2024.04.01  世界のノンフィクション秀作を読む(60)
 
小笠原弘幸(九州大大学院准教授:イスラム文明史)の『ケマル・アタチュルク』(中公親書)――現代トルコ建国の父の横顔(下)

横田 喬 (作家)


 ◇国民闘争の聖戦士(下)
 第一次大戦に敗れたトルコに対し西隣のギリシャが1919年、一方的に侵攻。翌々年、トルコ軍はギリシア軍にイノニュで勝利。小競り合いだったが、ケマルは大勝利として喧伝した。国民主権を強調する「基本組織法」が議会で採択され、大国民議会議長たるケマルに権力が集中する結果を生む。同法はまた、この国を「トルコ国家」だと言及した。ケマルを支持する議員は議会の過半数を占め、閣僚にも彼の支持者はこの時期増えつつあった。
 2月には、ロシア革命に勝利した赤軍がジョージア(旧名グルジア)に進軍、首都トビリシを占領し、ソヴィエト政権が成立する。トルコ側は迅速に対応し、かつて帝政ロシアに奪われたアルダハンなど三都市を取り返す。モスクワ大使フアトは交渉の末、港湾都市バトゥムを譲る引き換えに金貨一千万枚、ライフル四万五千丁、機関銃三百丁、野砲百門を引き出す。アナトリアの国境は確定~承認され、友好和親条約が締結された。

 6月、ギリシア軍の増援部隊がアナトリアに上陸~総攻撃を開始。エスキシェヒル、そしてキュタヒアと拠点が次々と陥落。迎え撃ったトルコ軍が手痛い敗北を被ると、脱走兵が続出、難民が流れ込んだアンカラはパニックに陥り、議会はケマルを総司令官に任命する。全権を掌握できる総司令官は、近代のオスマン帝国では皇帝のみが就任できる地位。破格の任命で、ケマルに全権を集中し非常事態の乗り越えを図る乾坤一擲の作戦だった。
 ガリポリの戦い以降、ケマルは「戦場で幸運をもたらす魔力を持っている」と信じられていた。以来、彼が積み上げてきた実績が、危機打開への希望を皆に抱かせたのである。後に彼はシニカルに回想している。「任命によって、反対派は私の処断を望んだのだ」。
 ケマルは、進軍するギリシア軍を更に内陸へ引き込むことで補給に負担を与え、反攻のための時間を稼ぐ作戦を取る。同時に「国民徴発令」を発布。民衆から、武器を始め車輌、衣服、食糧の提供を求め、また戦争のため放棄された物資は全て利用できるとした。

 こうして舞台は整った。決戦の地は、アンカラから僅か西方五〇キロのサカリヤ川東岸。8月23日、決戦開始。ギリシア軍は十万、トルコ軍は九万と、兵数はほぼ互角。が、装備の面では圧倒的にギリシア側が優越し、トルコ軍は劣勢だった。戦いが佳境に入る9月2日、要地チャル山が奪われると、議会は激しくケマルを非難した。
 が、ギリシア軍の攻勢は、既に限界。まもなく撤退を始め、トルコ軍は10日に総攻撃を開始。13日、ギリシア軍はサカリヤ川西岸への渡河を完了、戦いは終わった。勝報を受け、議会はケマルに元帥の位と聖戦士(ガーズィ)の称号を与えることを決定。人々は以後、彼を「ガーズィ閣下」と崇め呼ぶようになる。

 サカリヤ川での勝利は、事態を大きく動かした。機会を伺っていたエンヴェルは出番が失われたと判断、中央アジアへ去り、トルコ民族の独立運動に参加し、翌年夏に戦死する。タラ―トはベルリンで21年3月に、ジェマルはトビリシで同年7月に、いずれもアルメニア人暗殺者に殺害されていた。統一進歩協会の指導者として一時代を築いた三人は、ほぼ同時に歴史の舞台から去ったことになる。(時代はケマルの独り舞台へと刻々移っていく)
 22年秋、ケマルはイズミルで元市長の娘ラティフェと出会う。娘は24歳、ウスキュダルのアメリカン女子大出身。フランスやイギリスに留学経験のある語学に堪能な才媛である。ケマルとラティフェは急速に親しくなる。ケマルは彼女を「副官」と呼んだりし、娘は求婚を承諾し、翌年1月に結婚。新婦は新しいトルコの象徴として、積極的に活動する。地方遊説に同行し、外国メディアの取材を受け、女性運動に協力した。

 長く続いたローザンヌ講和会議は23年7月、調印。アンタキアなど北アラブ地域放棄という犠牲は払ったが、国民誓約で定められた国土のほとんどを確保し、不平等条約も廃止されるという、トルコ側の主張の多くが認められる形となった。ローザンヌ条約はトルコにとって悪夢とトラウマだったセーヴル条約を塗り替えた、輝かしい勝利と喧伝される。
 同年9月、「トルコは共和国に、アンカラは首都になるだろう」というケマルの談話が報道される。遷都は死活問題と考えるイスタンブルの人々は激怒した。ケマルは議会に周到に根回しをし、議会に憲法の修正を提案。<共和制の採択―大統領が首相を任命―首相が議員の中から閣僚を任命―政府に強力な権限を与える>修正案は激論の末に採択される。

