2008.11.16
ミステリー作家の解き明かす「本能寺の変」の明智光秀像
〔書評〕真保裕一著『覇王の番人』(上下)(講談社、各¥1785)
'91年、『連鎖』で第37回江戸川乱歩賞を受賞し鮮烈なデビューを果たしたミステリー作家・真保裕一が初めて挑んだ歴史時代小説である。
真保裕一は、「後記」で書いている。
ずっと疑問でならなかった。ある歴史小説では、光秀の描かれ方が、実に凡庸な愚将扱いされていた。真面目だけが取柄で信長に散々こき使われた挙句、後先もろくに考えず謀反に走るような男がどうして織田家中で秀吉と並ぶ武将であったというのか。主君の命を奪うことが本当にできたのだろうかと。『太閤記』などの軍記物によるねじまげられた事実の上に則って、近代の歴史小説家も、自分なりの物語を書いてきたといえよう。
本能寺の変には、どうも謀略の匂いがしてならない。この物語を書き終えた今、私は確信している。明智光秀こそが、実は戦国時代を終わらせた真の武将なのだ、と。
物語の時代背景は「徳川様の世」。とある「山深き末寺」に、「若いお武家様」が、光秀ゆかりの小平太を訪ね来るという舞台装置である。末寺の僧侶こそ、かつて光秀を慕い影のように支えた忍びの小平太であるに違いないと思っている「若いお武家様」の正体は、物語のエンドまで明かされることはないが細川家ゆかりの者であるらしい。山崎の合戦後の光秀や細川ガラシャと深いかかわりを持つ小平太のサブストーリーが実在の歴史と絶妙に組み合わさって、『太閤記』や『信長公記』とはまったく異なる「戦国時代」が描叙されていく。
雨宮由希夫 (書評家)
'91年、『連鎖』で第37回江戸川乱歩賞を受賞し鮮烈なデビューを果たしたミステリー作家・真保裕一が初めて挑んだ歴史時代小説である。
真保裕一は、「後記」で書いている。
ずっと疑問でならなかった。ある歴史小説では、光秀の描かれ方が、実に凡庸な愚将扱いされていた。真面目だけが取柄で信長に散々こき使われた挙句、後先もろくに考えず謀反に走るような男がどうして織田家中で秀吉と並ぶ武将であったというのか。主君の命を奪うことが本当にできたのだろうかと。『太閤記』などの軍記物によるねじまげられた事実の上に則って、近代の歴史小説家も、自分なりの物語を書いてきたといえよう。
本能寺の変には、どうも謀略の匂いがしてならない。この物語を書き終えた今、私は確信している。明智光秀こそが、実は戦国時代を終わらせた真の武将なのだ、と。
物語の時代背景は「徳川様の世」。とある「山深き末寺」に、「若いお武家様」が、光秀ゆかりの小平太を訪ね来るという舞台装置である。末寺の僧侶こそ、かつて光秀を慕い影のように支えた忍びの小平太であるに違いないと思っている「若いお武家様」の正体は、物語のエンドまで明かされることはないが細川家ゆかりの者であるらしい。山崎の合戦後の光秀や細川ガラシャと深いかかわりを持つ小平太のサブストーリーが実在の歴史と絶妙に組み合わさって、『太閤記』や『信長公記』とはまったく異なる「戦国時代」が描叙されていく。
永禄11年(1568)、足利義昭は越前の朝倉義景のもとを去り、信長を頼った。その時、信長は美濃の立政(りゅうしょう)寺にて義昭を迎え、その面前で平伏してみせた。この歴史的シーンを演出した人物こそが明智光秀と義昭の側近の細川藤孝(のちの幽斎)である。
この史実を繋いで、作家は「そもそも織田家の譜代ではない光秀は越前朝倉家にて細川藤孝と出会っていなかったら、信長に仕えることはなく、織田家中で秀吉と並び称せられるほどの威光も輝きものぞめなかったはずである。信長を天下人へと担ぎ上げたのは、光秀と藤孝二人の力があってこそであり、それは動かしがたい真実」であるとしている。信長が足利最後の将軍十五代義昭を「天下布武の御旗として利用した」のも史実である。
信長の天下布武の道は苛烈を極めたが、義昭を奉じて上洛するや、わずか五年足らずで、信長は畿内を平定し、義昭を京より追放してしまう。
叡山を焼き打ちし、一向一揆の門徒衆を虐殺する信長の端倪すべからざるマキャベリズムをつぶさに観て、光秀は確信する。
「信長は晴れて毛利を成敗したなら、後継者・信忠(のぶただ)を将軍職に就け、幕府を開き、自らは将軍の上に立ち帝と並ぶ。日本の真なる王に就いてこそ天下布武があると信長は信じているのだ」と。
