2021.11.24 寂聴さんに、らいてうの家の庭で青空説法をしていただきたかった

米田佐代子(女性史研究者)


 出先で、思いがけない訃報を聞きました。11月になってから身辺多忙でブログを書くヒマもなく、あっというまに時間が経って行く最中でした。でも今日は書こう。瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなったという知らせを聞いてしまったのです。わが「平塚らいてうの会」(前身は「平塚らいてうを記念する会」)を熱心に応援してくださった方でもありました。謹んで哀悼の意を表します。
 平塚らいてうの会は、おカネもないのに茅ヶ崎にらいてうの記念碑を建て、記録映画作家羽田澄子さんを口説いてらいてうの記録映画『平塚らいてうの生涯』をつくり、さらに信州あずまや高原に「らいてうの家」を建設してしまうという無鉄砲ぶりを発揮してきたのですが、瀬戸内さんは、記念碑が完成したときは茅ヶ崎まで出向いてくださり、映画を作る途中で資金難に陥ったときは「有料」の講演会を開いて1600人も集まったその入場料を寄附するという離れ業で助けてくださいました。今は亡き小林登美枝さんが会長のとき「らいてうの家」建設運動が始まりますが、瀬戸内さんは呼びかけ人にもなってくださいました。
 その瀬戸内さんのことでわたしの忘れがたい思い出は、記録映画ができた時のエッセイです。羽田澄子さんは映画製作を頼まれたとき、「わたしは自分の考えでらいてうの映画を作ります」と宣言、一同どんな映画になるかと固唾をのんで完成を待ったのですが、完成後試写会を見た寂聴さんが週刊誌に書いたエッセイがわたしの心に残っています(週刊新潮2002年1月31日付)。
 瀬戸内さんは、試写会の席上で「恥かしいほど涙があふれて困ってしまった」と書いておられます。「私は実に大きな誤りをしていた。これまで私はらいてうの真骨頂は、青春時代、『青鞜』から身を引くまでで、若い燕の語源となった年下の奥村博史と結婚以後は、本来のオーラがなくなったと思い、戦後の平和運動はらいてう以外の人も出来ると思っていた」というのです。
 じつは、今でも少なくない人が似たような印象を持っているのではないか。らいてう没後に完成した『自伝』が、編集した小林登美枝さんの細心の配慮にもかかわらず、というより配慮がありすぎて、かえってらいてうの真髄を生きいき伝えるのに「物足りなさ」を感じさせたのではないかとわたしは感じています。というのは、最近らいてうの手書きの日記が発見され、それらが自伝に引用されたこともわかってきたからです。引用されなかった部分も含めると、そこから見えるらいてう像は、決して「既成の政治勢力に追随した」などというものではありません。らいてうの戦後の平和運動をそう見る論者もいるなかで、瀬戸内さんが2002年の時点で「そういう見方は間違っていた」と言ってくださったことにわたしは感動しました。瀬戸内さんはつづけて「羽田さんの、何のてらいもない、あるがままのらいてうのドキュメント映画を見せてもらい、後半生に至って涙が込み上げてきたのだった。らいてうの長い平和運動に至るまでの、長い人生の正直一途、純粋無垢な生き方こそ、ウーマンリブの元祖となるべきエネルギーの根源であり、そのパワーが結実した成果としての必然的な平和運動なのだと、肝に銘じてはじめて納得した」と書かれました。このコピーをわたしは20年近く大事に持ち続けています。
 わたしは、瀬戸内さんのこの言葉がらいてうに対してだけでなく、ご自身の晩年に向かう時代の生きかたを語っていると思う。この1年余り後に、火のようなこころざしをもってイラク戦争に反対、東日本大震災の時は寝込んでおられたのに原発事故を許せないとベッドから「ショック立ち」して被災地を訪ね、2015年「戦争法反対」の国会前での座り込み、2020年「日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」の共同よびかけ人にも名を連ねたことなどを見れば一目瞭然です。わたしは2006年らいてうの家をオープンして以来らいてうが残した日記等を含む肉筆資料の保全と同時に資料を公開してらいてう研究を深め、「女たちはなぜ平和をめざすのか」を解き明かす仕事をしたいと思いつづけてきました。その仕事は遅々として進まず、瀬戸内さんにお目にかけられなかったことを愧じるほかありませんが、この11月20日の「らいてう没後50年」記念のつどいでは、こうした思いを込めて基調報告をしました。おそらくそれはわたしにとって「らいてうの会」会長としての最後の仕事になるでしょう。 さまざまな感想が寄せられ、らいてうがおよそ「運動家」としては不向きだったのに、「女が思うことを言わなければ」と思い定めて行動したことに共感した方が多いことにわたしも感動しています。
 一つだけ残念なのは、信州あずまや高原のカラマツと熊笹に覆われた雑木林を切りひらいて建てたらいてうの家の庭に瀬戸内さんをお招きして「青空説法」をしていただきかった願いが果たせなかったことです。何回もラブレターを出しましたが、京都から東京駅発の新幹線と北陸新幹線を乗り継ぎ、上田駅からの山道を40分も上ってきていただくのはもうできないと諦めました。いまでも夢に見るほどです。アカゲラがドラミングし、アサギマダラが渡り、夏は野生のカモシカも闊歩、クマも出没する高原のちいさな庭にお招きしたかった。でも、いいのです。らいてうだって日記に「ちいさな家でも建てたい」と書きながら「毎日平和平和といそがしく」訪ねることもなかったこの地に平和の種がまかれ、「らいてうのこころざしを受けつごう」というひとびとの「平和・協同・自然のひろば」が生きていることを、瀬戸内さん、空の上から見ていてくださいね。合掌。
          (「米田佐代子の森のやまんば日記」2021年11月12日付に補筆)
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