2008.12.04 黒澤明全作品30作の放映(27) 『デルス・ウザーラ』(1975年)
―共生し観照する人間像の発見―
半澤健市 (元金融機関勤務)

 ■『デルス・ウザーラ』は08年12月6日(土)午後9時からNHK・BS2で放映されます■

 『デルス・ウザーラ』はロシア義勇軍によるロシア東南部沿海州、ウスリー河附近の探検記録である。デルス・ウザーラとは探検隊が遭遇し協力を得た少数民族の孤独な猟師の名前である。隊長のアルセーニエフは軍人出身だが科学的、文学的素養にも優れ多くの探検記録、旅行記を残した。映画『デルス・ウザーラ』はその記録を基にして黒澤明が監督したソ連映画である。

《『デルス・ウザーラ』までの5年間》
 『どですかでん』公開の70年10月から『デルス・ウザーラ』公開の75年8月までに5年が経過している。その間、72年12月22日に黒澤は自宅浴室で自殺を図った。その原因や経緯について述べる余裕はない。ここでは『どですかでん』の興行的失敗、日本映画の退潮、が背後に客観的に存在したというにとどめる。
黒澤の映画製作の終生の同伴者野上照代は黒澤を見舞ったときのことを次のように語っている。

▼山王病院だったか、駆けつけました。病室には小泉堯史さん(映画監督)だったと思うけど、ひとり枕元にいた。黒澤さんは首や腕を包帯でグルグルに巻かれ、かすれた声で「ああ、ノンちゃん(野上)か」と言われたような気がします。私は病院へ行く前から、こういうときはメソメソしちゃいけない、元気に叱咤激励スタイルで行こうと思っていたので、いきなり「いやですよ! もう、こんなことなさっちゃ!」と叱るように言ったのですが、思わず落涙しました。そして持って行ったクリスマスの飾りを出して「もうクリスマスなんですから!」と見せると、黒澤さんは包帯だらけの腕をのばして小泉さんに、「これをあの壁に下げて、見えるところに・・・」と頼みました。(『蜥蜴の尻っぽ』)

当時の黒澤のことを野上は「その頃の黒澤さんは、極度の孤独感に陥っていた。〈友達は、金にならないと思うと離れてゆく〉〈「電話一本よこさない〉そんな言葉が口から出るようになった」と書いている。(『天気待ち―監督・黒澤明とともに』)

《出会い・苦闘・清澄な画面》
 しかし黒澤は自分でいうように強運であった。71年頃から黒澤明を監督とするソ連映画製作の話は始まっていた。「世界のクロサワ」は、とくに『白痴』と『どん底』の監督としてソ連でも著名な映画作家であった。長く困難な事前折衝の末、黒澤組のクルーがモスクワへ飛んだのは73年末である。そしてシベリアロケとモスクワのセット撮影が終わり帰国したのは75年6月であった。1年半の長丁場であった。日本人スタッフといっても黒澤、プロデューサー(松江陽一)、カメラマン(中井朝一)、記録(野上照代)など数名である。言葉のカベ、零下40度という過酷な条件下の撮影は困難を極めた。野上は『天気待ち』のなかでその経過を詳述している。長期の撮影で疲労困憊した黒澤が不機嫌から、野上の作った「お粥」の皿を、食べずに床に叩きつける場面がある。黒澤明はすでに阿修羅である。

黒澤明が悪戦苦闘していたとき国内外では何が起きていたか。
73年秋に第4次中東戦争が勃発し、第1次オイルショックによる狂乱物価の時代となった。74年8月には米大統領ニクソンがウォーターゲート事件で辞任し、日本でも田中角栄が立花隆の土地転がし記事から辞任に追い込まれ三木内閣へ代わる。75年4月に解放戦線がサイゴンを陥落させる。
私が『デルス・ウザーラ』を公開時に観たときの印象は強くない。
しかし今度、DVDを観て私はその清澄な画面に打たれた。力みのない人間観照の表現に黒澤の変身をあらためて感じた。全作品を通じてこれだけ静謐感をただよわせる作品は少ないのではないかと思った。黒澤はデルス・ウザーラという新しい人間を発見したのである。デルスは、自然のなかに、自分もその一部として生きている。そのような人間類型は、今までの黒澤映画の主人公にはいなかった。
ところが黒澤明という人格のなかにあっては、デルスはかねてから宿っていた人間類型なのである。1930年代に黒澤はデルス・ウザーラを読んで映画化の機会を狙っていたのである。黒澤はこう語っている。

