2008.12.20
黒澤明全作品30作の放映(30) 『夢』(1990年)
―幽鬼は帰郷できるだろうか―
■『夢』は08年12月23日午後9時からNHK・BS2で放映されます。なお12月20日には『影武者』が放映されます■
《テーマというのは考えない》
黒澤の製作テンポは次第に遅くなった。前作『乱』から5年経っている。
『夢』はアメリカ映画である。スチーブン・スピルバーグ監督とワーナー・ブラザースが出資と配給を受けもち黒澤プロダクションが製作した。黒澤が一人で書いたオリジナル・シナリオによる。『夢』は、「こんな夢をみた」という字幕で始まる次の8つの物語で構成されている。
第1話 日照り雨、第2話 桃畑、第3話 雪あらし、第4話 トンネル、
第5話 鴉、第6話 赤富士、第7話 鬼哭、第8話 水車のある風景
巨匠が長年温めてきた心情の映像表現であり黒澤イメージの集大成である。第1話から第3話までは記憶の民俗学的映像化、トンネルは戦争観、鴉(からす)は芸術論、第6・7話は環境破壊への抗議、第8話は死生観、のそれぞれ表現であろう。第4話以後はメッセージ性が強い。多くの芸術家と同じように黒澤は、生涯「全ては作品が語っている」と言った。評論家佐藤忠男は『夢』の解題でこう書いている。(『全集黒澤明最終巻』)
▼私などのこうしたテーマ分析に、黒澤明はうるさがっていたかもしれないことも明記しておかねばならないであろう。この作品が公開されたときに行われた共同記者会見では、集まった記者たちの質問に黒澤明は次のように答えている。
―今度の作品のテーマはなんですか?
「ぼくは映画を作る時には、テーマというのは考えない。自然に撮っていれば、それがテーマになる。プラカード立てるのは嫌いなんだよ。この作品には、今の世の中に対してぼくが考えていることが全部出てます。」
佐藤は、第8話が自然破壊、第6話が原発への抗議ではないかという記者の質問に対して黒澤は「だから、ぼくはメッセージみたいなのはいやなんだよ」、「まあ映画を観て下さいよ」と答えたと書いている。
《「トンネル」における深刻なテーマ提示》
といわれても私(半澤)は第4話の「トンネル」のテーマについて語りたい。
その理由は語られることの少ない黒澤の戦争観が表現されていると思うからである。
黒澤明の作品には「十五年戦争」を直接表現したものは一作もない。真珠湾攻撃を描く黒澤版『トラ・トラ・トラ』は黒澤の解任で実現しなかった。黒澤の師匠であり都会的インテリ派の山本嘉次郎が、『ハワイ・マレー沖海戦』、『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』の戦争三部作を撮ったのと対照的である。黒澤の『一番美しく』は銃後の戦争であったし、『静かなる決闘』冒頭の野戦病院も戦場の描写といえるほどのものではなかった。
半澤健市 (元金融機関勤務)
■『夢』は08年12月23日午後9時からNHK・BS2で放映されます。なお12月20日には『影武者』が放映されます■
《テーマというのは考えない》
黒澤の製作テンポは次第に遅くなった。前作『乱』から5年経っている。
『夢』はアメリカ映画である。スチーブン・スピルバーグ監督とワーナー・ブラザースが出資と配給を受けもち黒澤プロダクションが製作した。黒澤が一人で書いたオリジナル・シナリオによる。『夢』は、「こんな夢をみた」という字幕で始まる次の8つの物語で構成されている。
第1話 日照り雨、第2話 桃畑、第3話 雪あらし、第4話 トンネル、
第5話 鴉、第6話 赤富士、第7話 鬼哭、第8話 水車のある風景
巨匠が長年温めてきた心情の映像表現であり黒澤イメージの集大成である。第1話から第3話までは記憶の民俗学的映像化、トンネルは戦争観、鴉(からす)は芸術論、第6・7話は環境破壊への抗議、第8話は死生観、のそれぞれ表現であろう。第4話以後はメッセージ性が強い。多くの芸術家と同じように黒澤は、生涯「全ては作品が語っている」と言った。評論家佐藤忠男は『夢』の解題でこう書いている。(『全集黒澤明最終巻』)
▼私などのこうしたテーマ分析に、黒澤明はうるさがっていたかもしれないことも明記しておかねばならないであろう。この作品が公開されたときに行われた共同記者会見では、集まった記者たちの質問に黒澤明は次のように答えている。
―今度の作品のテーマはなんですか?
