2021.03.05 その後のハンガリー「コロナ事情」と体制転換が医療にもたらしたもの
  
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)


現在の「コロナ事情」
 ヨーロッパのコロナ状況は第3波に入ったと言われている。ハンガリーでも、一時期の低減傾向から再び感染者の上昇が始まっている。幸い、死者の数に大きな変動はないが、感染者の数がここに来て急激に増えている。
 3月1日月曜日の報告では、1日の新規感染者が4,326人、死亡者が84名(累計15,058人)、病院で治療を受けている患者が5,679人、人工呼吸器装着の患者が537人となっている。人口はほぼ東京と同じ、つまり日本の人口の10分の1という比較で考えると、相対的にかなりの数だと言える。
 政府はワクチン接種が進まないと状況は変化しないとしており、中国ワクチン接種のキャンペーンを始めて、すでに今週から中国ワクチンの接種が始まっている。ただし、接種はインターネットで登録した人たちだけに行われ、現在の登録数は300万人には到達していないと思われる。そのため、首相や大統領が積極的に中国ワクチンの接種を受け、国民に接種を受けるようにアピールしている。
 しかし、接種には慎重な人々が多く、とくに中国ワクチンには懐疑的な人が多いのが現状だ。政府は「左翼が中国ワクチン反対のキャンペーンを張って、国民の命を犠牲にしている」と、国営テレビで連日、野党=左翼という図式で攻撃している。しかし基本的にワクチンの種類を選択することはできない。もし中国ワクチンの接種を断った場合には、順番待ちの最後尾に回されることになる。ただし、65歳以上で基礎疾患のある高齢者にはPfizer(ファイザー)ワクチンを打つという暗黙のルールがあるようだが。

体制転換から30年、ようやく始まる医療制度改革
 かつての社会主義国の医療制度は国民皆保険で、基本的には自己負担のない医療サーヴィスを提供していた。このように表現すれば、素晴らしい制度なのだが、医療の実態は制度の建前からほど遠いものだった。その主要な問題を列挙してみよう。
 (1) 建前として自己負担はないが、実際問題として医師への謝礼と看護師への心付けは一般的に見られた。とくに、手術や出産にはまとまったお金を医師に渡すのが普通だった。その習慣は体制転換から30年を経過しても、まったく変わらなかった。
 なぜか。公務員としての医師や看護師の給与水準が低いのは周知のことである。もちろん、患者も医師以上に稼いでいるわけではないが、なにがしかの謝礼をおこなって、丁寧な診療を受けたいと考えるのはどこでも同じである。だから、社会主義時代から医療現場では医師への謝礼や看護師への心付けは普遍的に観察される現象で、体制転換から30年を経過しても本質的に変化はなかった。
 (2) 社会主義国の医療サーヴィスは私が「役人主権」(生産者主権の社会主義版)と名付けるようなgive but obey原則が貫徹していた。病院では医師が絶対的な支配者であり、とにかく医師の言うことをそのまま受け容れる以外に方法がない。患者へのケアサーヴィスという観念は存在しない。すべては病院側に都合の良いようにシステムが動いている。その最たるものが患者の受付体制である。多くの病院では患者を受け付けるシステムをもっておらず、担当医師の部屋の前に患者が集まり、職員がドアを空けて患者を呼ぶのを待つ。ドアが空いた途端に多くの患者が自分の保険証を渡そうと、我先にと職員に詰め寄る。ここで躊躇していると、何時まで経っても診療が受けられない。この面では漸次的な改善は見られるものの、患者を受け付ける専用システムがないという基本的な欠陥は依然として多くの病院で見られる。
 (3) 社会主義時代は私的な医療行為は存在しなかった。体制転換以後も、私立病院(クリニック)は出産などの産婦人科以外は、小規模な専門クリニックが認められているのみである。旧社会主義国の私的クリニックや病院は健康保険適用外の自費診療なので、大規模な病院を維持できるほどに患者が集まらない。したがって、設備を整えることも難しい。それでも、公的病院では手術を受ける待機時間が長く、待ちきれない人は自費で私的な専門クリニックで手術を受ける。もちろん、費用は安くないが、すぐに手術を受けることができるし、医師への謝礼は不要である。だから、所得水準の高い人や外国企業の外人スタッフは順番待ちのない私的クリニックを選択する。健康保険証を提示すれば、10%の割引を行うクリニックもある。私はこれを「健康保険の割引クーポン化」と名付けている。外人スタッフの毎月の公的健保の掛け金は、事実上、掛け捨て保険である。
 (4)私的クリニックに勤める医師のほとんどは公的病院で定職をもつ医師で、週に1-2日、数時間ずつ私的クリニックで働いている。こうすることで、公的病院の低い所得を補うことができる。ここから不規則な慣行が生まれた。自分の患者を私的クリニックで診療しながら、他方で検査は自らが勤務する公的病院で受けさせるという恣意的な診察行為を行っている医師が少なくない。これを取り締まる法律や倫理観念は存在しなかった。

