2008.12.05 「高潔な戦士たち」名乗るパキスタンの過激派か
    ムンバイの同時テロ犯行グループ
        
伊藤力司 (ジャーナリスト)

インド最大の商業都市ムンバイを襲い、2昼夜半にわたってホテル宿泊客や住民など数百人を死傷させた同時テロを実行したのは、インド当局によると、ラシュカル・エ・トイバというイスラム過激派だった。パキスタン国語のウルドゥ語でLashkar-e-Toibaとは「高潔な戦士たち」(Soldiers of the Pure)を意味するそうだ。彼らはその領有権を争って60年以上もインドと戦っているカシミール地方で、ゲリラ戦を展開してきた准軍事組織である。このカシミール紛争は、英領インド帝国が1947年インドとパキスタンに分離独立して以来両国を敵対させてきた宿怨であり、ムンバイ同時テロもこの宿怨を抜きにしては語れない。

現地時間11月26日夜から60時間にわたって、ムンバイ全市を恐怖に陥れた同時テロ事件の全容はまだ明らかでない。これまでインドの各メディアが伝えたところでは、パキスタン南部の港カラチから漁船で出発したテロリスト10人は、ムンバイ沖合でゴムボートに乗り移ってムンバイに上陸、2人づつ5組に分かれて襲撃に移った。攻撃用ライフルと手投げ弾を武器に鉄道駅、レストラン、カフェー、ユダヤ人用ホステル、超デラックス・ホテルのタージ・マハルとトライデントなど10個所を襲い、手当たり次第に人々を殺傷した。とりわけタージ・マハル・ホテルでは爆発による火災も起こり、ホテルの1室にこもった犯人たちをインド治安部隊が完全に制圧したのは29日朝だった。治安部隊は犯人9人を殺し、1人を拘束した。

地元各紙によると、拘束されたアザム・アミール・カザフ(21)は自分が「ラシュカル」のメンバーであること、当初計画ではタージ・マハル・ホテルを爆破するなどして金持ちや外国人5000人を殺し、再び海からパキスタンに戻るつもりだったことなどを自供している。この実行犯は「われわれは貧しく食べるのにも困っているが、インドは豊か。成功報酬として家族に大金が渡るはずだ」とも供述したという。一方、事件発生翌日の27日の朝、タージ・マハル・ホテルを占拠した実行犯とカラチにいる「ラシュカル」幹部の間で交わされた通話内容は、捜査当局に傍受されていた。その内容は「ホテルを焼き落とせ。その混乱に乗じて脱出せよ」というものだったという。

以上はすべてインド側報道によるもので、パキスタン側はこれを認めているわけではない。同時テロは「デカン(インド中部にまたがる高原)・ムジャヒディン(イスラム聖戦士)」を名乗るものが犯行声明を出しているが、正体不明である。また「ラシュカル」スポークスマンは一切の関与を否定している。
この「ラシュカル」という組織は1980年代末、元パンジャブ大学教授のハフィズ・モハマッド・サイード師がパキスタン東部のラホール郊外に開設したイスラム布教センター(マルカズ・ダワ・ウル・イルシャド)が母体となった。このセンターで学んだ若者たちは、パキスタンからすれば不当にインド領に組み込まれたカシミール(住民の多数がイスラム教徒)を、パキスタンに取り返すのがイスラムを実践する者の義務だと考えた。「マルカズ」の卒業生たちは1994年までにラシュカル・エ・トイバを結成した。

「ラシュカル」結成時に、ISI(パキスタン国軍統合情報部)という軍の情報(諜報)機関が支援したことは公然の秘密である。カシミールをめぐる第1次印パ戦争(1947−49年)、同じく第2次印パ戦争(1965年)、バングラデシュ独立をめぐる第3次印パ戦争(1971年)と、対印戦争に3回とも勝てなかったパキスタン国軍にとって、インド対策、カシミール対策は最も重大な任務であり、ISIが仕切る諜報工作に「ラシュカル」のような組織はうってつけである。この組織のメンバーが従来のカシミール・ゲリラ組織と違って、カシミール人ではなく純然たる本土パキスタン人で構成されていることも有用だった。「マルカズ」で学んだ者は2007年までに10万人を超えており、その多くが「ラシュカル」に加わった。