信長が天皇を凌駕するゆるぎない地位を得ようと力ずくで急ぎ、非道なる振る舞いを重ねるにつれ、「織田信長という類なき知勇を備えた武将」に白羽の矢をたて京へと担ぎ出したことを悔い懊悩する光秀の日々が増えていく。
当初、光秀は信長の天下布武の事業に積極的に関わってきたのである。光秀の信長像がいつ「類なき知勇を備えた武将」の称賛から「鬼か外道か」の憎悪へと変化していくのか、その確たる時期の特定について作家の筆は微妙なものがあるが、天正4年(1576)11月の妻・煕子の逝去に際して、まだ温もりの残る妻の身をかき抱きつつ亡き妻に、
「あとは余生も同じ。ただ天下布武のために邁進すると。このままでは静謐なる天下はほど遠く血みどろの世が続くのは必定。ならばなすべきことは知れようというもの。どうか見ていて欲しい。天下を鎮めるために、この老身を捧げようぞ」
と誓うシーンは印象的であり、感動的である。
「天下布武のために生きてきた。それを悔いたのでは今日までの日々がすべて失われる」との吐露も光秀の心境の根源的なものを言いあらわしている。
愛妻の死より6年。光秀に謀反を決意させたのは、天正10年(1582)4月の武田氏の滅亡に関わる諸事であった、とするストーリー展開は読み応え充分である。
『信長の棺』の著者・加藤廣は、光秀謀反について、「三河殿接待役電撃解任」がターニングポイントで、「光秀の心に、この時まで〈謀反〉の文字はない」としているが、本書の著者も、武田討伐を期とした信長と家康の関係変化が光秀の謀反に大きな影響を与えたとしている。
武田征伐のあと、家康は少ない供回りで安土を訪れたことは史実であるが、作家は、家康安土訪問の裏に、信長後の織田政権の前途を憂慮する信長による家康謀殺の企てがあったとしているのは作家の切れ味鋭い独創である。
「武田の番人であった同盟者も用がなくなれば、あっさりと命を奪おうとする。それはまさに人ではない外道の振る舞いであった。侍の心に非道が幅を利かす限り戦の世は終わらない。非道を恥じぬ信長を、光秀が葬るしかなかったのはこの世の理である」と。
ともに義昭を担ぎ、信長を担いだ盟友細川藤孝の心理描写も秀逸である。
「光秀は最も頼りとする藤孝に見捨てられた。これほど見事な裏切りはなかった。名門細川家の惣領である藤孝は出自とおのれの才覚を誇り、同じく義昭の家臣であるとはいえ、名もなき足軽衆であった光秀という男になど遅れをとるものであるはずがないとの無念を抱き続けてきたのだ。成り上がり者の光秀が、清和源氏の後胤として将軍宣下し、自ら天下布武に乗り出すとの分不相応な望みを抱くにいたったことは誇り高き藤孝には許しがたき狼藉であった」と。
そして、さらに物語はつむがれる。
「藤孝は光秀の決意を悟るやひそかに秀吉へ知らせた」。
作家は、明智光秀に叛意を使嗾した謀略の主を藤孝と秀吉の2人と名指ししている。
本能寺の変は日本史上のミステリーである。が、本書を前にして、真相は今もなお、深い霧の彼方の中にあるというのは憚られよう。信長も光秀も、戦国の世に終止符を打つ夢を見たが、光秀の夢は信長の夢と目的も手段も異なり、静謐な社会の実現にあった、だからこそ信長を討ったのだと作家は明快に主張している。これはかつて徳富蘇峰が主張した「天下取り野望説」とは一線を画すものである。
本能寺の変は信長自身が誘発した凶変にほかならないが、真保裕一の歴史小説では、「光秀謀反」の根源的なものが生身の光秀の五体からなる人物像から発している。私たちは本書によって、私たちの全く知らなかった光秀がいることを知る。現代日本を代表するミステリー作家によって、深い霧で覆われた闇の一画にほのかな明かりが差し込んできたことを嘉したい。
この史実を繋いで、作家は「そもそも織田家の譜代ではない光秀は越前朝倉家にて細川藤孝と出会っていなかったら、信長に仕えることはなく、織田家中で秀吉と並び称せられるほどの威光も輝きものぞめなかったはずである。信長を天下人へと担ぎ上げたのは、光秀と藤孝二人の力があってこそであり、それは動かしがたい真実」であるとしている。信長が足利最後の将軍十五代義昭を「天下布武の御旗として利用した」のも史実である。
