2021.07.02 世界にもまれな長寿の革命政党の行方は?
      ―中国共産党100年にあたって(1)
                          
田畑光永 (ジャーナリスト)


 中国共産党は昨日、党創建100年を祝った。歴史の事実としては出席者13人の党創立大会の最終日、1921年7月31日が本当の記念日のはずなのだが、なぜか中国では7月1日が結党記念日とされている。といった細かい話はさておいて、中国共産党がすでに100年続いて、さらにこの先も建国100年の2049年にいたるまでの目標(世界の先進国の地位に列する「偉大な中華復興」)を持っているということには、世界の共産主義の現状を見るになんとも驚かざるを得ない。
 共産主義の前段としての社会主義社会というものがこの世の現実となったのは、言うまでもなく1917年のロシアにおける10月革命によってソビエト連邦が生まれてからである。その後、ソ連共産党に続けと世界各国に共産党が生まれた。中国共産党もその1つであり、翌1922年にはわが日本にも日本共産党が生まれた。
 ではなぜ中国共産党100周年に驚くのか。ロシアに生まれたソ連邦に続いて、第2次大戦後には東欧、アジア(中国、北朝鮮、北ベトナム)、しばらく遅れて中南米(キューバ)にも社会主義国家が誕生した。しかし、ソ連をはじめヨーロッパに生まれた社会主義は結局のところどうにもうまくいかなかった。
 「生産手段(工場や農地)を公有化して、人は働いた量によって公平に分配を受ける」、という社会主義の仕組は理屈通りには機能しなかった。それどころか、資本家や地主の搾取を受けない社会といいながら、独裁を自らに認める共産党によって、民衆は言行ともにきびしい制約と監視の中に閉じ込められた。
 ソ連、東欧の社会主義国家は前世紀の80年代末から90年代初めにかけて土台が腐った建物のように崩れ落ちた。多くの社会主義国家と共産党が10月革命から数えて70年ほどの寿命で消えた(もっともソ連共産党の廃墟からロシア共産党という新党が1993年に生まれたが、知識がないのでこれにはふれない)。
 ところが中国共産党は生き延びた。ソ連共産党がうまくいかないのを見て、毛沢東は「真面目に社会主義をやらないからだ」とばかりに、1960年代半ば、文化大革命という大衆運動に火をつけたが、その結末は毛の死後、共産党自身が「10年の災厄」と総括(1981年『歴史決議』)せざるをえないほど惨憺たるものであった。
 それなのに、なぜ中国共産党は生き延びられたのか。一言で言えば、社会主義を捨てたからである。毛の死後、権力を握った鄧小平は「外国に儲けさせながら自分たちも稼ごう」と、いわゆる改革・開放政策に踏み切った。これは自力更生を掲げる文化大革命とは正反対の政策である。当時、巷では「革命で尻尾を巻いて逃げ去った外国の資本家どもが、カバンを抱えて帰ってきた」という言葉が囁かれたが、当然、党内からは「これでも社会主義か」という疑問の声が上がった。
 それに対する鄧小平の答えはこうだった、「資本主義だ、社会主義だ、と騒ぐのはやめろ!」。そして追い射ちをかけるように、「真理の基準はただ1つ、社会的実践である」という命題のキャンペーンに火をつけた。文革では「毛沢東思想は現代マルクス主義の最高峰である」とさかんに叫ばれたから、鄧小平のこのキャンペーンが「国民を豊かにできなかった(社会的実践の結果)毛沢東思想は真理なのか」という問いかけであることは庶民にも理解できるものであった。毛沢東崇拝からの「思想解放」であった。
 そして改革・開放政策が始まった。たまたまこの時期、北京に駐在していた私の目には、この時の社会の変化は社会主義にとらわれずに金儲けが公認されたという政策変化もさることながら、印象的だったのは、それまで思うことを言えなかった重しが取れて、誰でもが自分が受けた仕打ちを訴えるのに始まって、世の中に対する恨みつらみまでを口に出すようになったことであった。