「ぼくは映画を作る時には、テーマというのは考えない。自然に撮っていれば、それがテーマになる。プラカード立てるのは嫌いなんだよ。この作品には、今の世の中に対してぼくが考えていることが全部出てます。」
佐藤は、第8話が自然破壊、第6話が原発への抗議ではないかという記者の質問に対して黒澤は「だから、ぼくはメッセージみたいなのはいやなんだよ」、「まあ映画を観て下さいよ」と答えたと書いている。
《「トンネル」における深刻なテーマ提示》
といわれても私(半澤)は第4話の「トンネル」のテーマについて語りたい。
その理由は語られることの少ない黒澤の戦争観が表現されていると思うからである。
黒澤明の作品には「十五年戦争」を直接表現したものは一作もない。真珠湾攻撃を描く黒澤版『トラ・トラ・トラ』は黒澤の解任で実現しなかった。黒澤の師匠であり都会的インテリ派の山本嘉次郎が、『ハワイ・マレー沖海戦』、『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』の戦争三部作を撮ったのと対照的である。黒澤の『一番美しく』は銃後の戦争であったし、『静かなる決闘』冒頭の野戦病院も戦場の描写といえるほどのものではなかった。
『夢』では時に黒澤の分身として「私」(寺尾総)が登場する。
復員した「私」はくたびれた将校外套姿で夕暮れのトンネルに差しかかる。中から狂犬が飛び出して唸り声を上げる。トンネルを抜け出た私を追って重装備をした一人の兵士が現われる。鉄兜の下に見える顔は青白く骸骨のようだ。それは中隊長だった私の部下野口一等兵であった。シナリオは次のようにいう。
▼兵隊「中隊長殿! 自分は本当に戦死したのでありますか」
私「・・・・」
兵隊「自分は、自分が戦死したとは思えません。除隊になって家へ帰ってお袋にボタ餅をつくってもらって食べました。それを自分は、はっきりと憶えております」
私「それは、聞いた・・・お前が弾に当って気絶し、その気絶からさめた時、介抱していた私に言った言葉だ・・・それは、お前が気を失っている時見た夢だよ・・・あまり、生々しい話だから私はよく覚えている・・・しかし、それから、五分程して、お前は本当に死んだんだ」
兵隊「・・・わかりました。・・・しかし、親父やお袋は、まだ自分が死んだとは思っておりません」
野口一等兵は、歩き出すと峠の道に後姿を見せて立つ。振り返ると、遠くにまたたいている灯を指さして言う。
兵隊「あれが自分の家であります。親父やお袋は、あの家で、まだ自分の帰りを待っております」
私「しかし、お前が死んだのは事実なんだ。可哀そうだが、はっきり言う・・・私の腕の中で、お前は死んだ・・・」
兵隊は、私の眼をじっと見つめ、黙ってトンネルの方へ引き返す。私はたまらなくなって声をかける。
「野口!」 野口は、トンネルの入口で振り向くと、直立不動の姿勢をとり、捧げ銃の礼をしてトンネルの中へ消える。
野口が去ったあとトンネルの中から再び大勢の足音が聞こえてくる。6列縦隊を組んだ兵隊ととそれを率いた若い少尉が出てくる。彼らは中隊長の「私」の指揮下で全滅した小隊である。
▼私「すまん! 生き残った儂(わし)は、お前達に合わす顔もない。お前達を全滅させたのはこの儂の責任だ。儂はすべての責任を戦争の不条理と軍律の非人間性に転嫁して、自分の無定見と過ちを認めぬ卑怯者ではない。しかし、生き永らえて、捕虜となった儂は、その抑留生活で死ぬ苦しみを味わった。そして、今、またお前達を見て、同じ苦しみをなめている。お前達の苦しみにくらべて、そんな苦しみはなんだ、と言うだろう。しかし、正直に言う、儂はお前達と一緒に死にたかった。この儂の気持を信じてくれ・・・お前達の無念な気持はよくわかる・・・戦死とは言え、犬死だ・・・しかし、その様にこの世をさまよって、なんになる?・・・頼む!・・・帰れ!・・・帰って、しずかに眠ってくれ!」
《黒澤明が言いたかったことは》
黒澤の分身である「私」のセリフから、私(半澤)が引き出した黒澤の戦争観は次の通りである。
一つ 戦死した兵士の帰郷を拒否して戦場へ返れという。
二つ 戦争の不条理と軍律の非人間性を理由に戦争責任を認めないことを拒否する。
三つ 小隊全滅を「犬死」と考えている。
『夢』の「私」が見たものは、「水漬く屍草むす屍」となって宙を彷徨う幽鬼たちである。
一体、日本人は幽鬼を暖かく故郷へ迎える人々ではないのか。天皇の神社靖国は、合祀を望まない遺族の意思に反してまで、幽鬼を「神」として招魂し続けている。
