2021.06.14  6月10日は「16歳で戦死」した兄の命日です

米田佐代子(女性史研究者)

 毎年書くので、「またか」と思う方もおられるかもしれませんが、76年前の日本では「子ども」が兵士として特攻隊に送られたのだという事実を忘れないために、今年も一言。
 今は亡き母が「わたしが死んだら、あの子のことを覚えている人はいなくなってしまう」と嘆くのを聞き、渋る母を説き伏せて「わたしが息子を戦争で死なせた」という痛哭の思いを『雲よ還れ』という手記にしてもらったのはもう40年以上昔です。戦後76年目の6月が来て、その母もとうに逝き、兄のことを記憶しているきょうだいたちも次々に世を去って、おぼろな記憶しか持たないわたしと弟だけが生き残りました。だから書きます。
 米田吉二、1929年1月1日生まれ。山梨県立甲府中学3年のとき「海軍飛行予科練習生」という名の少年兵を志願し、翌1945年6月、海軍特攻隊として敗色濃い沖縄に、おそらく「震洋」とよばれたモーターボートに火薬を積んだ特攻壁の要員として九州に送られる直前、茨城県土浦海軍航空隊基地で米軍の爆撃機B29に攻撃されて「戦死(応戦などしていないから爆死)」。これが彼のすべてです。
 「志願するとは軍国少年」と烙印を押され、生き残った少年たちも戦後中学校に復学もできず、就職も拒まれて固く口を閉ざさなければならなかった世代です。彼らの真実は何だったのかを追い求めたわたしのルポルタージュ『ある予科練の青春と死』は売れませんでしたが、兄を忘れないために書きました。もう何年も墓参りにも行っていません。行く時は一緒だった姉も今年はいなくなりました。人はこのようにだれからも忘れられる存在になっていくのだ、と実感しています。
 でもおぼえていてほしい。この国は負けるとわかっているいくさから引き返すこともできず、14.5歳の「子ども」を人海戦術の「特攻兵器」として戦争に動員したのだ、ということを。「オリンピック」がコロナ拡大の危険をはらんだまま開催に突き進んでいくことに「戦時中みたい」という声があることを、今年の6月10日に改めてかみしめています。
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