2024.02.16  世界のノンフィクション秀作を読む(50)

D・ブライアンの『アインシュタイン』(三田出版会刊、鈴木主税:訳)――天才が歩んだ愛すべき人生(下)
                   
横田 喬 (作家)

 ◇ノーベル賞と不確定原理
 1922年10月、アインシュタイン夫妻は外遊に出た。日本では、夫妻は贅を尽くした帝国ホテルのスイートルームに宿泊。部屋のバルコニーは広場に面し、数千人の市民が徹夜で集合し、歓声を上げて科学者の挨拶に応えた。日本の聴衆は信じられないほど我慢強く、通訳を交えて四時間近くも続いた講演を終始礼儀正しく傾聴。アインシュタインは天皇と皇后(フランス語で彼と話した)に謁見し、駐日ドイツ大使と会談した。アインシュタインは日本人の美しい立ち居振る舞い、旺盛な好奇心や知性と感性に魅せられた。
 翌年春、東京を離れて数日後、アインシュタインはノーベル物理学賞を受賞したという知らせを受ける。八回も候補に推薦されながら拒まれ続けたあげくの栄誉だった。作家のA・ウォレスは後にスウェーデンに赴き、選考委員のスヴェン・ヘディン博士らに取材。反ユダヤ主義を掲げるドイツの有力な科学者らからの横槍があった事実を明らかにしている。

 23年11月、アインシュタインはオランダの友人宅に滞在中、新聞でヒトラーのクーデタを知った。ミュンヘンのビアホールでの政治集会でヒトラーは卓上に飛び乗り、天井に向けピストルを発射。「国家主義革命は始まった!」と参会者を脅迫し、同意を迫る。翌朝、褐色のシャツ姿のナチ突撃隊員三千人が社会民主党の機関紙の印刷機を叩き壊し、陸軍省を占拠。警察は銃撃を開始し、死者一六人と負傷者多数が出る。潜伏したヒトラーは三日後の同月11日に逮捕され、反逆罪で告発された。
 ドイツの物理学者プランクはこの暴力沙汰によりアインシュタインの身を気遣い、破格の条件を提示する。<年に一回だけベルリンで講義をし、ベルリンを「正式の」居住地とするだけでいい>。そうすれば、一年に一日を除き、彼の身は安全、というのだ。

 アインシュタインは実験が理論を確認するために絶対に欠かせないとしながら、「到底、全てを実験することはできない」とも認めた。彼は自分の結論を要約し、親交のあるドイツの理論物理学者マックス・ボルンにこう手紙を書いた。「量子力学は確かに尊敬に値する。が、未だ本物ではない。<古い理論>の秘密には少しも近づかせてくれないから」
 友人たちに囲まれている時の彼は快活で人をそらさず、面白かった。彼らの妻の数人とも親密な交際を楽しんだ。最も親密だったのは、マックス・ボルンの妻で脚本家のヘディ・ボルン。彼女はアインシュタインの人生の知識は科学上の業績にも優るとさえ信じ、こう言った。「彼は<自分は命あるものの全てのものの一部だ>と感じている」。
 29年、彼は「自分の相対性理論は空間、時間及び重力を支配する全ての法則を一つの公式で表している」とし、新しい研究の目的は「これをさらに単純化し、重力の場と電磁気の場の概念を一つの公式にまとめること」。即ち、「統一場理論」への貢献であるとし、「今では、否ようやく、我々は幾つかの力が同じものだと知った」とし、こう述べた。
――電子を動かして原子核の周りに楕円の軌道を描かせる力は、我々の地球を一年間で太陽の周りを一周させる力と同じである。そして、この惑星上に生命を存在させる光と熱の放射をもたらす力と同じなのだ。

 ◇アメリカ亡命
 アインシュタインのアメリカ訪問は1921年が最初で、エルサレムのヘブライ大学設立のための資金集めが目的だった。その際、プリンストン大学で四回講演し、名誉博士号を授与されている。それから九年後の1930年よりカリフォルニア工科大学の客員教授となり、度々アメリカを訪れるようになっていた。
 32年1~3月、同大学を訪問。プリンストン高等研究所の完成後には、同所の教授になることを約束する。一旦ベルリンに戻るが、同年12月に妻エルザと共にベルギーを経由して再びアメリカに向かう。この間ヨーロッパは破滅的な事態に陥っていた。翌年1月、ナチスが政権を獲得。ヒトラーが首相になると、ユダヤ人排斥は益々強まり、大規模な迫害・掠奪が進行。遂にはアウシュビッツで知られる大量虐殺まで行われることになる。
 ナチスは不在中のアインシュタインから名誉市民権を剥奪~財産を没収。別荘を家宅捜索し、その首に五万マルクの賞金まで懸ける。この時アメリカに居たアインシュタインはドイツ市民権を放棄し、ベルギーやイギリスに妻エルザらと滞在している。同年10月、家族共々ニューヨークに到着し、約束していたプリンストン高等研究所教授の職に就く。これが事実上のアメリカへの亡命となった。