▼『デルス・ウザーラ』の映画化は、ぼくが三〇年も前から考えていたことでした。まだ助監督だつたころ、たまたま探検記が好きで、『デルス・ウザーラ』の原作を読んで、デルスという人物がとても好きになったのです。ぜひ映画にしたいと、『白痴』(51年)を終えたあとだったと思いますが、久板栄二郎さんに話してシナリオを書いてもらったのです。そのころは勿論ソビエトで撮るなんて考えてもみなかったから、舞台も人物も日本に置き換えてやったのですが、できたシナリオがどうもおもしろくない。しょせん日本ではうまくいかないのです。(『黒澤明ドキュメント』、キネマ旬報増刊、74年)

《「共生」と「観照」を好演したソ連人俳優》
 『デルス・ウザーラ』公開の頃に黒澤が青年、学生に語った3時間の座談記録が残っている。一人の学生が「(この)映画は淡々としてますね。黒澤先生の作品は、ドラマチックだつたんですが」との問いに対して、黒澤は「あれはああいう写真なんだよね。でも、サラサラ撮れるようになったのは、トシでもあるし、ひとつの成長じゃないかね、たいていの人は、もうひとひねりしようとするでしょ。まあ、デルスは、人間の生き方についてお話をしているんですよ」と答えている。(『週刊プレイボーイ』、75年8月12日号)

これは黒澤自身の自作評価である。
これを私は、後半期の黒澤映画では、主体的で前向きな人間が次第に遠景に退いていく、ということになる。主人公は対決する人間から「共生する人間」へ、「観照する人間」へと変化していく。そういう性格はデルスに共感した若き黒澤に本来備わっていたものなのであった。この映画ではデルス・ウザーラ(マキシム・ムンズク)が共生する人間を、探検家ウラジミール・アルセーニエフ(ユーリー・サローミン)が観照する人間の役割を担っている。しかし探検隊長は観照する人間であることができるであろうか。彼は、二つの遅れた帝国主義国の、一方の地方官僚として日露戦争のさなかに「帝国の領土」の実査によって資源の在りかを探りおそらく地図作成を行った。しかし黒澤の関心はそこには及ばない。「近代」を表象する隊長が亡き協力者に「デルス!」と叫ぶ「反近代」の叫びに共感するかのように映画は終わるのである。

ソ連人俳優は黒澤の期待によく応えた。黒澤も極めて好意的な感想を書いている。
アルセーエフに扮したサローミンが黒澤についてこう語っている。これを読むとエールの交換を含むとしても、このソ連映画が成功した背景にある監督と俳優との連帯感が伝わってくる。

▼監督との最初の面接にスタジオに出かけたとき、私がどんなに興奮していたか、二回も途中から引き返したことなどについても語るまい。・・・とにかく、私はついに、この偉大な日本人に会うことができたのだから。私が想像していた通り、彼はすらっと背が高く、エレガントで、賢い手、賢い口元、彼の存在のすみずみにハーモニーがゆき渡り、余計なものが何一つなかった。恐らく大自然は、自分の創作にさぞ満足していることだろう。
撮影現場で、黒澤さんがロシア語で「プリガトービリシ(用意)! モトール(モーター)! ナーチェリイ(始め)!」の号令は、一生私の記憶にのこるだろう。(略)極東のアルセーニセフ市での黒澤さんのリハーサルは、おだやかに、興味深く行われ、自分の決めた場面を、俳優たちが正確に演じるように仕向けるのだった。彼が俳優を信頼していたことは、専門家として最高の水準にあることを証明していたのだと私は思っている。(ムック『黒澤明』、共同通信社)

《黒澤明後半期の傑作》
 『デルス・ウザーラ』は、グランプリこそ得ていないが、国内外で多くの映画賞を獲得した。
・75年 モスクワ国際映画祭 金賞
・75年 アカデミー賞 最優秀外国語映画賞
・78年 ベネチア映画祭 観客投票第1位
・75年 「キネマ旬報」外国映画部門ベスト・テン第5位
などなどである。

『デルス・ウザーラ』は黒澤明の後半期を飾る傑作だ。これが今回の結論である。

Comment
管理人にだけ表示を許可する
 
TrackBack