それに対して黒澤映画の「私」は靖国的鎮魂を否定しているのである。
「私」はなぜ靖国的鎮魂を否定するのか。彼は自分の戦争責任を曖昧にしたと感じているからである。そして部下の死を「犬死」と考えているからである。日本兵の戦死を犬死とみる黒澤の発言は衝撃的だといわねばなるまい。
黒澤明はこの戦争観の帰結としてこう言いたかったのではないか。
すなわち《日本人は「過ぐる戦争」の総括を済ませていない。戦争責任の決着をつけていない。それを決済しないで死者を迎え入れることはかなわないのだ》。
それは戦後日本の現状に対する自己批判を伴う強い批判であった。「今の世の中に対してぼくが考えていることが全部出てます」と黒澤は記者会見で言った。その時、「今の世の中」はどんな世の中だったのか。それはバブル経済の世の中であった。世界に怖いものは何もない世の中であった。その世の中はトンネルに旧軍の幽鬼を閉じ込めて経済大国を謳歌していたのであった。
黒澤は兵役を逃れて戦場へは赴かなかった。劇中で「私」のいう「生き永らえて、捕虜となった儂は、その抑留生活で死ぬ苦しみを味わった。/儂はお前達と一緒に死にたかった。この儂の気持を信じてくれ」というセリフは黒澤の微妙な内面を表現しているように感じられる。
《残酷な描写をどう考えるか》
反戦映画の代表作に関川秀雄監督の『きけ わだつみの声』(1950年)がある。この作品では全滅した学徒兵の魂が屍体からゆっくりと立ち上がり一団となって歩き出す。このラストシーンは感動的であった。関川は幽鬼の帰郷が鎮魂につながることを暗示したのだと思う。出目昌伸監督のリメイク『きけ わだつみの声(1995)』でも戦死した六大学出身の学徒兵がラグビー場へ還ってプレーする幻影の場面で終わった。
黒澤はこの二人よりも残酷な描写で我々の戦争認識を告発したのだと思う。梅原猛が死者の拒否を論じた以外に、私のようにこの場面を観る評者はいない。第4話「トンネル」を観ての読者の感想を是非、聞かせて頂きたいと思う。
復員した「私」はくたびれた将校外套姿で夕暮れのトンネルに差しかかる。中から狂犬が飛び出して唸り声を上げる。トンネルを抜け出た私を追って重装備をした一人の兵士が現われる。鉄兜の下に見える顔は青白く骸骨のようだ。それは中隊長だった私の部下野口一等兵であった。シナリオは次のようにいう。
▼兵隊「中隊長殿! 自分は本当に戦死したのでありますか」
私「・・・・」
兵隊「自分は、自分が戦死したとは思えません。除隊になって家へ帰ってお袋にボタ餅をつくってもらって食べました。それを自分は、はっきりと憶えております」
私「それは、聞いた・・・お前が弾に当って気絶し、その気絶からさめた時、介抱していた私に言った言葉だ・・・それは、お前が気を失っている時見た夢だよ・・・あまり、生々しい話だから私はよく覚えている・・・しかし、それから、五分程して、お前は本当に死んだんだ」
兵隊「・・・わかりました。・・・しかし、親父やお袋は、まだ自分が死んだとは思っておりません」
野口一等兵は、歩き出すと峠の道に後姿を見せて立つ。振り返ると、遠くにまたたいている灯を指さして言う。
兵隊「あれが自分の家であります。親父やお袋は、あの家で、まだ自分の帰りを待っております」
私「しかし、お前が死んだのは事実なんだ。可哀そうだが、はっきり言う・・・私の腕の中で、お前は死んだ・・・」
兵隊は、私の眼をじっと見つめ、黙ってトンネルの方へ引き返す。私はたまらなくなって声をかける。
「野口!」 野口は、トンネルの入口で振り向くと、直立不動の姿勢をとり、捧げ銃の礼をしてトンネルの中へ消える。
野口が去ったあとトンネルの中から再び大勢の足音が聞こえてくる。6列縦隊を組んだ兵隊ととそれを率いた若い少尉が出てくる。彼らは中隊長の「私」の指揮下で全滅した小隊である。
▼私「すまん! 生き残った儂(わし)は、お前達に合わす顔もない。お前達を全滅させたのはこの儂の責任だ。儂はすべての責任を戦争の不条理と軍律の非人間性に転嫁して、自分の無定見と過ちを認めぬ卑怯者ではない。しかし、生き永らえて、捕虜となった儂は、その抑留生活で死ぬ苦しみを味わった。そして、今、またお前達を見て、同じ苦しみをなめている。お前達の苦しみにくらべて、そんな苦しみはなんだ、と言うだろう。しかし、正直に言う、儂はお前達と一緒に死にたかった。この儂の気持を信じてくれ・・・お前達の無念な気持はよくわかる・・・戦死とは言え、犬死だ・・・しかし、その様にこの世をさまよって、なんになる?・・・頼む!・・・帰れ!・・・帰って、しずかに眠ってくれ!」
