2021.10.13  不思議の国・日本
        ―すこし離れて自分を見れば

盛田常夫 (経済学者・在ハンガリー)

 人は自分のことより他人のことがよく分かる。誰でも自分自身を客観視するのは難しい。それは人に限らず、国も同じだ。
 民間人になりたいという眞子さんの結婚に、小姑さながらに意見する国民が多いのに驚いた。もちろん、声を上げている人の実数はそれほど多くないだろうが、メディアはこぞって結婚反対の声を取り上げている。メディアを含めて、それなりに時間を持て余している人が相対的に多いと言うことか。自分のことを省みることなく、他人を叩くことで憂さ晴らししているだろう。
 レジ袋の有料化に反対する声も、実数は少ないと思うが、それを大勢が反対しているかのように報道するのも可笑しい。欧米ではそんなことが問題になることはない。世の中、「タダ」の物などありはしない。レジ袋にもコストがかかっている。レジで消費者が払うか、販売者が商品価格に転化するか、あるいは事業者が負担するしか方法がない。そんなことに大騒ぎする社会が可笑しいことに気がつかない。
 社会生活面で後進性が見られたハンガリーでも、いろいろな面で工夫や進歩が見られた。旧社会主義時代から続いていた地区の診療所での順番待ちがなくなった。リモート診断やクラウドを使った処方箋が普及して、診療所で順番を待つ必要がなくなった。薬局で保険証番号を言えば、クラウドから処方箋を読み取り、調剤してくれる。薬をもらうためだけの診療は不要になった。直接診断が必要な場合には、インターネットで予約時間を取ることができるようになった。もっとも、総合病院での診療にはまだ昔の慣行が残っているが。
 ワクチン接種はすべてネット予約で、接種証明書はインターネットで登録された個人情報窓口を開けば、ダウンロードできる。居住証明書も、以前は役所に出向いて申請し、さらに出来上がった書類を取りに行く必要があったが、コロナ禍のお陰で、ネットで申請すれば役所が郵便で送付してくれるようになった。
 ただ、依然として、病院や学校のトイレにはトイレットペーパーを置いていない。いろいろ規則を決める割には、基本的な公衆衛生面で抜けているところが多い。
 コロナ禍を契機に、少なくともハンガリーではデジタル化が進んだ。これにたいして日本はどうか。いろいろな情報に接する限り、日本はアナログ社会からの脱却は難しいようだ。健康保険も年金も複数の制度があり、一律に統合できないから、デジタル化が難しいのは分かるが、これでは先進諸国からますます遅れるだろう。先進国のなかでも珍しいアナログ・ガラパゴス国になるだろう。

 久しぶりに震度5の強い地震に見舞われた首都圏だが、少なくとも人々は首都圏直下型地震がいずれやってくるという不安を抱いている。実際に地震が生じる日時を特定できないが、その日が来ることを覚悟している。
 自然災害に比べて、人々は社会的な人災には楽観的だ。国庫からの支出が1年間の税収と同じ規模の国債に支えられ、すでに20年以上もの税収を前借りしている状態に人々は楽観的だ。20年分の給与を前借りしたらどうなるか、自分のこととして考えてみれば良い。国の財政など、なんとかなるのではないかと考えているのだろう。だから、税金の引き上げを言おうものなら、人々は猛烈に反対する。国の将来に責任ある政治は世論動向を気にして、税収を上げることを明言できない。与党も野党もお金を配ることは叫んでも、税収を上げて国庫の収支を改善する政策には口をつぐんでいる。与党も野党も、議席の確保が最優先事項なのだ。もっとも、この種の大衆迎合主義政治は日本だけのことではなく、欧州でも幅を利かせている。しかし、少なくとも欧州では第二次世界大戦後のハイパーインフレの教訓を忘れることなく、国家債務の水準には注意を払っている。ポピュリスト政策に邁進しているハンガリーでも、国家累積債務の水準をGDPの7割以下に抑えることが政府目標になっている。日本の公的累積債務はGDPの256%という危険水準に達しているが、政治家は知らんふりである。それを指摘した財務次官を「けしからん」と恫喝する国だ。
 とくに旧社会主義国には苦い経験がある。1989年から始まった体制転換過程の中で、放漫財政をおこなってきた諸国は軒並みハイパーインフレを経験した。社会主義時代は人為的に為替を操作し、インフレを抑圧してきた。その数十年の付けが、体制転換によって爆発した。それがポーランド、旧ユーゴスラヴィア、バルカン諸国、旧ソ連共和国でハイパーインフレをもたらした。一つの社会体制が抱え込んだ負の遺産が、積もり積もって爆発したのである。
 自然災害に比べて、社会の人災は何らかのきっかけ(トリガー)がないと爆発しづらい。その不確実性の高さが人々の目を曇らせる。ところが、社会体制が爆発(崩壊)してしまうと、すべてが吹っ飛んでしまう。戦時国債が紙切れになったように、いったん社会的変動が起きると、経済的な債権債務の関係が無に帰してしまうのだ。その時に叫んでも、もう遅い。どうなるものでもない。「今さえ良ければ良い」という国民の行動様式は、いずれ大きなしっぺ返しを受ける。それが社会の法則である。

 自民党の高市政務調査会長は10日のNHKの討論で、矢野康治財務事務次官が『文芸春秋』(2021年11月号)への投稿で、与野党の経済政策を「バラマキ合戦」と表現したことを「けしからん」議論だと切り捨てた。
 政治家はそんなに偉いのか。日本の国家財政が破綻一歩手前にあることを指摘するのが、それほどけしかんことか。アベノミクスで未曾有の金融緩和をやっても、景気回復による財政収支の改善など起こらなかった。資産バブルを起こしただけだ。そのことの反省もなしに、何十年も前に終わった高度成長時代をもう一度と、財政支出にたよる政策は国家財政破綻への道を進めるだけだ。福島原発事故と同じである。原発を推進した自民党は福島原発事故の責任をとっていない。その同じ自民党が財政支出一本槍で積み重ねてきた財政赤字の結果に責任をもたないし、もつこともできない。その結果として起こりうる財政崩壊による社会生活の破壊に、誰が責任をもつのか。誰も責任を持たない無責任政治がまかり通っている。高橋洋一のように、「日銀に保有された国債分は、政府勘定の間で帳消しになって政府の債務から消えてしまう」と主張するデマゴーグが、時の権力に取り入って、メディアでも大手を振っている。
 左翼も左翼で、社会主義体制崩壊の現実を分析することなく、他人事のように振る舞っている。だから、自民党とたいして変わらぬ大衆迎合主義でしか対抗できない。なんとも情けない限りだ。

 コロナ禍から何を学ぶのか。馬鹿の一つ覚えのように、十年一日のごとく、消費支出を増やせば経済はよくなると唱えるのは、高度成長路線を懐かしがるアベノミクスと同じである。コロナ禍を福に転ずるためには、不要不急の消費から社会的に不可欠な消費を重視する方向に転じることが必要なのだ。そのために、社会的サーヴィス拡張のための財源確保が不可欠である。個人消費を増やすことが、日本の将来社会を構築する道ではない。個人消費を削減して、社会的に不可欠なエッセンシャル消費に所得を振り向けることが必要なのだ。自然災害に対処するために、また財政崩壊という人災を防ぐためにも、人々の消費行動や消費生活を変える必要がある。そういう議論なしに、当座のお金の分配だけを議論するのは、大衆迎合主義政治で、国民を見下げた無責任政治である。
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