2021.05.15 「戦争特派員の墓場」―カンボジア戦争取材で
不明記者の妻が38年間の「捜索記」出版

金子敦郎(国際ジャーナリスト、元共同通信ワシントン支局長)

<著書紹介>
202105015金子原稿画像

『そして 待つことが 始まった―京都 横浜 カンボジア』
筆者: 石山 陽子
(養徳社刊、189頁、頒布価格1,500円)

 ジャーナリストの「権力の監視」には危険が伴うが、なかでも「戦争の監視」には命がかかってくる。カンボジア戦争は「戦争特派員の墓場」といわれ、5 年間で37人のジャーナリストが命を失った。その1人、石山幸基共同通信プノンペン支局長(当時)は1973年10 月、左派ゲリラ勢力クメール・ルージュの支配地域へ取材に入ったまま消息を絶った。石山記者と筆者・陽子夫人の結婚生活はわずか2 年余りだった。若い妻と幼い 2人の子どもを残してなぜ、そんな危険な取材を試みたのか。戦争特派員とは、そしてカンボジア戦争とは何なのか。それを追い求めた筆者の「長い旅」のルポと記録である。
 石山記者(30)は1973年10月プノンペン北、古都ウドン近くのクメール・ルージュ支配地域の村の人民委員会の招待を受けて取材に入ったまま戻らなかった。1 年半後の4 月クメール・ルージュが全土を制圧、 ひとつの戦争は終わった。だが、これは最高指導者ポル・ポトによる恐怖政治の始まりとなった。ポル・ポト政権は1979年1月ベトナムの支援を受けた親ベトナム勢力(現政権につながる)に主要都市部からは駆逐されて、西部ジャングルに立て籠る。米国と中国がこれを支援、親ベトナム勢力をソ連が支援、冷戦の代理戦争の長い内戦が始まった。

奇跡の出会い
 8年後の1981年夏、内戦激化の前の束の間の休息期に家族の陽子夫人、母親と兄を加えた共同通信調査団の現地調査が実現した。調査団は西部コンポンスプー州のポル・ポト派基地を訪問中に熱病(マラリアか)に倒れた石山記者を看病し、最後を看取った女性との奇跡的な出会いによって病死との確証を得た。しかし、内戦が続く中で石山記者の滞在地域や埋葬場所に近づくことはできなかった。

ジャングルの共同墓地
 それから7年後の2008年ようやく内戦がほぼ終息して現地調査を再開。翌2009年陽子夫人と長男、元共同通信の同僚らが、元ポル・ポト派ゲリラの案内でタイ国境に近いコンポンスプー州奥地のクチュオール山(表紙中央の山)ジャングルの埋葬場所に到達することができた。石山記者が消息を絶って以来38年目に入っていた。
 墓地確認を果たした翌2010年には、カンボジア戦争を取材した元戦争特派員ら数十人が米国、欧州、オーストラリアなどからプノンペンに集まり、取材先だった当時のカンボジア政府高官らも何人か亡命先から加わって再会、失った記者やカメラマンを追悼し、旧交を温めた。みんな歳は取ってもなお、意気盛んなジャーナリストたちだった。今も行方の分からない友人カメラマン2人の捜索を続けている者もいた。代理出席した陽子夫人を石山記者の顔なじみが取り囲んで石山記者の埋葬墓地を確認したことを喜び合い、カンボジア戦争取材の思い出話が行き交った。彼らの経験談を聞きながら、陽子夫人は彼らがそれぞれに「カンボジア戦争の記憶と痛みを引きずりながら今日まできた」と感じ取っている。
 カンボジア戦争は1970年 3月突然始まった。隣国ベトナムの戦争に巻き込まれまいとシアヌーク殿下(事実上の国王)は中立政策を掲げてきた。その殿下が外遊中に軍部右派ロン・ノル将軍が、米国の後押しでクーデターを起こして軍事政権を樹立、殿下を追放した。
 同時にベトナム派遣米軍は南ベトナム政府軍を率いて国境を越え、カンボジア領内に入り、ベトナム・ゲリラ掃討戦を開始した。これによってカンボジアではロン・ノル政権軍とクメール・ルージュとの内戦がはじまった。

ある「幕間」
 しかし、ロン・ノル政権にもクメール・ルージュにも、戦争の準備はなかった。隣国ベトナムから駆け付けたゲリラ戦争取材のプロ、国際報道陣にもカンボジア戦争の取材は勝手が違った。クメール・ルージュとは何者か。戦場はどこだ。ただ動き回る記者やカメラマンは銃撃にさらされ、捉えられるとすぐに処刑された。戦争勃発から9カ月の同年末までに26人の戦争特派員(記者、カメラマン、TVチーム・スタッフ)がこうして命を失った。
 米国はカンボジアに続いてラオスにも戦線を拡大、ベトナム・ゲリラが逃げ込む3 国国境地帯の「聖域」を破壊したとして、ベトナム戦争からの撤退のための秘密交渉を開始、米軍撤退に取り掛かった。1973年1 月には米国・南ベトナム政権と解放戦線・北ベトナムとの間でパリ和平協定が合意された。米国はベトナムから逃げ出すのに必要な一時的「戦闘抑制」つくりのために戦争を広げたのだ。このシナリオを描いたキッシンジャー米大統領補佐官は和平協定を「適当な幕間」と呼んでいた。

「愛された確信と誇り」
 石山記者はこの「幕間」の間にクメール・ルージュ支配の実相を取材にしようとしたのだ。他の犠牲者が戦闘に巻き込まれたり,拘束されて処刑されたりしたのと違って、石山記者はプノンペンへの帰還は許されなかったものの「客人」扱いされ、ある程度の取材も許されていうようだ。37人の犠牲者の中ではクメール・ルージュに殺害されなかった唯一のケースだった。筆者にとってこれは一つの救いではあった。
 しかし、この戦争は「カンボジア人のための戦争でもなく、カンボジアがよりより良くなるための戦争でもなかった」。不条理に満ちた戦争のために夫が逝ってしまったことに、筆者はやりきれない思いを抱いた。
 石山記者は手紙の中で、ここ(プノンペン)で西欧的すなわち植民地的スタイルにスポイルされて失敗した、やり直したいと夫人に訴えていた。その苦悩が危険な解放区取材へと駆り立てたのかもしれないと筆者は示唆している。
 心を揺さぶられる感動的な作品である。「本書を書き上げたのは、筆者の優れた表現力もさることながら、この「長い旅」を通して得た「私は1人の人に心から愛された」という「確信とほこり」だったと思った。
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