2022.04.19 ロシアのウクライナ侵攻―ひとつの背景
プーチン大統領の心酔するカルト思想

 小川 洋(教育研究者)


プーチンの非合理的判断を招いたもの
 今回のプーチン大統領のウクライナ侵攻について、軍事研究者たちの多くがロシア側の兵員や兵器類の配備状態から開戦は必至と判断していたのに対し、国際政治学などの研究者に開戦を予測する者は少なかった。戦争の得失を合理的に判断すれば、開戦に踏み切るはずはないと考えられていたのである。しかしプーチンは開戦に踏み切った。プーチンは、我々には馴染みのない非合理的な構想を持って戦争を始めたものと考えざるをえない。

 歴史研究者のティモシー・スナイダー(Timothy Snyder)米イェール大学教授は、2018年の“The Road to Unfreedom”のなかでプーチンのウクライナ侵攻を間接的に予見していた。邦訳も2020年に池田年穂氏の手によって出ている(『自由なき世界』、慶応義塾大学出版)が、今回のウクライナ侵攻の背景を論ずる人たちが本書に言及することはほとんどない。管見の限りでは4月7日付、橘玲氏のウエブサイト「日々刻々」にアップロードされた「ウクライナ侵攻の背景にあるプーチンの『ロシア・ファシズム』思想-ロシアは巨大な『カルト国家』だった」のみである。

 スナイダー教授は本書のなかで、プーチンが信奉するイワン・イリインという宗教学者とその後継者たちの言説を紹介している。彼らは、ウクライナがロシアと一体であると強調する点で一致している。プーチンの戦争が、ロシア人以外には理解困難な宗教思想に基づくものだとすれば、世界はプーチンのロシアを壊滅させるまで追いつめる他ないということになる。以下、本書の、プーチンとイリインの関係を巡る部分を紹介する。

イワン・イリインとプーチン
 イリインは1883年4月、モスクワに生まれ、1954年12月に亡命先のスイスで亡くなっている。モスクワ大学の法学部を卒業後、大学教員などを務めていたが、ロシア革命には否定的で1922年に国外追放された。その後、ベルリンを拠点にして、ムッソリーニのファシズム運動を支持するなど、白系ロシア人たちのイデオローグとして活動していた。ヒトラーに対してもボルシェビキ運動を阻止する者として評価していた。しかし1938年、ヒトラーがソ連に接近するとスイスに逃れ、その地で没している。宗教哲学者ないし政治哲学者と評されることもあれば、ただの扇動家として扱われることもある。
 イリインの思想はソ連邦崩壊後、ロシア語版の書籍が出版されるなど、ロシア国内で再評価を受けるようになった。プーチンは2005年、スイスに埋葬されていたイリインの遺骨をモスクワに改葬するように手配している。プーチンは議会演説などでイリインの引用を繰り返すようになり、メドベージェフも若者たちにイリインの本を読むように勧めた。2014年には、全国の公務員にイリインの本が配られるという徹底ぶりであった。2010年代に入るとプーチンはイリインの思想に基づいて、ロシアはEUを弱体化させ、ウクライナを侵略すべきだ、と主張するようになっていた。
 以下は、イリインの言説の核心部分であるが、筆者が思い切り意訳していることをお断りしておく。

〇選民としてのロシア民族
 神の真実性や完全性は、神がこの世界を創造した時から失われた。いったん世界が創造され、欲望によって突き動かされる人間が衝動のままに行動することによって世界は汚され、世界は人間たちの罪によって穢れていった。神は世界を創造したことで失敗を重ねていった。ロシアはキリスト教に改宗して1000年にわたって神聖で完全性の唯一の源であり、常に周囲から攻撃を受け、不完全な周囲の世界と対立してきた。いずれかの時、穢れなき世界から強い男が現れ、ロシア人たちはその男が救世主(redeemer)であることに気付く。

〇救世主
 ロシアは、権力を握るために他者の血を求めることも厭わない騎士道的犠牲を果たす救世主を必要としている。その救世主は元首であり「民主的独裁者」(democratic dictator)、「民族的独裁者」とみなされるべきであり、行政、立法、司法の全ての権能を持ち、軍隊を指揮する。救世主は戦争を起こす義務と、敵を選ぶ権利があり、国民の精神的達成が脅かされるとき、戦争は正当化される。戦争は神の敵に対するものであり、無垢なロシアを守るためのものである。

〇政治体制
 民主主義の根本は無責任な個人である。個人は克服されなければならず、そのためには救世主に対する集団的な愛を刺激し支持する政治的習慣が必要である。政党は一つあるだけでも多すぎる。ロシアは一人の男に救済され、政党のない国でなければならない。政党があるとすれば儀式化された選挙を実行するためにのみ存在するべきである。秘密選挙による投票は市民が個人として考えることを許容することになり世界を悪に染めてしまう。

〇ウクライナ
 穢れた世界のなかで、ロシアとロシア人は例外であり、無垢な存在である。ウクライナはその穢れなきロシアという有機体の一部である。ソ連邦崩壊後のウクライナはロシアの一部である。

 プーチンはイリインの言説を援用することによって、権力の独占と彼と彼の取り巻きたちによる富の蓄積を正当化してきた。しかし、この思想からは一般国民の生活の改善の展望を示すことはできないから、地道な統治よりは危機と見世物を作り出すことに努めることになる、とスナイダー教授は指摘する。20年以上にわたるプーチン時代、対外軍事行動が繰り返されてきたのも、こう考えると納得できる。

 イリインの思想は一種のカルト思想であり、プーチンが自身をイリインの言う「救世主」に擬えていることは確かであろう。ドイツ人が卓越民族として世界を征服するというカルト的思想に基づいて戦争を起こしたヒトラーという人物の最後を、我々は知っている。今回、ロシアによって破壊された国際秩序と平和を回復するためには、国際社会がウクライナにできる限りの支援を続け、プーチンを破滅に追いつめる他に途はないと考えざるをえない。

 今後の展開について、多少の予測をしてみたい。ウクライナ人の祖国防衛意識が弱まっていくことは考えにくく、軍事的に厳しい状況に置かれることがあるとしても抵抗運動が下火になることはないだろう。一方のロシアは、軍事費負担の累積と国際的経済制裁によって国民経済は破綻に向かい、プーチンは何らかの形で退場せざるを得なくなるだろう。
 ロシアの政権交代の歴史に軍隊による権力掌握はない。ロシア革命の際もスターリン死去の際も政権中枢部の暗闘のなかで政権交代は行われた。ソ連邦崩壊時の政治混乱の際にも軍部はあくまで脇役に留まった。今回も軍部が直接プーチン打倒に動く可能性は低く、やはり政権内の勢力争いの中で、プーチンに引導が渡されるというパターンを辿ると考える。

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