2022.02.04 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』を読む
  ―平成おうなつれづれ草(12)―

鎌倉矩子(元大学教員)

 2年前、ブレイディみかこさんの本『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社、2019)を読み、感想を本ブログに書いた(2019.12.16掲載)。それは、労働者と移民と性的マイノリティが多い町ブライトンの、「元」底辺中学校に入学した息子の1年の成長物語であった。昨年、その続編が出た(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』、新潮社、2021)。是非とも読まなくてはと思った。

 息子は中学2年目に入っている。学校、友だち、町の人々が、変わらぬ一家の話題である。たとえば—。

ノンバイナリーとは
 息子が通う中学校ではLGBTQの教育に力を入れている。LGBTQはまとめてノンバイナリー(二分法にあてはまらない)とよぶ。教員の中にはそのための相談員がいるし、自身がノンバイナリーな教員はそれを公表するほか、自分がどんな代名詞で呼ばれたいかも告げるのだという(たとえば”they”)。そんな事情が気になって、父親はしばしば息子を質問攻めにしている。
 ある日息子は、同じクラスのパレスチナ人の子を話題にした。彼が何かにつけ、「イスラエル人をぶっ殺してやりたい」と言うのだといい、その軽々しさが気になると言う。もしかしてそれは、自分を強く見せたいからではないか、と思うのだ。
 「むかしからそういうのはいる」
と父親が応じた。彼がティーンだったのはちょうどIRA(北アイルランド独立を掲げた反英武力闘争集団。カトリック系)が暴れ始めた時代だったが、英国人をぶっ殺してやりたいとイキがるアイリッシュの少年はいっぱいいた。父親自身はアイリッシュだが、アイルランドに住んだことはなく、自分をアイルランド人とも英国人とも思っていなかった。宗教に不熱心だったので、カトリックでもプロテスタントでもなかった。
 「どっちにも属さない。つまり俺は、お前の言うノンバイナリー。ノンバイナリーって、別にジェンダー(社会的・文化的性別)に限った話じゃないんじゃないの?」
 そのとき息子は、父ちゃんいま、なんか深いことを言ったね、という顔つきをした。と、みかこさんは書く。私もはっとした。

新学期の授業
 9年生(初等教育開始時が1年生)になると、GCSE(中等教育終了時の全国統一試験)に向けて新しいクラス分けが始まる。この時期の科目選びは、こどもの将来進路に直結する一大事である。
 ことしの一番人気は、新たに開設される「ビジネス」である。フリーランス、つまりは自営業を始めるための基礎知識を与えるクラスだ。政府はいま、スタートアップと称して、失業者たちに起業を強く勧めているが、その子ども版と言うべきか。12~13歳の子どもに向かって、きみたちはもう普通の会社員や公務員になることを想定してはいけないんだよ、と言っているのと同じだとみかこさんは思う。
 息子が選んだ授業の1つは、BTECミュージックというコースだが、それにも音楽を商品化するためのビジネス面が含まれていた(注.BTECは「商業技術教育委員会」の略称)。早速与えられた宿題は、「コンサートのプロモーターになったつもりで、実在する会場の1つを選び、クライアントに会場を提案するためのプレゼン資料を作りなさい」というものである。
 レンタル料を知るため、息子はこわごわホールに電話をかけた。はじめは相手にしてもらえなかったが、奮闘し、遂には相手とうち解けた。丁寧な説明をもらい、「いつかうちのステージで演奏してくれよ」と言われ、晴れ晴れと電話を切る。
 しかし一方で、新しいクラス分けは、子どもたちの間に小波をたてる。将来の進学など望むべくもない貧しいティムは、バンド仲間から遠ざかり、はたまた諍いを起こす。どうやらティムをかばったらしい息子までもがのけ者にされてしまい、2人はバンドを脱退することになる。その日息子は、泣きながら帰ってきた。

