2021.10.20  元毎日新聞記者・瀬下恵介さんを偲ぶ
       多くのマスコミ人を育てる

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 10月2日の夜のことだ。テレビのチャンネルをひねっていたら、画面に俳優の倍賞千恵子さんが登場していた。「豪華!寅さん祭りスペシャル[山田洋次監督厳選!感動名場面]」という番組だったが、そこで語り出した彼女を見た瞬間、私の脳裏に浮かび上がってきた顔があった。それは、元毎日新聞記者・瀬下恵介さんの顔だった。なぜなら、私は57年前に図らずも新聞記者として倍賞さんに直接会う機会に恵まれたが、それは、瀬下さんの突拍子もない挑戦のおかけで実現したものだったからである。しかも、私は、この番組の数日前に瀬下さんの訃報に接したばかりだったから。

 倍賞さんを記者クラブに呼んできた瀬下記者
 私が瀬下さんに出会ったのは57年前のことだ。
 朝日新聞東京本社社会部の記者だった私は東京五輪が開かれた1964年の2月から10月まで、東京・両国の本所警察署内にあった「墨東記者クラブ」(下町記者クラブともいった)に配属された。ここは、警視庁第七方面本部管内(東京の墨田、江東、江戸川、葛飾、足立の5区)の事件・事故を取材するための拠点で、新聞各社やNHKから記者やカメラマンが派遣されていた。そこで、私は毎日新聞社会部の瀬下記者と知り合いになった。

 当時、警視庁第七方面本部管内では事件・事故が多かった。このため、墨東記者クラブに詰めていた記者はとても忙しかった。それでも、たまに事件・事故のない日があり、まして雨の日などは、狭くて暗い記者クラブで時間をつぶすほかなかった。クラブ員は本を読んだり、居眠りをしたり、他社の記者と麻雀卓を囲んだりしたが、それでも、そうやって午前10時から夜10時までをクラブで過ごすのは退屈極まりなかった。

 9月に入ったばかりのころだった。その日も事件・事故がなく、クラブ員は暇を持て余していた。すると、瀬下記者が突然、声を張り上げた。「倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか」
 倍賞さんは当時、新進の若手俳優で、歌手でもあった。歌『下町の太陽』が大ヒットし、彼女主演で映画化された(監督は山田洋次)ばかり。今風に言えば、人気急上昇中のアイドル。「下町を大いに宣伝してくれた彼女に、下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」との瀬下記者の提案にクラブ員は皆仰天した。が、「こんなむさ苦しいところに来てくれるわけがない」とだれも相手にしなかった。
 でも、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を投げ入れながら、どこかへ電話をかけ続けた。随分長い時間が過ぎ去った後、瀬下記者が突然叫んだ。「おーい、みんな、倍賞千恵子さんがくるぞ」

 瀬下記者によれば、電話をかけた先は松竹本社。倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼んだところ、先方は難色を示したが、どうしてもと粘ったら、ついに「行かせましょう」と言ってくれた、とのことだった。

 10月1日、彼女は一人で本所署にやってきた。私たちは署長室を借り、そこへ彼女を案内し、コーヒーとケーキで彼女と懇談した。そして、彼女に「あなたは『下町の太陽』で、東京・下町の良さを全国に知らしめた」などと書いた感謝状と、太陽をかたどったガラスの盆を贈った。当時、彼女は23歳。「きれいだな」。クラブ員から、そんな声がもれた。
 彼女自身、大変驚いたようだった。後になって漏れ聞いたところでは、「わたし何も悪いことをしていないのに、どうして警察にゆかなくてはならないのかしら」と周囲に漏らしていたそうだ。

