2023.11.25  世界のノンフィクション秀作を読む(37)

         ロバート・キャパの『ちょっとピンボケ』
     ――生と死を劇的に捉えた写真家の第二次大戦従軍記録(上)


                      
横田 喬(作家)


 ハンガリー生まれのR・キャパ(1913~1954:本名フリードマン・エンドレ)は二十世紀を代表する戦場カメラマンだ。スペイン内戦~日中戦争~第二次大戦の欧州戦線~第一次中東戦争~第一次インドシナ戦争(取材中に不慮の死を遂げる)の五つの戦争を精力的に取材。本編は彼の人間味豊かな個性が随所に滲み、彼が文才にも恵まれていたことを証す。

 ◇運命に起こされて 
 私のスタジオはニューヨーク九番街の、小さな三階建てビルの屋根裏。この三週間、私の処へ来る郵便は、電話と電気の会社からの二種の料金催促と決まっていた。が、今朝の不思議な三通目が、私をベッドから離れさせた。週刊誌コリヤーズの編集部より以下の通知があったのだ。
 <二か月間にわたり、貴方のスクラップ・ブックを種々検討の結果、貴方が偉大なる戦争報道写真家たるを認め、緊急に特派員として契約致したく、貴方の船室を英国向けの輸送船に既に予約済みにて、ここに前渡金千五百ドルの小切手封入の次第> 
早速、私は必要な書類の全てを手に入れ、大西洋を海路イギリスへ向かった。米国商船の中年の船長はアイルランド人で大のハリウッド好き。(一見派手なマスクと言動の)私を芸能界関係者と早とちりし、下にも置かぬVIP扱い。おかげで長い航海を退屈しないで済み、北アイルランドのベルファスト港へ無事に到着。翌日、特別機でロンドンに向かった。

 ◇われ君を待つ 
 アメリカ陸軍から手紙が届き、<軍属証明書は作成中だが、とりあえずシェルヴェストンの飛行場を基地とする“空飛ぶ要塞”の一群を撮影に行ってもらいたい>という趣旨だった。その飛行場は厳重に警備されたイギリスの飛行場で、至極張り切っているアメリカ空軍の第三〇一爆撃機隊が進駐していた。
 五日目の朝、爆撃機二十四機が出撃し、六時間後に十七機となって帰還した。そのうちの一機は着陸装置を撃ち飛ばされ、胴腹を痛めていた。司令塔は、胴体着陸を試みるようにと命令した。私はコンタックスを取り出し、同機が安全に着陸停止をするまでにフィルム一本を使い切った。私は機体に駆け付け、第二のコンタックスで焦点を合わせた。
 昇降口の扉が開き、乗組員の一人が運び下ろされ、待ち構えた医者に引き渡された。彼は呻いていた。次に下ろされた二人はもはや呻きもしなかった。最後に降り立ったのはパイロットだった。彼は額に受けた裂傷以外は、大丈夫そうに見えた。
 私は彼のクローズ・アップを撮ろうと思って近寄った。すると、彼は叫んだ。
 ――写真屋! どんな気で、写真が撮れるんだ!

 ◇砂漠の夢――1943年春―― 
 正規の輸送船に乗って、私はアルジェに着いた。その船は新鋭のスコットランド部隊を、チュニス奪還の増援のため北アフリカへ運ぶものだった。戦争はチュニジアの丘から数百マイル彼方で、我々の機甲部隊はガフサに進出していた。私は運転手付きのジープ一台をあてがわれ、一日中走行してガフサの村に着き、戦争の尻尾の端を掴んだ。
 ドイツ軍は最初、この丘の頂上を大砲で薙いできた。次いで五十の戦車と歩兵二個連隊で、我々の居る丘のすぐ麓から進撃してきた。味方の対戦車砲は今や活動を開始し、眼前の開けた視界の中で、激しい反撃を加え始めた。午後遅く、ドイツ軍は後退した。二十四の焼けた戦車と無数の戦死したドイツ兵とを残して。私はあらゆる角度から写真を撮った。けれども、私の感じた、あの緊張や劇的な場面を、真に撮し得たものは一つとしてなかった。

 ◇シシリアの空中に浮かぶ 
 白いアルジェの町は、空から見ると殊更に真っ白く、青い港は黒味がかって見え、あらゆる種類と大きさの船が密集していた。私は米軍情報部の手ずるで第八十二空挺部隊司令官リッジウェイ少将に面会。同部隊のシシリア攻略作戦に同行する運びになる。
 飛行機の中には十八人の落下傘兵がいた。機は地中海の上を低く飛び、シシリアの上空へ。
 ドイツ軍は夜空を一面に、色の付いた曳光弾で埋め尽くし、我が十八人が降下した。私はたった一人、地獄の惨めさにも優る寂寥を感じた。
 飛行場に帰還し、急拵えの小さなテントの中の暗室でフィルムを現像する。先刻の(機内の)写真は「ちょっとピンぼけ」で、ちょっと露出不足。でも、それらはシシリア攻略を扱った限り、唯一の写真だった。