インドからすれば、カシミールでのゲリラ攻撃もさることながら、「ラシュカル」によるインド本土へのテロ攻撃には手を焼かされてきた。インド側発表によれば、2000年1月ニューデリー市内レッドフォート(赤い砦)のインド陸軍兵舎への爆弾、第4次印パ戦争勃発の瀬戸際まで行った2001年12月のインド国会議事堂攻撃事件(「ラシュカル」側は否定)、2003年8月のムンバイ市内爆弾事件(55人死亡、180人負傷)などが「ラシュカル」の仕業だ。2001年の「9・11事件」後米ブッシュ政権の圧力によって、ムシャラフ・パキスタン大統領(当時)は2002年1月、「ラシュカル」の活動を禁止しした。

それまで「ラシュカル」は、カシミールで戦うイスラム聖戦士集団として認知されれ、パキスタンの至る所で公然と資金集めやメンバーの募集を行っていた。パキスタンのどんな町のバザール(市場)にも、カシミールで戦う資金を集める「ラシュカル」の募金箱が置かれ、人々の喜捨を集めていた。ムシャラフ大統領の禁令後「ラシュカル」はジャマート・ウド・ダワ(宣教の党)と名を変えて、表向きは教団活動だけに専念した。ところが2005年10月のパキスタン北部大地震をきっかけに、「ラシュカル」は地震復興資金カンパを集めることが許され、このカンパ活動を通じて「ラシュカル」は生き返った。

2006年7月11日、ムンバイで列車7本を襲った同時爆発テロが起こり、200人以上が死亡した。爆発は仕事帰りで混雑するラッシュアワーの1等車で起きた。治安当局はパキスタン人11人を含む15人を逮捕した上で、犯行はISIが計画し、ラシュカル・エ・トイバが実行したものだと発表した。また当局は、インドの非合法組織「インド学生イスラム運動」(SIMI)もこのテロに協力したとも指摘した。これについてパキスタン政府(ムシャラフ政権)は一切の関与を否定した。

パキスタンの分離独立は、インド独立運動の最高指導者マハトマ・ガンジーと袂を分かったイスラム教徒の独立運動指導者ムハンマド・ジンナーが、当時ヒンドゥー教徒に迫害、差別されていたイスラム教徒を率いて実行したものだった。ガンジーはヒンドゥー教徒だったが、全ての宗教、宗派を包含した全インドの独立を目指し、最後までイスラム教徒との共存に努めたが、説得は成功しなかった。信教の自由を唱えたガンジーは独立の翌年狂信的なヒンドゥー教徒に暗殺されるが、それはガンジーがイスラム教徒に寛容だったことをヒンドゥー至上主義者が咎めたからであった。

現在のインド人口はヒンドゥー教徒が80・5%、イスラム教徒が13・4%だが、イスラム教徒は今も差別の対象になっている。インド独特のカースト制度の下では、伝統的にヒンドゥー教徒以外の者はカースト外の不可触賎民と見なされている。1950年制定のインド憲法は不可触賎民制度を禁止し、カーストによる差別も禁止した。しかしカースト制度そのものの廃止ではないため、憲法に基づく差別禁止行政が実行されても、精神的実質的な差別は残っている。ムンバイに住むイスラム教徒の多くはスラム街に暮らす貧しい人々で、襲撃された高級ホテルとは縁もゆかりもない生活を送っている。「ラシュカル」のようなイスラム過激派に同調する若者が出てもおかしくない環境が、インドに現存していることも事実である。
Comment
管理人にだけ表示を許可する
 
TrackBack