2022.03.14  二十世紀文学の名作に触れる(24)

アレクサンドル・ソルジェニーツィン――極寒の中のソヴィエト文学にロシア文学の光輝ある伝統を蘇らす


横田 喬(作家)

 旧ソ連のノーベル賞作家ソルジェニーツィンは陸軍士官当時の二十六歳の時、スターリン批判の咎で強制収容所に送られた。スターリンの死で出所するまで八年余を過ごした収容所暮らしの体験を『イワン・デニーソヴィチの一日』として記述。彗星のようにソ連文壇にデビューするが、「国家反逆罪」で逮捕~国外追放されるなど酷い迫害に遭った。世界的文豪として榮譽に輝きながら、彼ほど数奇な運命を辿った現代作家は稀だろう。

 彼は1918年、南ロシアのキスロヴォツクに生まれた。ウクライナ人の母タイシャは敬虔なクリスチャンでモスクワに学ぶ中、コサック出身の帝政ロシア軍士官イサーイ・ソルジェニーツィンと知り合って結婚し、アレクサンドルを身ごもる。夫がドイツ戦線で死亡し、彼女はドン河畔のロストフ市でタイピスト・速記者として女手一つで遺児を育て上げる。

 ソルジェニーツィンは少年の頃から文学好きだったが、貧しい家計ゆえに作家志望を断念。地元のロストフ州立大学数学科に通う傍ら、モスクワの文学系専門学校の通信学部に学ぶ。41年、第二次大戦の勃発と同時に応召。輜重隊~砲兵学校を経て、翌年に偵察砲兵中隊長に任官し、45年2月に逮捕されるまで第一線で軍務に就いた。逮捕されたのは、小学校当時の友人との文通が検閲に引っかかったため。

 同年7月、欠席裁判で懲役八年を宣告される。後に、彼はこう述懐している。
 ――私は青年の軽率さから、手紙の中にいろいろ書いてしまったのです。スターリンはレーニン主義から逸脱しており、戦争の前半の失敗に責任がある。理論的にも貧弱で、非文化的な言葉でしゃべる、と思っていたから。

 当初は矯正労働収容所に収監され、46年に数学者として特殊刑務所に移監。50年、新たに創設された政治犯だけの特別収容所へ送られた。カザフスタンのエキバストゥーゼ市にあるこの収容所で、『イワン・デニーソヴィチの一日』に記したように雑役工・石工・鋳工として働く。当時、癌腫ができて手術を受けるが、完治するには至らなかった。

 八年の刑期が過ぎても新しい判決も出ぬまま、南カザフスタンへ永久追放するという行政措置がとられる。彼だけに対する特別処置ではなく、当時としては極めてありふれたやり方だった。53年3月5日、すなわちスターリンの死が公表された当日、彼は初めて警護兵なしで壁の中から出される。が、56年6月までは「追放」の身だった。

 この間、癌腫は急速に成長し、53年末には食べることも眠ることも不能となり、死の淵を彷徨った。翌年、治療のためタシケントに送られ、そこの癌病棟で一年間かかって治癒する(この折の体験を基に68~69年に『ガン病棟』を著す)。

 追放期間中、彼はずっと村の学校で数学と物理を教えた。その全く孤独の生活の中で、秘かに散文を綴り、執筆を続けた。が、秘密の執筆状況に耐えられなくなり、62年11月に『イワン・デニ―ソヴィチの一日』発表に踏み切る。同作はソ連の代表的文芸誌『ノーヴィ・ミール(新世界』』誌に編集長トワルドフスキイの一文付きで発表された。
 
 スターリン時代のラーゲルの一日を克明に描いたこの作品は、当時雪解けが進行中のソ連であっても、余りにも率直なテーマゆえに編集長独断で発表に踏み切ることはできなかった。思い余ったトワルドフスキイは当時のフルシチョフ首相に対し、発表直前に面会。党中央委員会の許可を得て、ようやく発表することができた。作品は発表と同時に世界的な話題となり、同誌は異例の増刷を行い、単行本は七十万という驚異的部数を数える。

