(純文学作品)とリラックスしたもの(『マンボウ』ものなど)を交互に書いていけば、精神のバランスが取れます」と述べた。しんどいものは「鬱」を、リラックスしたものは「躁」を連想させ、面白いなと感じたのを覚えている。
 この後、雑誌『新潮』に長編小説『楡家の人びと』の第一部、並びに第二部(「残された人々」)を二度にわたって連載する。

 尊敬するトーマス・マンの長編小説『ブッデンブローク家の人々』の影響を受け、自らの斎藤一族をモデルに大正~昭和戦前期にわたる精神科医一家の盛衰を描く大河小説だ。作家・三島由紀夫は「戦後に書かれた最も重要な小説の一つ。日本文学は真に市民的な作品を初めて持った」と絶賛した。発表後すぐ、毎日出版文化賞を受け、後に民放やNHKでテレビドラマ化もされている。

 北さんは、私にこう言った。
 ――父の文学者としての側面は意識的にネグりました。一家の没落史なので、徹吉(茂吉がモデルの登場人物)は魅力のない存在になっています。
 その埋め合わせをするごとく、彼は後年、『青年茂吉(――以下は略)』『壮年茂吉(同)』『茂吉彷徨(同)』『茂吉晩年(同)』の四部作を著す。歌人・斎藤茂吉の真骨頂を多角的に検証し、大仏次郎賞を受ける。受賞歴では他にも、日系ブラジル移民の汗と涙の苦闘を描く長編小説『輝ける碧き空の下で』が日本文学大賞。

 しかし、そうした栄誉をこともなげに、北さんはつぶやいた。
 ――茂吉は歌以外でも、マルクスやエンゲルスを原書で読んで勉強する努力家でした。
いい歌を作るために、お百姓さんたちに深々とお辞儀してメモを取ったり、神社でじっと瞑目したり、蚊帳の中にこもって精神集中を図った。よく激怒りもしたが、怒るべき時に怒れない人間はだめ、憤怒は勢いにつながるから。親父ほどの歌詠みは今後とも現れない、と思う。僕が苦労したどんな作品も、彼の歌一首に到底及ばない、と思っています。

 単なる謙遜ではない切実な響きがあり、真摯で繊細な彼の内面を私は痛々しく感じた。北さんは二〇一一(平成二三)年、腸閉塞のため八十四歳で亡くなった。    
(完)
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