問題の根源
 社会主義体制下ではあらゆる社会行動は、give and takeではなく、give but obey原則で動いてきた。この社会の観念や倫理規範を変えるのは難しい。私的な医療施設との競合があれば、少しは変化をもたらすこともできるが、民間医療資本が存在しないので、外的な影響を受けることはない。だから、旧社会主義国では体制転換以後の医療体制は、小規模な私的クリニック(自費診療)と公的病院(公的保険)との二重スタンダードで機能している。
 社会主義時代のように、所得水準が低く、物質的に豊でない社会では、医療の物的体制を整えるのが難しかった。体制転換以後も、大病院の多くは旧社会主義時代の設備の貧困さを思い出させるような貧弱な設備体制のままである。大病院でもCTが1台しか設置されておらず、MRIの設備をもたないところも多い。だから、トイレットペーパーを常備したり、トイレに石けんを常備したりするところまで気が回らない。入院患者への給食などは社会保険で上限が規制されているから、社会主義時代から何十年も質的な変化がみられない。
 さらに、体制転換や中東欧諸国のEU加盟以後、多くの医師が高い所得医療環境をもとめて西側諸国へ移住した。医療水準が高いチェコやハンガリーでも、かなりの数の医師が西側へ流出した。ルーマニアなどはEU加盟に伴い医師の半数が国を離れた。国家規制が強くて市場経済化が進まず、所得水準が低いために、若い医師は西側諸国での勤務を選択する。
このように、旧社会主義国の医療体制は危機的な状況にある。さらなる状況は拙著『体制転換の政治経済社会学』第5章「体制転換の社会学」を参照されたい。

謝礼受取は犯罪として認定
 昨年来、ハンガリー政府は医師への謝礼や看護師への心付けを取り締まる法律を準備してきた。体制転換から30年を経て、ようやく長期にわたる悪しき習慣にメスが入れられた。その要点は、謝礼支払いを廃止する代わりに、公的病院に勤務する医師や看護師の給与を3年かけて、大幅に引き上げるというものである。医師や看護師が現在の公的病院における定職を確保するためには、それぞれの病院機関で、新たな法律にもとづく契約書に署名する必要がある。そこには、現金での謝礼を受け取らないこと、定時の勤務時間は当該病院を離れてはならないことが明示されている。給与は上がるが、副業が大幅に制限される。
 2021年3月1日より、医師が病院診療で患者から謝礼を受け取ることは犯罪として認定され、刑事罰が与えられる。そのために、特別な監査体制が取られる。謝礼廃止の代償として、医師の初任給(経験0-2年)は18万円(2021年)、23万円(2022年)、25万円(2023年)と引き上げられる。10年の経験を経た医師は36万円(2021年)、47万円(2022年)52万円(2023年)の引上げが予定されている。20年の経験をもつ医師の場合、43万円(2021年)、55万円(2022年)、61万円(2023年)となる。40年以上の経験をもつ医師には最高額が与えられ、62万円(2021年)、79万円(2022年)、88万円(2023年)となる。
 契約書に署名しなかった医師は現在の病院職(公務としての職)から離れる必要がある。もちろん、私的クリニックで働くことは自由である。しかし、公的病院で働くためには、契約書に署名する必要がある。
 旧社会主義国のなかでもハンガリーは私的診療が広がっている国だが、一挙に多数の医師を賄えるほどに市場は大きくない。したがって、この医療改革に不満な医師は国外に転職せざるを得ない。これまでも多くの医師が国外に流出したが、この医療改革を契機に、再び医師の国外流出が強まる可能性が指摘されている。これだけ給与を引き上げても、西側の医師の給与水準に比べれば低い。だから、副業が事実上禁止されるのであれば、多くの医師が国外での就業の道を選ぶのではないかと予想されている。
 多くの問題を抱えながら、ともかく病院のチップ廃止が決まった。

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