それは人種差別か
 ある日、音楽部の生徒の1人が、「ナイジェル(EU離脱の主唱者)が首相になったりしたら、〇〇や○○と一緒に演奏できなくなっちゃうよ」と言ってみんなを笑わせた。というので、みかこさんはぎくりとした。○○の1人は息子だったし、もう1人は、親がインド人だったからである。
 「あんたもみんなと一緒に笑っていたの?」
 「うん」
 息子に言わせれば、その子はナイジェル・ファラージュの排外主義をからかったのであって、ぼくたちの親のことをからかったわけではない。
 だがみかこさんは、そこに何がしかの残酷さを感じる。傷つく母親と、宥めようとする父親を尻目に、息子は「クスっ」と笑いをもらして自分の部屋に上がって行った。

あの人がブチ切れたのは
 息子が通う中学校の教員のひとり、ミセス・パープルは、草の根の労働党員である。ある日みかこさんと息子は、町で労働党のビラ配りをしていたミセス・パープルが人垣に囲まれ、罵倒を浴びせられているのを見る。
 「あたしたちは民主主義でブレグジット(イギリスのEU離脱)を決めたんだよ。民主主義を踏みにじっているのはあんたたちのほうだ!」
 「貧困、貧困って、EUに残るために貧困問題を使うな!」
ミセス・パープルの仲間が間に割って入ったが、激昂した中年男性がその肩を押して言った。「俺がしゃべっているときに遮るな! お前らはいつも俺を黙らせようとする!」
 騒ぎは一層拡大した。息子はポリスを呼ぼうと走り出した。まもなく別のポリスがやってきて、その場は鎮められた。
後になって息子が言う。
 「あのとき、ミセス・パープルの仲間の肩を押した男の人がいたでしょ。あの人、『お前らはいつも俺を黙らせようとする!』って言ったんだ。あれはどういう意味なんだろう?」
  あの人がブチ切れたのは自分の言葉を遮られたときだったと、息子はそのことを考えていたのだった。

ライフってそんなものでしょ
 誰もが羨むカトリックの名門小学校へ行っていたにもかかわらず、息子は「元」底辺中学校を選んだ。このことは人々を不審がらせずにはおかない。新しい隣人も質問の矢を浴びせてくる。
 後悔している? と、みかこさんは息子にたずねた。「わからない」と返され、がつんと頭を殴られた気がしたみかこさんだったが、息子はこう続けた。
 「『なんできみみたいな子がここに来ているんだ』って言われると、ああ僕は大きな間違いをおかしちゃったのかなと思うし、音楽部でバンドの練習をしているときとかは、カトリックの学校じゃこれはできなかったなと思う。どっちが正しかったのかはわからないよ」
「……」
 「でも、ライフってそんなものでしょ。後悔する日もあったり、後悔しない日もあったり、その繰り返しが続いていくことじゃないの?」
 ―それでいい。と、みかこさんは書く。彼もいよいよ、本物の思春期に突入したのだ。そして彼はもう、彼のライフをわたしに話してくれることはないだろう。

読み終えて
 「ライフってそんなものでしょ」という言葉が、この13歳前後の少年から発せられたことに私は驚く。なぜならこのような思いは、すでに齢80を越えた私がようやくにして得た心境だからだ。
 中学2年目に入った「息子」にふりかかる事件は、1年目にもまして苦い。にもかかわらず彼が、他者への“エンパシー”を、ほとんど習慣のように心に持ち続けていることに私は感動を覚えた。「あの人がブチ切れたのは…?」と、乱暴者の男の心理に思いを馳せるシーンはその典型である。
 エンパシーとは「他者の立場に立ってみること」。それは昨年のシティズンシップの授業ではじめて学んだ言葉だ。混乱が続くこれからの社会を乗り越えてゆくためには、ひとりひとりがエンパシーをもつことが大事だと教えられ、彼がすなおに心に刻んだ言葉だ。たぶんそれは、分断が進むこの時代の、新しい“正義”となるべきものである。
 しかしこの先、人々の“決定的な”対立に出会うとき、息子はどのようにふるまうのだろう? ティムへの友情をどこまで貫くことができるのだろう? 彼はいつか、われら旧世代が思いもつかない行動を見せてくれるのだろうか?
 本書は、子どもの成育記録というかたちをとりつつも、この分断社会における“新しい正義”への希求をしのばせている。その強い思いに引き込まれた。                                                                ―2022.01.31

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