 「壁新聞」という言葉をご記憶のかたもいると思うが、北京市内の長安街という目抜き通りに面した長い煉瓦塀に誰かが言いたい思いを紙に書いて張り出したのが始まりで、次から次へとそれに続く人が現われ、するとそれを読もうという人びとが集まりだして、たちまち大変な賑わいを呈した。
 われわれ外国人記者にとっては初めて接する中國庶民の生の声であった。だから1枚でも多く読みたかったが、なにせ人混みでろくにメモを取ることもできず、やむなく寒さをこらえて夜遅くに懐中電灯をたよりに、昼間、群がる人の数の多さで見当をつけておいた壁新聞を読んで回ったものだった。
 この壁新聞はほどなく張り出しが禁止されてしまったが、いったん開き始めた人々の口を簡単に閉じさせることはできず、その後の1980年代は文革体験を含めて中國自身を見据える文学、映画演劇、評論が権力との追いかけっこをしながらも、かなり自由に陽の目を見ることになり、それが学生運動へ、さらには89年の「6・4天安門事件」の悲劇につながる民主化運動へと発展したのだった。建国から30年、1978年から79年にかけての「中国における言論の春」であった。
 鄧小平の改革・開放路線は文革の傷跡に苦しんでいた中国経済に活気を呼び込んだ。89年の「6・4」による停滞はあったが、その後のアジア通貨危機、2008年のリーマン・ショックにも大きな痛手は受けず、2010年にはGDP総額で日本を抜いて、世界第2の経済大国に上り詰めた。勿論、それは社会主義の理念とは縁もゆかりもない、安い労働力と大きな市場目あてに殺到した外資の力を借りてのものであったが、大きな成果を上げたことは否定できない。
 その後を2012年から引き継いだ習近平政権は、冒頭に掲げた2049年の「偉大な中華復興」目標の前段として、今年、つまり中国共産党結党100周年の2021年には「小康(それなりにゆとりのある)社会」を実現するという目標を掲げた。であれば、政権が国民に対するのにもゆとりのある、つまり多少の不平や批判は解禁する方向に進むのかと思いきや、それどころか現実は、逆に言論統制はますます厳しくなる一方である。中国の民衆はそろそろ2度目の「言論の春」を求めて立ち上がるころだと私は思っているが。
 そこで昨日の結党記念日である。行事といっても集団ごとに色とりどりの揃いの衣服で早朝から広場を埋めた群衆を前にして、1時間余に及んだ習近平の演説がほとんど唯一のプログラムであった。結党100周年記念日といっても、社会主義、共産主義の理想が語られることはいっさいなく、「中国の特色を持つ社会主義」という言葉は何度か発せられたが、その中身についてはなにも説明はなかった。ただ、70余年前の1949年の建国式典で毛沢東が身にまとっていたのと同じ中山服(中国男子の正式の服装)姿で演壇に立ち、この100年に1度のチャンスに自らを毛沢東の生まれ変わりと錯覚させたいという習近平の願望だけはいやというほどに伝わってきた。
 全体として昨日の式典は、お祝いというより、突き詰めて言えば、外国からの批判攻撃に守りを固めて身を守ろうという姿勢が目立つものだった。演説が香港や台湾に触れて、「いかなるものも中国人民の国家主権と領土を完璧に守ろうという固い決心と意思、強大な行動力を甘く見てはいけない」と声を張り上げたあたりで拍手が一段と大きく長かったところにそれは現れていた。
 台湾、香港、さらには新疆やチベットも含めて、中国の内外政策が現在ほど広く国際的に批判を浴びたことは第二次大戦後の冷戦時代を除けば、これまでになかった。1970年代末の「言論の春」以来、中国民衆の言論は封殺されたままであるし、少数民族政策、東・南シナ海での行動、さらには一帯一路沿線の各国に対する政策など、争点は各方面に広がる。
 中国共産党は生誕100年を迎えて、本来のイデオロギーとは無関係に外部世界との応対に忙殺されている。なぜこうなったのか、外からの批判にどう答えているのか、次回から具体的に考えてみたい。
                                    (210701)


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