信長の天下布武の道は苛烈を極めたが、義昭を奉じて上洛するや、わずか五年足らずで、信長は畿内を平定し、義昭を京より追放してしまう。
叡山を焼き打ちし、一向一揆の門徒衆を虐殺する信長の端倪すべからざるマキャベリズムをつぶさに観て、光秀は確信する。
「信長は晴れて毛利を成敗したなら、後継者・信忠(のぶただ)を将軍職に就け、幕府を開き、自らは将軍の上に立ち帝と並ぶ。日本の真なる王に就いてこそ天下布武があると信長は信じているのだ」と。
信長が天皇を凌駕するゆるぎない地位を得ようと力ずくで急ぎ、非道なる振る舞いを重ねるにつれ、「織田信長という類なき知勇を備えた武将」に白羽の矢をたて京へと担ぎ出したことを悔い懊悩する光秀の日々が増えていく。
当初、光秀は信長の天下布武の事業に積極的に関わってきたのである。光秀の信長像がいつ「類なき知勇を備えた武将」の称賛から「鬼か外道か」の憎悪へと変化していくのか、その確たる時期の特定について作家の筆は微妙なものがあるが、天正4年(1576)11月の妻・煕子の逝去に際して、まだ温もりの残る妻の身をかき抱きつつ亡き妻に、
「あとは余生も同じ。ただ天下布武のために邁進すると。このままでは静謐なる天下はほど遠く血みどろの世が続くのは必定。ならばなすべきことは知れようというもの。どうか見ていて欲しい。天下を鎮めるために、この老身を捧げようぞ」
と誓うシーンは印象的であり、感動的である。
「天下布武のために生きてきた。それを悔いたのでは今日までの日々がすべて失われる」との吐露も光秀の心境の根源的なものを言いあらわしている。
愛妻の死より6年。光秀に謀反を決意させたのは、天正10年(1582)4月の武田氏の滅亡に関わる諸事であった、とするストーリー展開は読み応え充分である。
『信長の棺』の著者・加藤廣は、光秀謀反について、「三河殿接待役電撃解任」がターニングポイントで、「光秀の心に、この時まで〈謀反〉の文字はない」としているが、本書の著者も、武田討伐を期とした信長と家康の関係変化が光秀の謀反に大きな影響を与えたとしている。
武田征伐のあと、家康は少ない供回りで安土を訪れたことは史実であるが、作家は、家康安土訪問の裏に、信長後の織田政権の前途を憂慮する信長による家康謀殺の企てがあったとしているのは作家の切れ味鋭い独創である。
「武田の番人であった同盟者も用がなくなれば、あっさりと命を奪おうとする。それはまさに人ではない外道の振る舞いであった。侍の心に非道が幅を利かす限り戦の世は終わらない。非道を恥じぬ信長を、光秀が葬るしかなかったのはこの世の理である」と。
ともに義昭を担ぎ、信長を担いだ盟友細川藤孝の心理描写も秀逸である。
「光秀は最も頼りとする藤孝に見捨てられた。これほど見事な裏切りはなかった。名門細川家の惣領である藤孝は出自とおのれの才覚を誇り、同じく義昭の家臣であるとはいえ、名もなき足軽衆であった光秀という男になど遅れをとるものであるはずがないとの無念を抱き続けてきたのだ。成り上がり者の光秀が、清和源氏の後胤として将軍宣下し、自ら天下布武に乗り出すとの分不相応な望みを抱くにいたったことは誇り高き藤孝には許しがたき狼藉であった」と。
そして、さらに物語はつむがれる。
「藤孝は光秀の決意を悟るやひそかに秀吉へ知らせた」。
作家は、明智光秀に叛意を使嗾した謀略の主を藤孝と秀吉の2人と名指ししている。
本能寺の変は日本史上のミステリーである。が、本書を前にして、真相は今もなお、深い霧の彼方の中にあるというのは憚られよう。信長も光秀も、戦国の世に終止符を打つ夢を見たが、光秀の夢は信長の夢と目的も手段も異なり、静謐な社会の実現にあった、だからこそ信長を討ったのだと作家は明快に主張している。これはかつて徳富蘇峰が主張した「天下取り野望説」とは一線を画すものである。
本能寺の変は信長自身が誘発した凶変にほかならないが、真保裕一の歴史小説では、「光秀謀反」の根源的なものが生身の光秀の五体からなる人物像から発している。私たちは本書によって、私たちの全く知らなかった光秀がいることを知る。現代日本を代表するミステリー作家によって、深い霧で覆われた闇の一画にほのかな明かりが差し込んできたことを嘉したい。
| Home |