 大統領にはケマルが選出され、ケマルはイスメトを首相に任命(外相も兼任)。フェヴズィは参謀総長、キャーズムは国防相、フェトヒは議会の議長に任命され、こうして23年10月29日、新生トルコ共和国が建国された。
 共和制の成立と共に、カリフ制の去就に注目が集まる。現カリフたるアブデュルメジドは反ケマル派のシンボルとなり、共和制の性急な導入に疑義を呈する談話を発表する。イスタンブル入りしたカラベキルやラウフにアドナンらは相次いでカリフに謁見した。24年3月3日、議会はカリフ制の廃止を圧倒的多数で決定(反対は一人だけ)。アブデュルメジドは翌日早朝、僅かな供を連れて祖国を離れ、オスマン帝国は名実共に消滅した。

 ◇父なるトルコ人
 ケマルの権力掌握を決定づける契機となったのが、26年6月に起こったケマル暗殺未遂事件。犯行を企図した旧進歩主義者共和党員フルシトが逮捕され、アンカラの独立法廷は、カラベキルやフアトら建国の元勲を含む同党員を全て逮捕。ケマルの行動は迅速で、公判の結果、19名に死刑判決が下る。彼の元副官アリフ、元統一進歩協会のジャンブラトやジャヴィトらが含まれていた。カラベキルら元勲たちは無罪となり、ケマルは彼らを救ったのは自分だとアピール。有罪こそ免れたものの、彼らの政治生命は完全に断たれた。

 こうして、遂にケマルは絶対的権力を手に入れた。イスメトを首相、フェヴズィを参謀総長と、政軍のトップに据えた上で、新世代のケマルの信奉者たちが、ケマル体制を支えるようになる。この夏には選挙が行われ、候補者は全てケマルによって選ばれた。11月、新たに開かれた国会において、ケマルは反対者のいない議会を手に入れる。

 議会では、カリフ制の廃止に引き続き、イスラムに由来する幾つもの制度が廃止された。曰くイスラム学院の廃止―近代的な教育機関への一本化、イスラム法に基づく法制度の廃止―週休日を日曜とする西暦の採用、トルコ帽の着用禁止を規定する「帽子法」制定・・・。
このトルコ帽禁止は、人々に大きな衝撃をもたらした。かつて帝国近代化の象徴だったトルコ帽が旧習の象徴となり、人々の心性に新しい時代の到来を悟らす。
 トルコ国民の西洋化・近代化を、帽子法や文字改革(ラテン・アルファベットの採用)と並んで大きく象徴したのが、苗字の制定だ。この時までトルコの人々は姓を持っていなかった。ケマルは西洋諸国のように、全ての国民は姓を持つべきだと考え、34年に姓氏法を制定。議会から「アタチュルク」(父なるトルコ人)の姓を贈られた。

 ケマルの断固とした政策の背景には、トルコ国民は迷信や宗教的反動から脱却し、科学を受け入れ、「文明化」せねばならない、でないと国際社会で生き残れないという厳しい現状認識があった。ヴェール着用の制限など女性解放にも一定の進展が見られた。だが、私生活では思うに任せず、個性の強烈なラティフェと度々衝突し、25年夏に遂に離婚に至る。
 37年の年末から、ケマルの体調は急速に悪化する。かつてラティフェが懸念した生活習慣は一向に改まっていなかった。昼過ぎに起床し、日に15杯の珈琲を飲み、3箱の煙草を空にする。つまみ無しで度の強い地酒ラクを1リットル近く飲み、朝まで来客や側近たちと議論や歓談を続け、早朝床に就く。寿命を縮めるのも当然だったろう。翌年8月に医師団が手術を行ったが病状は回復せず、11月10日朝、息を引き取る。57歳の生涯だった。

 ▽筆者の一言 私は2011年にトルコ国内を十日間ほど旅行している。重宝したのは、店舗の看板がローマ字表記だったこと。ケマルは全国民にローマ字の学習を強制し、自ら街頭に出て大衆の教化に努めた。この施策が国民の識字率向上や教育の普及に役立ち、民族意識の高まりにも大いに貢献した。アラビア文字の追放はイスラム教制御への思惑もからんでいた。現地でのガイド役はトム・クルーズ似のハンサムな青年(夫人は日本人女性)だったが、当今トルコ人の(薄っぺらい)イスラム信仰を指し、「なんちゃってイスラムだよね」と茶化して言ってのけた。トルコ人のイスラム信仰はケマルの世俗化政策により、かなり様変わりし、礼拝や禁酒などの戒律遵守はかなり緩い。そして、その世俗化こそが現代トルコの一定の繫栄を下支えしている、と私は観察した。ついでに言うと、トルコの人々の日本贔屓は聞きしに優り、私は旅行中、幾度か胸がジーンとする思いを味わった。

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