2022.03.02 血に染まった北京パラリンピックは中止すべし
       ―習近平はプーチンのウクライナ侵攻を承認した?
                     
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

 1956年10月24日早朝、ソ連はハンガリーの武力制圧のため、ハンガリー駐屯部隊だけでなく、ルーマニアとウクライナからも部隊を進軍させ、ハンガリー全土を武力制圧した。31,500名の兵士、1,130台の戦車、380台の移動砲撃車などの膨大な戦力が、ハンガリー全土に展開したのである。首都では銃をとった市民とソ連軍との市街戦が展開され、この第一次侵攻で、ハンガリー側は死者350名、負傷者3000名を出し、ソ連軍の死者も600名に上ったと推定されている。
 当時、中国共産党はソ連のポーランドへの軍事進攻を止めるべく、仲介役として代表団がモスクワに入っていたが、ハンガリー情勢が急転したために引き続きモスクワに残り、ソ連共産党との協議を続けた。10月24日のハンガリー侵攻に際しては、毛沢東を初めとする中国共産党の幹部はソ連への批判的な姿勢を崩さなかった。ソ連はいったん停戦協定を受入れ、部隊を駐屯地へ引いたが、ソ連共産党幹部会内部では激しい議論が戦わされ、劉少奇率いる中国共産党代表団は毛沢東の指示を仰ぎながら、ソ連共産党との協議を続けていた。
 中国共産党は国家間・共産党間は対等の関係であると主張し、ハンガリーへの武力介入を止めるだけでなく、ワルシャワ条約機構の協定にもとづくソ連軍駐留の解消を提案した。対するソ連共産党幹部会は中国の提案を受け止め、ワルシャワ条約機構の会議を開くことを約束し、ソ連軍の撤退を含めた平和的な解決を目指す方向へ動いた。
 しかし、この間、ハンガリーでは市民の蜂起部隊の一部と治安機関部員との偶発的な交戦が勃発した。20数名の情報部員の頭部が打ち抜かれたり、街路樹で絞首されたりしたリンチ報道が国際メディアを通して世界に発信された。
 さらにハンガリー政府がワルシャワ条約機構からの脱退を宣言したことで状況が一変した。10月30日、中国共産党はハンガリーのワルシャワ条約機構からの脱退は、社会主義国圏のドミノ的崩壊をもたらすと考え、それまでの態度を一変させて、ソ連軍の第二次武力進攻を容認する姿勢をフルシチョフに伝えた。これでハンガリーの運命が決まった。
 中国共産党のお墨付きを得たフルシチョフは、11月1日から3日にかけて、ポーランド、ブルガリア、ルーマニア首脳へソ連の意図を伝える行脚に出かけた。最後にユーゴスラヴィアのチトーの了解を取り付けるべく、アドリア海に浮かブリオニ島で徹夜の会談を行い、3日午後にモスクワに戻った。
 モスクワにはハンガリーから連行されたカーダールとミュニッヒが政治局会議の場に立たされ、傀儡政権を担うことを強要された。政治局の保守派はカーダールではなく、ソ連への亡命歴のあるミュニッヒに政権を担わせるべきだと主張した。しかし、フルシチョフはそれではハンガリーが治まらないと考え、政権の継続性という形式をとる上でも、カーダールを首班に据えるべきだと議論を押し切り、カーダール擁立と11月4日のハンガリー再侵攻を決定した。
 冷戦時代の1956年、ソ連は中国共産党を無視することができず、中国共産党の了解を得るまで最終的な武力侵攻を決断しなかった。それは今も変わらない。ロシアは中国の了解を取り付けることで、ウクライナ侵攻を決定したことは確実である。オリンピックという場が、ロシアの侵略容認の政治舞台に使われたのである。
 プーチンはウクライナは旧ソ連の一部であり、ソ連が崩壊してもロシアの一部である、という主張を展開したのだろう。「ウクライナの主権は本来存在するものではなく、ソ連共産党の建前から共和国としての地位を与えられただけで、本来はロシアの一部」と説明したはずだ。中国がその主張に賛同したかどうかは分からないが、台湾問題を抱える中国がそれに「理解を示した」ことは確実である。五輪期間中の武力統合は賛成しないと言ったかもしれないが、それはプーチンにとってどうでも良いことである。基本的な了解を得られれば、それで十分なのである。
 1956年末、ユーゴスラヴィアのチトーはカーダール政権樹立に同意したが、ナジ首相の処遇についてはユーゴスラヴィアへの亡命ということでフルシチョフを合意させた。しかし、フルシチョフはハンガリーを制圧した段階で、ナジ処遇にかかわるブリオニ合意を破棄した。ユーゴスラヴィア大使館に亡命していたナジ首相グループは、「処罰されることなく、解放される」という虚言でバスに乗せられ、ソ連軍の駐屯地からルーマニアへ移送された。ブリオニ合意を反故にされたユーゴスラヴィアは煮え湯を飲まされた。これがその後のソ連共産党とユーゴスラヴィア共産主義者同盟の関係悪化をもたらすことになった。動乱の翌年、ナジ首相グループはハンガリーに移送され、1958年6月に形だけの裁判を経て処刑された。
 当時、日本の左翼の間では、大内兵衛のように、「ハンガリーのような百姓国民が、社会主義の何かも知らずに盾ついたけしからん暴動だ」と評価する者もいた。しかし、1956年動乱の実態は東欧社会主義樹立過程におけるソ連型社会主義の押し付けにたいする国民の反乱であった。このハンガリー動乱については、拙著『体制転換の政治経済社会学』(日本評論社・2020年)の第8章でくわしく叙述した。是非、参照されたい。
 今次のロシアのウクライナ侵略について、中国五輪が政治協議の場になり、かつ中国がロシアの主張に「理解を示した」とすれば、もはや中国に平和の祭典を主催する資格はない。即刻に、IOCと各国NOCは北京パラリンピックの中止を宣言すべきである。理不尽な侵略戦争で多数の人命が犠牲になっている時に、呑気にオリンピックをやっている場合ではない。しかも、侵略に「理解を示す」国でオリンピックをおこなうべきではない。

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