《黒澤明が言いたかったことは》
黒澤の分身である「私」のセリフから、私(半澤)が引き出した黒澤の戦争観は次の通りである。
一つ 戦死した兵士の帰郷を拒否して戦場へ返れという。
二つ 戦争の不条理と軍律の非人間性を理由に戦争責任を認めないことを拒否する。
三つ 小隊全滅を「犬死」と考えている。
『夢』の「私」が見たものは、「水漬く屍草むす屍」となって宙を彷徨う幽鬼たちである。
一体、日本人は幽鬼を暖かく故郷へ迎える人々ではないのか。天皇の神社靖国は、合祀を望まない遺族の意思に反してまで、幽鬼を「神」として招魂し続けている。
それに対して黒澤映画の「私」は靖国的鎮魂を否定しているのである。
「私」はなぜ靖国的鎮魂を否定するのか。彼は自分の戦争責任を曖昧にしたと感じているからである。そして部下の死を「犬死」と考えているからである。日本兵の戦死を犬死とみる黒澤の発言は衝撃的だといわねばなるまい。
黒澤明はこの戦争観の帰結としてこう言いたかったのではないか。
すなわち《日本人は「過ぐる戦争」の総括を済ませていない。戦争責任の決着をつけていない。それを決済しないで死者を迎え入れることはかなわないのだ》。
それは戦後日本の現状に対する自己批判を伴う強い批判であった。「今の世の中に対してぼくが考えていることが全部出てます」と黒澤は記者会見で言った。その時、「今の世の中」はどんな世の中だったのか。それはバブル経済の世の中であった。世界に怖いものは何もない世の中であった。その世の中はトンネルに旧軍の幽鬼を閉じ込めて経済大国を謳歌していたのであった。
黒澤は兵役を逃れて戦場へは赴かなかった。劇中で「私」のいう「生き永らえて、捕虜となった儂は、その抑留生活で死ぬ苦しみを味わった。/儂はお前達と一緒に死にたかった。この儂の気持を信じてくれ」というセリフは黒澤の微妙な内面を表現しているように感じられる。
《残酷な描写をどう考えるか》
反戦映画の代表作に関川秀雄監督の『きけ わだつみの声』(1950年)がある。この作品では全滅した学徒兵の魂が屍体からゆっくりと立ち上がり一団となって歩き出す。このラストシーンは感動的であった。関川は幽鬼の帰郷が鎮魂につながることを暗示したのだと思う。出目昌伸監督のリメイク『きけ わだつみの声(1995)』でも戦死した六大学出身の学徒兵がラグビー場へ還ってプレーする幻影の場面で終わった。
黒澤はこの二人よりも残酷な描写で我々の戦争認識を告発したのだと思う。梅原猛が死者の拒否を論じた以外に、私のようにこの場面を観る評者はいない。第4話「トンネル」を観ての読者の感想を是非、聞かせて頂きたいと思う。
Comment
お名前が判りませんが『夢』へのご感想ありがとうございます。「トンネル」は論ぜられることが少ないので興味をもっていただき嬉しく存じます。「トンネル」と犬の解釈は異なるものがいくつかあります。あの犬は手榴弾様のものを背負っており、シナリオには「狂犬」と書いてあるので私は軍国主義的なものの象徴と受け取っています。黒澤明は様々な解釈を認める人でしたから、貴台の解釈もありというのではないでしょうか。どうぞ良いお年をお迎え下さい。
半澤健市 (URL)
2008/12/31 Wed 12:46 [ Edit ]
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自分も第4話の「トンネル」が1番印象に残っています。主役が死んだ部下達に対して「犬死だ」とは言ったものの、「すまん! 生き残った儂(わし)は、お前達に合わす顔もない。」という言葉などから、黒澤監督ご本人は日本兵として国のために戦場に赴けなかったことに負い目を感じたのだな、という風に受け止めました。それは「お前達と一緒に死にたかった」という言葉の中にも含まれていると思います。ただ、後に「帰って静かに眠ってくれ」と懇願していることから(管理人様の靖国的鎮魂の文と多少連動してしまいますが)、戦死者を神として崇めるのではなく、彼らの死を心の中で受け止めつつ前を向いて生きていくべきだという考えが含まれているのではないかと感じました。
最後にうな垂れている主人公は黒澤監督の無念、主人公に対して飛び掛る犬は先に述べた辛くとも「前を向いて生きていくべきだという考え」を象徴しているのだと思います。