2024.02.19 東北の民衆運動から学ぶ
  韓国通信NO737
           
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 2012年の秋、友人と岩手を旅行した。
 盛岡駅前で借りたレンタカーの旅は、自然エネルギーに取り組む葛巻(くずまき)町、岩泉町の龍泉洞、津波の被害を受けた田野畑、田老(たろう)、浄土ヶ浜と宮古、復興に立ち上がった重茂(おもえ)漁協など観光を兼ねた走行距離400キロあまりの4泊5日の旅だった。

 「謝罪」と「真摯」という言葉が砂塵のように空しく舞い散る社会。ひょっとしてこの島は沈没するしかないのか、そんな不安が頭をもたげる日々。
 11年前、旅で見つけた民衆のエネルギー。こんな時代だからこそと、「通信」をリメイクして本改訂号を作成した。

<三閉伊(さんへいい)一揆>
 田野畑村に出かけたのは津波でわかめ採取の施設を失った漁民への支援金を届けるためだった。村役場でカンパの手続きを終え、近くの民俗資料館に立ち寄った。江戸時代末期に起きた三閉伊一揆の資料に二人は目を見張った。
館の資料をもとに一揆のあらましを以下に記す。
三閉一揆737
一揆の像737

(上写真/田野畑村HP掲載切り絵/下/資料館横「一揆の像」)

 一揆は1847年と1853年の二回にわたって起きた。欧米諸国とロシアの軍艦が頻繁に開港を求めて出没した時期である。幕府は「外国船打ち払い令(1825)」を布令し、諸藩には警備と費用の負担を求めた。庶民に大増税を求める南部藩に対して貧困にあえぐ農漁民、商工業者たちは反発し、前代未聞の一揆に発展した。
 参加者はそれぞれ1万2千人、1万6千人(全住民の20%、26%)にのぼった。
 村役を中心に協議を重ね、藩政の改革、増税の撤回を求めて小〇(困る)の旗を掲げて藩主と対峙した。一揆は成功したかに見えたが、指導者の処刑、約束の不履行に業を煮やした農漁民は再決起。今度は南部藩を相手にせず伊達藩に三閉伊地域の編入を求めて強訴。当惑した伊達藩は幕府と協議、一揆側の要求49条すべてを南部藩に承諾させ落着した。さらに参加者を処罰しない約束までとりつけ実行させた。

 歴史上、例のない規模の大きさ、団結力には驚くが、無能な藩主の更迭と領地替えまで求めたのは空前絶後のことだった。児童文学者後藤竜二の『白赤 だすき 小〇の旋風』(新日本出版社2008年)では、一揆の経過とともに参加した人への作家の愛情が語られ興味深い。一揆は現代に引き直すと「軍拡のための増税反対!」「国民の声を聞かない政府は交代!」に等しい。
 何百キロも行進を続けた彼らは行動する民主主義の実践者だった。テレビ・ラジオ・新聞もない今から170年前のことである。
 江戸中期に「万民平等」と「農本」を唱えた安藤昌益の存在が思い浮かぶが、生きるために立ち上がった農民の姿は理屈を越えた感動を私たちに与える。

<岩手に原発がないワケ>
 同じ資料館の中庭に「吾が住み処 ここより外になしと思ふ 大気静澄にして微塵とどめず」と書かれた歌碑がある。
歌碑737
(上写真/筆者撮影)。

 田野畑に原発を作らせなかった歌人岩見ヒサの歌碑である。
能登半島地震で珠洲の反原発の運動に注目が集まっているが、ほぼ同時期に田野畑村でも原発誘致に反対して闘った人たちがいた。
 運動の中心となったのが歌碑の元保健婦の岩見ヒサだった。
 貧乏県の岩手に何故、原発がないのか。
 著書『吾が住み処 ここより外になし』(萌文社、2010年)は巡回保健婦を永年務めた個人史である。往復35キロの道のりを徒歩で巡回、各地にバラバラに暮らす婦人たちの健康と生活向上に尽くした。助産婦、時には医師の仕事まで任されたという。
 突如降ってわいた原発誘致に、「カネより大切なものがある」と確信した彼女のもとに多くの女性たちが集まり、学び、反対運動に加わった。ヒサ64才の時だった。

 著書の第3章で「原発反対奮闘記」で彼女たちの運動が語られている。署名運動、新聞投稿、反対集会、村長、議員に対して執拗に続けられた説得活動が語られる。
 運動は功を奏し、推進から一転して誘致断念につながった。それは村を挙げての女たちの「たたかい」だった。「金よりもいのちと自然」という女性たちの粘り強い運動が交付金の獲得、村の活性化を主張する男社会を打ち負かした。
岩見ヒサ737
(右写真/著書表紙/岩見ヒサの肖像)。

 ヒサの著書は今もロングセラーを続けている。原発を作らせなかった彼女への敬意と感謝の気持ちが現在も生き続けている。私たちが田野畑を訪れた時、岩見さんはご存命だったが、3年後の2015年9月に亡くなられた(年98才)。「原発のことを知って欲しい」と言い続けた彼女の声が今でも聞えてきそうだ。
 田野畑の「本家旅館」に一泊。女主人のおつれ合いは元漁業組合長。「三閉伊一揆を語る会」の初代会長だった。東日本大震災の直前に亡くなられた。
 「あなたがたと話ができたらさぞ喜んだはず」と残念がっていた。旅館の名物料理「ドンコ汁」は美味だった。
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