2021.08.12 行動する文学者・西田勝さん逝く
社会文学研究や非核自治体運動を主導

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 文芸評論家・平和運動家の西田勝さんが7月31日、すい臓がんで亡くなった。92歳だった。西田さんは、文学研究や反核平和運動に大きな業績を残したが、これらの活動を一言でいえば、いずれも、スケールの大きい視点に裏付けられた、行動力に富み、しかも「一市民の立場」に徹したものであった。世界も日本も今、危機的な状況にあり、混迷している。私たちは、この世の羅針盤とも言うべき惜しい人を失った。

 「西田勝は、7月31日の夕刻、静かに旅立ちました」というメールが、西田さんの周辺の人から届いたのは8月5日の夕方だった。今年の正月に、西田さんから「11月の末、渡来の朝鮮人たちによって作られた飛鳥京跡をブラブラした後、丹後半島伊根湾の舟屋を訪ねました。今年もどうぞよろしく」と書かれた年賀状をもらっていただけに、突然の訃報に言葉を失った。
 周辺の人からのメールは、さらにこう続いていた。
 「葬儀についてですが、儀礼的なことは一切するな、というのが遺言です。冠婚葬祭には出席しない人で、偽善的なことは大嫌い。葬儀はしない、墓は作らない、骨は海へ(魚が好きでした)と、生前から決めていました。故人の遺志に従い、海が見える斎場にて火葬しました」
 いかにも西田さんらしい旅立ちだ、と私は思った。

 1928年、静岡県清水市(現静岡市清水区)に生まれた。旧制静岡高等学校を経て東京大学文学部国文学科を卒業。法政大学文学部非常勤講師、同学部助教授を経て、1955年、同学部教授となる。1994年に退職し、西田勝・平和研究室を設立した。

 最大の業績は『田岡嶺雲全集』か
 この間、1953年には、文芸評論家・小田切秀雄らと「日本文学研究所」を、59年には、若手の日本近代文学研究者の交流親睦団体「近代文学懇談会」を設立し、65年には、小田切秀雄、ドイツ文学者・伊藤成彦らと雑誌『文学的立場』を創刊した。
 さらに、85年には、現代文学の社会化を目指す「日本社会文学会」を創立し、代表理事に選ばれた。そこには、西田さんの「文学は花鳥風月だけを詠っているだけではいけない。社会問題と取り組まねば」との思いがあったと思われる。そのためだろう、同文学会は研究課題に「女性解放と文学」「天皇制と文学」「核と文学」「環境と文学」「シベリア 出兵と抑留」といったテーマを取り上げた。
 西田さんはまた2001年に、「植民地文化研究会(後に植民地文化学会と改称)」を創立し、代表を務めた。この研究会は、「近代日本の発展は、アジア・太平洋の国々や地域への侵略・占領・植民地化を抜きにしては考えられない。日本の近代文化もこうした事実を踏まえて見てゆかねば」という西田さんの発想から始まったもので、研究会では「満州国」も取り上げられた。

 西田さんの多岐にわたる日本近代文学研究の一端を紹介してきたが、どうしても落とせない業績がある。それは『田岡嶺雲全集』(全7巻、法政大学出版局)の編集だ。
 田岡嶺雲は明治期の思想家。西田さんによれば「樋口一葉や泉鏡花の才能をいちはやく認めたほか、藩閥とともに富閥を倒すための革命や、欧米帝国主義からのアジアの解放、女性解放を訴えた。そこには、嶺雲が十代のころ盛んだった自由民権運動の影響がみられる」という。が、嶺雲は世間から忘れ去られてしまう。そこで、西田さんが「明治の思想家をぜひ甦らせたい」と思い立ったのが全集の刊行だった。
 最初の巻を刊行できたのは1969年。最終巻が刊行されたのは2019年。なんと構想67年、第1回配本から50年で完結という労作であった。この間、1987年には、嶺雲の出身地の高知市に顕彰碑が地元の人たちによって建立されたが、これも西田さんの提案だった。