 ◇第二次大戦と原爆の開発競争
 39年8月、時のアメリカ大統領ローズヴェルトはアインシュタインの署名入りの手紙を二通受け取った。「ウランから想像を絶するほど強力な爆弾ができる可能性が極めて高い。
核分裂によるエネルギーが放出されるのは人類史上初めて。」とあり、「ウラン鉱石の主要産地はベルギー領コンゴで潜在的な敵(ナチを指す)の手に渡らないよう、予防措置をとる必要がある」という趣旨だった。
 11月にはウラン諮問委員会が具体的な報告を発表し、大統領は国家プロジェクトを承認。コロンビア大学が政府から四万ドルの資金を受けてリーオ・ジラードとエンリコ・フェルミの両学者と契約し、核連鎖反応の実験に取り掛かる。遂に原子爆弾プロジェクトが開始された。ドイツでも核兵器の研究は進行。42年秋、核物理学者たちは(原爆製造には最低三年はかかり、戦争はそれより遥か以前に終結する)と予想し、製造計画は却下される。
 アメリカでは42年12月、エンリコ・フェルミが自続式の核連鎖反応に成功。原子核のエネルギー放出を制御した。アインシュタインは、こうした機密情報を知る対象人物とは目されていなかった。FBIは彼を共産党員あるいはスパイ疑惑の標的と見做していた。

 ◇原爆投下と戦後の平和運動
 45年7月16日未明、ニューメキシコの砂漠で最初の原子爆弾が炸裂。アインシュタインの有名な方程式E=mc²が現実のものとして、爆発と共に姿を現した。ドイツが降伏した後、連合国の攻撃は日本に集中。トルーマン大統領は二つの原爆の使用を命じた――広島に一つ、長崎にもう一つを。アインシュタインは「何ということか!」と頭を抱えた。
 彼は原爆に関する機密はそんなに長くは保ってはいられないと予測。当時の三つの軍事大国(米国・ソ連・イギリス)が設立する世界政府が共有すべきだ、という意見だった。彼は「人類は原子力に脅かされて、国際関係に秩序を生み出すかも」とも予測した。

 戦後の50年代にマッカーシズムの赤狩りを体験したアインシュタインはアメリカの将来を危惧していた。ソ連に関しては、核戦争を避け、経済を疲弊させないために武器開発の競争を抑えることが、相互の利益になると言った。優秀な頭脳を軍事目的に使うよりも、基準を底上げする方向で研究を進めることが望ましいという意見である。
 幻想を抱いていたわけではなく、核戦争を防止するのは難しいことだ、と承知していた。会議の席で、「人間が原子の構造を発見するほどの能力を持っているなら、なぜ原子が人類を滅ぼすことのない政治的手段を考案することができないのか」と問われ、こう答えている。「それは単純なこと。政治の方が物理学よりも難しいからだ」。
 
 ▽筆者の一言 
 アインシュタインは1955年四月に亡くなる。死の直前、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルと書簡をやりとりした。湯川秀樹ら世界の指導的科学者十一人の署名も得て、核戦争の廃絶と紛争の平和的解決を求める「ラッセル=アインシュタイン宣言」として同年七月、発表される。この宣言を機に、全ての核兵器及び戦争の廃絶を訴える科学者による国際的会合パグウォッシュ会議(95年にノーベル平和賞受賞)が57年に創設された。だが、彼は単なる堅物ではない。「相対性とは何か?」と問われ、「自分の膝の上に年寄りの女を乗せていたら、一分間が一時間のような気がするが、乗せているのが若い美人だったら、一時間が一分間みたいに思えるだろう」とジョークで返答している。親しかった科学者アブラハム・パイスはこう言った。「他の偉大な男たちとは全く違い、子供が子供の侭で生きていた。遊びに夢中になる子供の心が最後まで消えずに残っていた」


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