 ◇ローマへの道はるかなり――1943年秋 
 シシリア作戦は終わって、私は船でアルジェへ送り返された。ホテル「アレッティ」には有名な新聞寄稿家ら百五十人の記者たちが集結した。差し迫った欧州本土上陸と急速に展開するシシリアの略攻が、彼らをここへ運んだのである。
 到着翌日の夜、十機以上のドイツ機が来襲。低空飛行をしながら、ホテルから数百ヤードの処へ爆弾を落とした。翌日午後、ジョン・スタインベックが連れ一人と三本の地元産焼酎を持って現れた。この飲み物は地獄の味がし、我々はせっせと瓶を空けにかかった。
 バルコニーからは港が手に取るように見え、毎日沢山の船に次から次へと軍隊、火砲、飛行機が積み込まれる。大きな船と船の間は、何十艘もの上陸用舟艇で次第に埋められていった。大作戦の開始が近づいていたのである。

 二日後、私はリッジウェイ将軍に呼ばれ、イタリア行きを勧められた。第五軍がサレルノ(ナポリがあるカンパーニャ州の州都)に上陸するのに私は同行した。黒焦げになって沈みかけた沢山の船や艀、欧州本土に初めて建つアメリカ墓地、白い十字架の群れ、そこに翻る星条旗。全てはサレルノの戦いがどんなだったかを物語っている。私たちは戦況図を見て、最前線は海岸から僅か四~六マイルの地点にあり、ナポリには未だ二十マイル以上あることを知った。私は最前線に出て、ナポリ一番乗りのチャンスを掴みたかった。
 遊撃隊司令部のダービー中佐が最前線キウンツィ峠行きの便宜を図ってくれ、私はシャスター堡塁に入った。峠の頂上で道が急カーブする陰にあり、数百年来の古い居酒屋がその正体。敵の砲弾は至る処に落下したが、砦は低く切れ込んだカーブに囲われ、命中し難い場所にあった。

 山腹の“タコツボ“陣地にいる兵は段々痛めつけられ、真夜中までに砦は一杯になった。戸口の近くは戦死者、真ん中には負傷兵、そして離れた片隅――そこには酒樽と一緒に写真家がいた。独軍は山腹の友軍陣地を的確に標定し、各中隊からは着弾の度に死傷報告が入って来る。迫撃砲弾は堡塁の関門の辺りにも命中し、破片が窓を塞いでいたマットを貫いた。私は馬鹿でかい二つのワインの樽という援護物のお陰で何とか落ち着いていられた。
 我が方は夜明けに七十五ミリ砲を搭載した弾痕だらけの小型装甲車(乗員五名)が夜明けに到着。装甲板にはアフリカのオランなど四つの有名な激戦地の名前が記されてあり、二十一歳の指揮官オブライエン大尉はシャツに銀の一つ星を帯び、派手に口髭を生やしていた。
 大尉は秘匿された敵迫撃砲陣地を発見する任務を与えられ、装甲車は正面へ約七十五フィート前進。敵は御座んなれとばかり全火力を集中する。私は最長距離の望遠レンズが付いたカメラを選び、堡塁の出口からその全行動を撮ろうとした。双方の撃ち合いが激しさを増し、私は弾丸の合間を縫って駆け戻らねばならなかった。が、華々しい戦闘場面を三十六枚のフィルムに収めることはできた。

 装甲車は約十二分間で全弾を射ち尽くし、岩陰へ引き下がった。オブライエン以下の乗員は無事で、彼は「敵の火線は峠の真下、森林中の小部落にある」と報告。私は夜のうちに堡塁を抜け出し、村を見下ろせる小藪の中に身を潜めた。
 最初の発煙弾が村の中央に落下。迫撃砲と巡洋艦と装甲車がその白煙の目標に数百の砲弾を降らせ始めた。私はやっと三インチばかり地上から頭をもたげ、写真を撮り始めた。村から砲煙は空へ舞い上がっていった。背景のヴェスヴィアス(火山)はその兄貴分といったところだった。日没には全てが再び静かになった。堡塁にはリッジウェイ少将らが到着し、ナポリの最後の攻撃は翌朝と定められた。
 10月22日、私は三十歳の誕生日を迎えた。私はイタリアの山から山へ、タコツボからタコツボへとうろつき回って、泥土と悲惨と死を写真に撮った。私は戦場から帰った翌日、“これが戦場だ“とタイトルを付け、ネガ全部をライフ社へ送った。二週間後、私の写真は雑誌の巻頭七頁にわたって掲載される予定、と電報が届いた。
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