2024.02.26 人類史に残るビキニ被災事件から70年

いまなお未解決の諸問題

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 来たる3月1日は、人類史に特記される「ビキニ被災事件」から70年にあたる日だ。世界を震撼させたこの事件は、地球上で暮らす私たちに多大な課題を突きつけたが、70年たってもそれらの課題は今なお解決していないどころか、かえって深刻化している有様である。私たちは今こそ、70年前にさかのぼって事件の本質に目を注ぐ必要がある。

広島原爆1000倍の水爆実験
 1954年3月1日未明、太平洋のビキニ環礁で、米国による水爆実験(ブラボー)が行われた。第2次世界大戦後に激化した米国とソ連2大国の核軍拡競争の真っ只中で、「ブラボー」の爆発規模は広島に落とされた原爆の1000倍といわれた。
 あまりにも威力のある水爆実験だったから、ビキニ環礁の島々の一部が吹き飛び、水没してしまった。そればかりでない。環礁のサンゴ礁が粉々になって空に舞い上がり、放射能で汚染された白い灰(「死の灰」と言われた)となって洋上に降り注いだ。
死の灰は、環礁から離れたマーシャル諸島の島々の住民たちに降り注いだ。このため、住民たちは放射能症にかかり、その後長年にわたって苦しむことになる。

第五福竜丸の被災
 この水爆実験で、静岡県焼津港所属のまぐろ漁船・第五福竜丸(23人乗り組み)も被災した。同船はビキニ環礁から東方167キロの公海上、米国政府が設定した立入禁止区域から64キロ離れた洋上で操業中だったが、乗組員が「死の灰」を浴びた。直ちに帰路についたが、途中、乗組員たちは嘔吐、倦怠感、頭痛、食欲不振、下痢、抜け毛、火傷などに悩まされた。
 3月14日に焼津に帰港、乗組員たちは急性放射能症と診断された。9月23日には、症状が重かった無線長の久保山愛吉さんが死亡。「水爆による初めての死者」であった。焼津市で全国漁民葬が行われ。安藤正純国務大臣が政府代表として参列した。

燎原の火のように広がった原水爆禁止署名
 日本国民はパニックに襲われた。同胞が水爆実験で死亡した上に、まぐろを食べられなくなったからだ。太平洋で獲れたまぐろは放射能に汚染されているとして、港に水揚げされたまぐろが放棄されたからである。雨の日は、傘なしには歩けなかった。雨が放射能で汚染されていたからだ。
 そんな中で、54年5月、東京都杉並区の女性たちが「水爆禁止署名」(後に原水爆禁止署名と改名)を始める。これは、またたく間に区内、都内、ひいては全国各地に広がり、同年8月には、原水爆禁止署名全国協議会が結成された。同協議会による署名は55年夏には3200万筆を超し、こうした全国的な盛り上がりを背景に同年8月6日、広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開かれる。  
 これには、3つの国際組織、14カ国の海外代表も参加。これを機に、恒常的に原水爆禁止運動を進めるための組織が誕生する。
 広島と長崎の惨劇からすでに9年だっていたが、この間、大規模な原水禁運動は起こらなかった。なぜか。最大の要因は、日本が米軍の占領下にあり、米軍が原爆に関する報道を禁止していたので、広島・長崎の被害の実相が日本国民に伝わらなかったからである。ビキニ被災事件は、日本人の目を過去の原爆被害に向けさせるきっかけとなった。

国際的にも衝撃を与える
 ビキニ被災事件は、世界的にも衝撃を与えた。
その1つが、55年7月9日に、世界の著名な科学者11人によって発せられた「ラッセル・アインシュタイン宣言」である。バートランド・ラッセル(英)、A・アインシュタイン、ジョリオ・キュリー(仏)、湯川秀樹らが連名で発したもので、「将来の戦争に於いては、核兵器が必ず用いられるべきこと、しかもかかる兵器が人類の存続を脅かすものであることに鑑み、われわれは世界各国政府に対し、彼らの目的は世界戦争によっては遂げられないということを、彼らが自覚し、かつ公に確認することを強く勧告する。そして結論としてわれわれは、各国間に紛争のある総ての事項の解決に当たっては、平和的手段を見出すべきであるということを彼らに対し強く勧告する」と述べていた。
 これを受けて、57年には「バグウォッシュ会議」がカナダのバグウォッシュで発足する。国際的な科学者が集まって核軍縮を話し合うための会議で、米ソからも参加があった(バグウオッシュ会議は1995年、ノーベル平和賞を受賞する)。