 トワルドフスキイはこう説いた。「作者の直接の体験のみが、このような信憑性と真実性を付与しえた。これは芸術作品であり、その現実の素材の芸術的照明によって初めて、芸術のドキュメントたりえている」。十九世紀後半、オムスク監獄で四年間を過ごしたドストエフスキーが長編小説『死の家の記録』を著した史実との相似性を思い起こさせる。

 ソルジェニーツィンのこの著述は、長らくスターリンの個人崇拝という酷寒に閉ざされていたロシア・ソヴィエト文学の復活を告げる記念すべき作品となる。が、国内の政治的状況は順調ではなく、雪解けに手を貸したフルシチョフ首相は64年、失脚~退陣。翌年のノーベル文学賞は『静かなドン』のショーロホフに与えられた。一方、ソルジェニーツィンに関しては、『煉獄のなかで』を始め数々の原稿が国家保安委員会によって没収される。

 この間、彼は寸暇を惜しんで創作に没頭。二大長編『ガン病棟』『煉獄のなかで』を完成させたが、検閲の壁に遮られ、出版は叶わなかった。彼は意を決し、67年に当局宛てに大量の公開状を発送し、大きな波紋を投じる。「真実へ向かう道を阻むことは誰にもできない。私は死をも受け入れる用意がある」と宣言し、あらゆる検閲の廃止を訴える内容だった。

 この公開状は黙殺され、翌々年には彼はソ連作家同盟から除名される。が、皮肉にも明くる70年、ソ連では作家として認められなくなったソルジェニーツィンに対し、ノーベル文学賞授与が決定する。授賞式出席はソ連への再入国ビザ拒否の危惧があったため、彼は出席を断念。短いメッセージを送るに止めた(文学賞は74年に国外追放後、受け取っている)。

 彼は73年暮れ、ソ連七十年の国家的テロの歴史を明らかにした『収容所群島』第一巻をパリで出版し、ソ連当局から激しい非難を浴びる。同作は58年から67年にかけて執筆され、三巻七章にわたってソ連の強制収容所システムを詳述。彼自身の体験と256名の元囚人による証言、そして自身の調査による刑罰システムの歴史が基となっている。私は新潮社文庫版(全六巻、訳:木村浩)で一~三巻分に目を通したが、内容集約は無理と断念した。

 74年1月、ソ連共産党機関紙『プラウダ』に「裏切りへの道」と題するソルジェニーツィン批判の論文が載り、以降ソ連のマスコミは一斉に彼に対する非難攻撃を始める。翌月、彼は「国家反逆罪」で逮捕~収監され、ソ連市民権を剥奪された後、飛行機で当時の西独フランクフルトへ国外追放される。以来、彼はスイスにいったん移住した後、スタンフォード大学の招きに応じて76年にアメリカへ渡り、以後二十年近くを過ごした。

 彼は過酷な運命に耐え抜いたロシア正教徒の鑑として、宗教界のノーベル賞とされるテンプルトン賞(83年度)も受けている。85年、ソ連で改革志向のゴルバチョフ政権が誕生。大統領令でソルジェニーツィンの市民権が回復され、著書『収容所群島』は全面的に解禁される。彼の『改革への提言』が党の機関紙などに載り、国立世論センターの調査ではソ連の国民の38㌫がこの『提言』を読んでいて、その60㌫は共感を示した、という。

 日本に対する彼の関心は非常に深く、82年には亡命先のアメリカから秘かに訪日。滞在が気づかれて講演を行い、「北方領土を日本に返すよう」主張した。彼は94年にロシアに帰還。旧ソ連崩壊後の新生ロシアの現状に幻滅~エリツィン前大統領を酷評する一方、プーチン大統領には明確な支持を表明した。プーチンのその後の政治的軌跡に照らすと、この判断には「?」が付こう。2008年、彼はモスクワ郊外の自宅で89歳で亡くなった。

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