元毎日新聞記者・瀬下恵介さんを偲ぶ
   本所署記者クラブ員と懇談する倍賞千恵子さん(その右は筆者)
   =1964年10月1日、東京・本所署署長室で

 これには、後日談がある。9年後、私たちは倍賞さんと再会することになる。
 すでに墨東記者クラブから去っていた、私たち旧クラブ員から「また、倍賞さんに会いたい」との声が上がり、私たち旧クラブ員が、映画『男はつらいよ』シリーズのヒットを祝って、寅さんの妹さくらを演じた倍賞さんを招いたからである。
 私たちは、山田洋次監督、寅さん役の渥美清さんも一緒に招いた。1973年12月16日。銀座のレストランで私たちは3人と昼食を共にしたが、倍賞さんは大スターに変身していた。が、本所警察署長室での初対面の時に感じさせた庶民的な雰囲気を失ってはいなかった。
 この3人との交渉を担当したのはまたしても瀬下記者だった。

 ところで、墨東記者クラブが倍賞さんをクラブに招いたことは、明らかにマスコミ界では珍事と言えた。だから、この話題は、すぐ他の警察記者クラブに伝わった。「おれたちは、吉永小百合さんを招くぞ」などという威勢のいい声が聞こえてきた。しかし、結局、女性の俳優を招くことができた警察記者クラブは他には1つもなかった。そこで、私はこう思うようになった。「瀬下記者が着想し、実現させたことはまことにユニークな試みで、マスコミ界では画期的なことだったんだな」と。

 マスコミ寺子屋を創設し、マスコミ人の育成へ
 墨東記者クラブを去った瀬下さんは、その後、東京本社社会部、西部本社報道部、「サンデー毎日」編集部などに勤務した後、東京本社社会部遊軍長、サンデー毎日編集次長兼別冊編集長などを経てTBSブリタニカに移籍、「ニューズウィーク日本版」の創刊に関わり、同誌の初代発行人を務めた。その後、同社取締役を経て、1995年に同社を退社する。

 退職した瀬下さんは、同年、マスコミ寺子屋「ペンの森」を創設した。要するに、新聞記者、編集者などを養成するマスコミ塾である。
 またしても、私は驚いた。瀬下さんが倍賞千恵子さんを本所署の記者クラブに呼んできたときには、その突拍子もない着想に驚かされたが、彼が今度はマスコミ塾を開設したと聞いて、私は同じ感慨に襲われたのである。なぜなら、そのころも、新聞記者OBがマスコミ塾を始めるケースがあったが、長続きしなかったからだ。マスコミ人を育てる事業は極めて意義のある仕事だが、これを継続的に続けるためには資金と人材が必要で、始めるにはなかなか勇気のいる事業だったのだ。
 それだけに、「瀬下君がマスコミ塾を」と驚いたのだ。私の目には、「瀬下君はまたしても突拍子もないことに挑む積もりなんだ」と映った。

 塾開設直後に、私は東京・神田にあった「ペンの森」を訪ね、久しぶりに会った瀬下さんに「なんでマスコミ塾を始めたの」と尋ねた。が、彼はおちょぼ口をして「ふっ、ふっ、ふ」と満面笑みをたたえるばかりだった。これは、彼が得意なときにみせる動作だった。

 今年9月末に届いた「ペンの森」卒業生の集まり「瀬下塾・ペンの森OB会」の会報を見ていたら、瀬下さんが8月9日に老衰のため亡くなった、とあった。82歳。
 関係者によれば、「ペンの森」がこれまでに送り出したマスコミ人(新聞記者、編集者など)は、500人以上にのぼるという。大手の新聞社や出版社で活躍している人も少なくないそうだ。
 瀬下さんがこれまでに果たしたマスコミ界への貢献は多大なものだったと言っていいだろう。が、彼の死去を報じたのは毎日新聞だけだった。マスコミ界は報道を通じて彼の貢献を讃えるべきだったのではないか。

 ジャーナリストとしての生き方を学ぶ
 私は、彼の生涯から1つのことを学んだ。ジャーナリストは、時には突拍子もないことを考えてみるべきだ。そして、あれこれ思案するだけでなく、思いついたことに、失敗を恐れず果敢に挑戦してみることだ。そしたら、思いがけない道が開けるかもしれない――瀬下さんの生き方はそう言っているように感じる。
 謹んで瀬下恵介さんのご冥福を祈る。
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