いくつかの核軍縮に向けた措置を生む
 日本における原水爆禁止運動とパクウォッシュ会議の外にも、内外で核兵器廃絶を目指す動きが次第に大きくなってゆき、それが世界世論となった。それだけに核保有国はこうした動きを全く無視できなくなった。
 1963年には、米英ソ3国が「部分的核実験停止条約」(PTDT、大気圏内における核実験の禁止)に調印。さらに1996年には、国連総会が、地下核実験を含むあらゆる核実験を禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTDT)を採択した(未発効)。これに先立つ1970年には核不拡散条約(NPT。米、英、仏、中、ソの5カ国以外の国には核兵器の保有を禁ずる)が発効している。
 一方、米ソ間でも、1969年から戦略核兵器削減交渉(START)が延々と行われてきた。1991年のソ連崩壊後は、米露間で交渉が続けられてきた。
 ちなみに、世界の核弾頭数の推移を見てみたい。核兵器開発競争のピークであった1987年には世界には約7万発の核弾頭があり、その8割が米ソ保有であった。それが、2022年6月現在では1万2720発で、そのうち米国は5425、ロシアが5975であった(「ピース・アルマニック2023」)。
 ピーク時に比べると、量的には激減だ。核爆弾の性能が高まったことが一因だろうが、この間、地球上で延々と続けられてきた、民衆と非同盟諸国による核兵器廃絶運動も影響している、と私は信じたい。

 これらの核廃絶運動からの圧力が影響したのだろう、1878年、1982年、1988年と3回にわたって国連で軍縮をテーマとする特別総会が開催された。
 2017年には、ついに国連の会議が、核兵器の全廃を目指す「核兵器禁止条約」を採択、2021年1月に発効した。これは核軍縮の歴史上画期的なことであり、世界の核兵器廃絶運動は大きく前進したと言える。

世界は核戦争寸前へ
 ところが、世界は一転して、今や、世界は核戦争寸前という危機に陥っている。2年前にロシアがウクライナに侵攻、プーチン大統領が「外部の者がウクライナに介入し、ロシアに戦略的脅威を与えようとするなら、われわれは電光石火の対応を取る。われわれには対応手段があり、必要に応じて使用する」と述べ、いざとなれば核ミサイルの使用も辞さないと示唆したからである。加えて、同大統領は23年2月、米露間唯一の核軍縮交渉の舞台である「START」の履行停止を発表した。
 米国の科学誌「原子力科学者会報」が毎年発表している、人類滅亡までの残り時間を示す終末時計の残り時間は、ただ今、「90秒」だ。過去最短である。

福竜丸は何を語るか
 さて、ビキニ被災事件で被災した第五福竜丸は今、どこにいるのか。
同船は事件後、東京水産大学(現東京海洋大学)の練習船として使用され後、廃船処分となり、東京湾のゴミ捨て場「夢の島」に捨て置かれた。その無残な姿に心を痛めた東京都世田谷区の会社員が「沈めてよいか第五福竜丸」と題する一文を1968年に朝日新聞に投稿、それを機に保存運動がわき起こった。
 これに対し、美濃部亮吉・東京都知事が保存への協力を表明、1976年に同船を収容した都立第五福竜丸展示館が江東区夢の島に開館する。古い木造船の保存は、世界でも稀にみる壮挙だった。それから48年。これまでの入館者は586万人にのぼる。今でも年に10万人の入館者がある。

第五福竜丸①
都立第五福竜丸展示館。中に福竜丸が展示されている。=東京都江東区夢の島2丁目。
JR京葉線、地下鉄有楽町線、りんかい線の新木場駅下車。

第五福竜丸
第五福竜丸の船体 総トン数140.86トン 全長28.56メートル

 展示館を管理する公益財団法人・第五福竜丸平和協会はビキニ被災事件から70年を記念して3月3日(日)14時から、東京都港区の明治学院大学白金校舎本館1301教室で「3・1ビキニ記念のつとい」を開く。山極壽一・総合地球環境学研究所所長の講演「『人新生』のわたしたち~人類の未来を共に考える」がある。
問い合わせは同平和協会(03-3521-8494)へ

 福竜丸以外の乗組員が訴訟へ
 なお、福竜丸と関連して、近年、新たな問題が生じている。福竜丸の乗組員には米国政府から慰謝料が支払われたが、福竜丸と同様に、事件当時、太平洋で操業していて被災した漁船の乗組員への補償は放置されてままだ。当時、太平洋上にいた船は1000隻を超えるとされる。その一部、高知県の元乗組員と遺族から、損失補償を国に求める訴訟が起こされ、高知地裁で審理中である。

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