2021.07.08 アフガニスタンと付き合った私の42年間(1)
      駐留米軍、20年間の戦争から完全撤退へ

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 バイデン政権下の米国は8月末までに、2001年10月から開始したタリバン政権との戦争でアフガニスタンに駐留してきた米軍を、ほぼ全面撤退させつつある。残るのは、米大使館などの警護要員6百人程度だけだという。すでに米軍は8月2日までに、アフガン駐留米軍の総司令部となり、最大1万人を超える米軍将兵と要員が働いていたバグラム米軍基地からの撤収を終えている。同基地は滑走路二本を運用、反政府武装勢力タリバンの捕虜を残酷に拷問することでも知られていた。

 2001年9月11日の米中枢同時テロ事件の首謀者ビンラディンが、アフガニスタンに本拠地を置いていることを突き止めた米国が、アフガニスタンのタリバン政権に引き渡しを要求。タリバン政権が拒否したため、米国は同年10月、アフガニスタンに対する戦争を開始した。アフガニスタンの反タリバン勢力北部同盟も、反タリバン攻撃を開始、11月に首都カブールが陥落、タリバン政権は12月に崩壊した。それ以来、米軍は同盟国軍とともにアフガニスタンに駐留、同12月に発足したカルザイ暫定政権を支援、現ガニ政権まで首都カブールのアフガニスタン政府を支え続けてきた。

 米軍と協調して戦ってきた、英国はじめNATO諸国の軍もほぼ撤退を終えている。アフガニスタンはこれから、どうなるのか。政府軍と戦い続けてきた反政府勢力タリバンは、最近、さらに支配地域を拡大し、全国34州のうち39%程度を実効支配、政府側の支配は23%程度に縮小している、との米有力シンクタンクの分析もある。
 米軍全面撤退後、政府軍とタリバンの内戦が全国的に再拡大する危険を予想するメディアもあるが、私はそうは思わない。それは別稿に書こう。

▼アフガニスタンと付き合った42年間
 私事になるが、アフガニスタンと、42年間、付き合ってきた。共同通信社外信部の記者・デスクとして、そのあと龍谷大学法学部政治学科の研究者として。
 1979年2月:イランで王政打倒イスラム革命が起こった。外信部デスクだった私は、現代世界でのイスラム教とムスリム(イスラム教徒)の現実を報道すべく、長期連載を提案。特派員網を活用、不在の国々には東京から取材記者を派遣することが決まった。同年6月、私は、ソ連のモスクワを出発点として、ソ連中央アジアのウズベク共和国(タシケント、サマルカンド、ブハラ)、アゼルバイジャン共和国のバクー、さらにアフガニスタン(カブールなど)の取材を担当した。6月に日本をスタート、モスクワに向かった。ソ連内の交通と取材はソ連のノーボスチ通信社の記者が同行し、とても親切にアレンジ、通訳をしてくれた。その後、モスクワに戻り、アフガニスタンのカブールに空路で入った。アフガニスタンで10日間取材の後、陸路カイバル峠を通ってパキスタンに入った。
 カブール滞在は楽しかった。78年のクーデターで王族の独裁者が殺害され、開明的な人民民主党のタラキ書記長を議長とする革命評議会が発足、首都カブールは、明るい、楽しい雰囲気に包まれていた。外国プレスに対する対応役は女性だった。カブールの世界的に有名なバザールには、高関税のインドに密輸する外国製品があふれていた。私は妻への土産に 特産のラピスラズリのペンダントを買った。
 この特派員網の取材による通し見出し「イスラム・パワー」の企画報道全25回は、79年8-9月、全国の地方紙に掲載された。うち7回を私が書いた。

▼ソ連軍侵攻
 しかし、明るいアフガニスタンは数か月で暗転した。79年12月、タラキ議長が死亡して、アミン首相が議長に就任したが、それを待っていたようにソ連軍が侵攻を開始。親ソ連のカルマル元革命評議会副議長がクーデターを起こし、アミン議長を処刑して全権をにぎった。
 アフガニスタンに侵攻したソ連軍は12月中に首都カブールまで侵攻。80年1月に、私はソ連軍支配下になったカブールに東京から飛んだ。まず、外国人ジャーナリストが定宿とし、アフガニスタン政府の広報も行き届いている郊外のインターコンチネンタル・ホテルに入った。その翌日は、カブール市内までタクシーを走らせ、緊張感がみなぎっている街のようすや、政府建物、街を軍用車両で走っているソ連軍兵士たちなどの写真を撮りまくった。幸運にも、帰国する日本人商社マンがいたので、フィルムを預け、東京で本社を呼び出して、渡してほしいとお願いした。快く引き受けていただいた。その方は、東京に帰り着くとすぐ、共同通信本社に連絡していただいた。フィルムはすぐ活用された。
 確か、その翌日、ホテルにソ連軍が入り、外国人記者、カメラマンの外出を一切禁止した。夜になると、盆地の底にあるようなカブール全市を、ソ連への抗議の声が深夜まで響きわたった。
 外出できなければ仕事にならない。翌日、仲良くなった英国人記者と語り合い、たしか夜九時ころにホテルの広い庭を囲う塀を乗り越え、はるかに見下ろすカブールの街に入り込んだ。街中が「アラーアクバル」唸り声に埋まっていた。ホテルに帰り、建物に入ろうとしたとき、待ち構えていたソ連兵につかまってしまった。即刻、自室に押し込められ、翌日の出国を命令された。それ以外の尋問や危害は何もなかった。英語が使えるソ連軍要員がいなかったのだろう。翌日、私は、ニューデリー行きの便に無事乗れた。
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