 非核自治体運動のネットワークづくりに貢献
 文学研究のかたわら、西田さんは反核平和運動に奔走した。
 1980年には、歴史家の色川大吉氏、作家で元ベ平連代表の小田実らと反戦市民組織「日本はこれでいいのか市民連合」を創立、世話人に就いた。当時は、日本で右傾化の流れが強まりつつあった時期だが、べ平連はすでに解散し、市民を中心とする反戦組織はなかった。このため、西田さんらが右傾化に抗する声をあげたのだった。

 82年1月、井伏鱒二、井上靖、安岡章太郎ら日本を代表する文学者287人による反核アピールが発表された。それは「地球が核戦争の戦場となることを防ぐために、私たちはすべての人々がただちに平和のために行動するよう訴えます」と述べていたが、このアピールは各方面に大きな反響を呼び起こし、文化界では、音楽、映画、演劇、能楽、美術、写真などの団体が相次いで同様のアピールを発表するという展開をみせた。
 そればかりでない。このアピールは、前年秋から始まっていた、平和団体による「第2回国連軍縮特別総会に核兵器禁止と軍縮を要請する署名運動」に火をつけた形となり、署名運動は国民的規模で燃えさかった。
 この反核アピールの呼びかけ人の中心にいたのが、作家の中野孝次、伊藤成彦、そして、西田さんだった。

 83年には、西田さんは、同僚とともに市民向け講座の「法政平和大学」を開設したり、「世界一周の船旅」の第1回ピースボートに乗船し、グアムやサイパンなど太平洋の戦跡を訪問している。

 1981年、英国のマンチェスターで、ユニークな反核平和運動が誕生した。非核自治体運動である。核戦争から免れるために、自治体に非核宣言をさせようという運動だった。もちろん、運動の主体は市民であった。これが、日本にも輸入され、各地で自治体に非核宣言をさせる運動が始まる。
 西田さんは「日本でもこれを全国化させたい」と、1985年から、矢継ぎ早に西田勝・平和研究室から『月刊・非核自治体通信』『非核自治体インフォーメーション』『非核ネットワーク通信』を連続して発行した。それは、2017年まで続いた。いずれも小冊子だったが、それには世界の核兵器開発の情況や、内外の非核自治体運動に関する情報が載っていた。各地で運動する人たちの交流の場でもあった。
23042_外国人と交流する西田勝さん
西田さんは外国から友人や知人が来ると、東京・奥多摩を案内して和風レストランでもてなした。写真の左から2人目が西田さん(1989年10月29日。筆者写す)

 日本非核宣言自治体協議会によれば、現在、非核宣言自治体は1653。自治体数は1788というから、宣言自治体は92%にのぼる。西田勝・平和研究室は非核自治体運動の発展に大きく貢献してきたと言えるのではないか。
 日本の反核平和運動は、それまでは、労組などの大組織が主導するという形が一般的だった。それに引き換え、非核自治体運動は、地域で暮らす草の根の市民を中心とする運動だ。そこには、西田さんの哲学が反映していたのでは、と私は考える。
 西田さんのモットーは「Think globally act locally」(地球的規模で考え、足元から行動せよ)だった。それに、『グローカル的思考』という著書もある。「グローカル」とはグローバル(地球規模の)とローカル(地域的な)を合わせた造語だ。西田さんとしては、何事もグローバルな視点に立ち、ローカルから行動を起こすことが大切だと訴えたかったのだろう。もちろん、自らそれを実践した。非核自治体運動はその一つだった。

 そのほか、さまざまな運動に関わった西田さんに関する印象で忘れられないことが多々ある。その一つは、運動に参加するに当たっては「一市民」に徹したことだった。反核平和運動に加わった学者には、一般の人よりは高い視線から、高邁な理論を振りまく学者がいた。しかし、西田さんは一般市民とともに街頭に立ってビラまきをした。

 80歳を過ぎた西田さんを、国立国会図書館の新聞閲覧室でよく見かけた。近代文学研究や反核平和運動のための資料を集めていたのだろう。そのたびに、衰えを知らぬ行動力と執念に圧倒された。まさに「タフな老人」であった。

 それにしても、西田さんを反核平和運動に駆り立てていたものは何だったろうか。それは、戦時下の旧制中学生時代の戦争体験ではないか、というのが私の推論である。「二度と戦争を起こしてはならない」という思いが、西田さんを突き動かしていたのではないか。

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