2024.04.16  世界のノンフィクション秀作を読む(63)
        小林司(精神科医・作家)の『ザメンホフ』(原書房:刊)――エスペラント(世界共通語)を創ったユダヤ人医師の物語(上)

横田 喬 (作家)

 ザメンホフ(1859~1917)は差別と偏見に苦しむユダヤ人としての苦闘の中から世界共通語としてのエスペラントを考え出した。筆者はエスペラントが生まれずにはいられなかった当時の社会情勢や、民族や国家とは何かという問題を詳述。ユダヤ人への民族愛から人類愛への思想へ、と変わっていったザメンホフの精神的発展の軌跡を的確入念に辿る。

 1881年3月13日午後、ロシア帝国の首都ペテルブルクで皇帝アレクサンドル二世の暗殺事件が起きる。エスペラントの創案者ラザル・ザメンホフは当時二二歳、故郷のポーランドを離れ、ロシアのモスクワ大学医学部に留学していた。1917年、すなわちソヴィエト革命が起きた年に亡くなるまで、彼の一生はロシアにおける革命のどよめきの中にあった。

 この暗殺事件が起きる一年半ほど前の1879年秋からユダヤ人留学生ザメンホフはモスクワで医学を学んでいた。生理学や内科学の有名教授たちが人気を集めていた医学部の教室には、色々な人種の若者たちが一杯ひしめいていた。それを見て、ザメンホフは人種や言葉の違いについて、それまでより一層深く考えるようになった。
 同級生の中には、後にロシアの作家になり、『かもめ』や『桜の園』などの戯曲を書いたチェーホフがいた。同じく苦学生だったチェーホフは生活に追われ、収入がいいユーモア雑誌へ寄稿をしていた。彼は後の90年春、三か月をかけてサハリンに旅し、流刑囚についてルポする。そのヒューマニズムは、ザメンホフに対して大きな影響を与えた。
 ユダヤ人は蔑まれていて、アルバイトの家庭教師にも雇ってもらえず、仕送りの少ないザメンホフは学友ともあまり交らず、自室に籠って勉強を続けるほかなかった。当時のロシアには、不安定な重苦しい空気が立ち込め、農業恐慌、不景気、政治的反動、革命運動の無力化が当時の情勢のあらまし。帝政による締め付けや弾圧が益々強まっていた。

 皇帝が暗殺されると、ロシア政府はこの襲撃にユダヤ人女性が加わっていたというデマを流した。これを利用してロシア人とユダヤ人とが互いに憎み合うように仕向け、皇帝政府への批判の目を逸らせようという企みだった。その結果、ロシア各地で「ポグロム(破壊)」が始まった。このロシア語の単語は、この時以来、「政府の扇動または黙認の下に行われる、ユダヤ人大虐殺の暴動」という意味に変わり、世界中の言語に広まった。
 それは、ロシアの南部からウクライナにかけて、ユダヤ人が沢山住んでいる地域に非常な勢いで流行し、1881年4月から翌年の半ば頃まで続いた。殆ど毎日のように、どこかの町で何の理由もないのに、暴動によってユダヤ人が一日に一万五千人も殺されたり、傷つけられたり、その財産を強奪されたりしていた。
 この残虐なポグロムを目の当たりにし、優しい心の持ち主だったザメンホフは愛国者に変わる。彼がモスクワに留学して二年目に、家庭の経済状況が悪化。学資送付が難しくなり、ポグロムの心配もあり81年夏に彼はポーランドのワルシャワ大学に転校しなければならなかった。そのワルシャワでも、その年のクリスマスの日にポグロムが勃発する。

 キリスト教徒たちがカトリック教会でミサを捧げている最中に、参拝者の懐中時計を掏り取ったスリが注意を逸らそうと「大火事だ!」と叫んだ。「大変だ!逃げろ!」という叫びで、群衆は大混乱。教会の戸口で二八人が死に、沢山の人々が傷ついた。教会の外にいた不良青年のグループが「ユダヤ人が犯人だ。襲おう!」と出任せをどなって扇動した。
 数千人の興奮した群衆は、ユダヤ人が集まって住んでいた地区に向かって津波のように襲いかかる。一五〇〇戸ものユダヤ人の店や家屋をめちゃめちゃに破壊し、商品を掠奪した。投石や残虐な暴行で一二人のユダヤ人が殺され、二四人に瀕死の大怪我を負わせ、多くのユダヤ人女性にも暴行を加えた。
 
 ザメンホフは家族を地下室へ素早く逃がし、大群衆の蛮行を窓越しにしばらく見守った。太い棍棒や斧などが振り回され、子供までが被害に遭っている。(ああ、僕は無力だ。残念だ!)悔しさで涙が溢れてくる。真っ暗で凍てつくような地下室の石炭置き場で、彼の一家は息を殺して丸二日半も潜んでいなければならなかった。長い長い恐怖の時間だった。ザメンホフの母親は未だ二歳の赤ん坊を抱き、怖がる幼い弟たちを一心になだめすかした。
 死と隣り合わせのクリスマスの数日は、彼の頭に終生忘れ得ぬ影を刻み込んだ。当時サンクト・ペテルブルクで、ユダヤ人向けに発行されていたロシア語の高級週刊誌『夜明け』1881年第51号は、この事件を詳しく報道した。ザメンホフは当時ワルシャワ通信員だったから、これは彼のレポートだろう。
 「ユダヤ人が教会で騒ぎを起こした」という根拠のないデマに基づき、群衆が罪もないユダヤ人を襲ったことに対する激しい抗議が、その報道の文面に読み取れる。教会の騒動は偶発的なもので不幸だったとしか言えないが、ユダヤ人に対する暴動は文明人のいとも野蛮な卑しめであった、と強調している。
 ザメンホフは医師になってからも、シオニズム(イスラエル文化の復興)運動に献身的な奉仕を重ねた。運動を介し彼はクララ(1863~1924)という娘と知り合い、1887年に結婚する。彼女の了解の下で、その持参金を全てエスペラントPRの活動資金に充てている。

 ◇世界に一つの言葉を 
 実はザメンホフは一九歳(ギムナジウム8年生)の折の1878年に、自分で創案した「エスペラント(世界語)」を殆ど完成していた。友人に話したところ、何人かが心を惹かれ、この新しい言葉を学びたいと言ってくれた。勉強してみると、余りにも覚え易いので皆驚いてしまった。年末、一同はワルシャワ市内のザメンホフ家で会合し、この言語の誕生を祝っている。その集まりでは、皆がこの言葉で話し、この言葉を讃える歌を合唱した。
 <民族の間の憎しみよ/倒れろ/倒れろ/もう時がきた!/人類全部は一つの家族に/一緒にならなければならぬ。>
 机の上には文法と辞書の他に、この新しい言葉に移し替えられた翻訳の文章が幾つか載っていた。だが、この仕事を世間に発表するには未だ若過ぎたので、彼は後五、六年待つことに決めた。仲間たちは半年後に卒業、散り散りになり、「世界語」学習から手を引く。
 ザメンホフは翌年にギムナジウムを卒業、モスクワ大学に進学する。この年八月のギムナジウム卒業時の成績表は、文科・理科十科目が全て「優」又は「特優」(ドイツ語・フランス語・ギリシャ語の三科目)。「非常に優秀で勤勉」という高い総合評価を受けている。

 時は移り87年夏、27歳のザメンホフはエスペラント図書の『第一書』を刊行する。小型の判型で40頁、表紙の裏に「この国際語の作者は私有権を永久に放棄する」「誰でもこのパンフを各国語に翻訳して良い」とあった。中身は「アルファベット」「文法一六カ条」「文例」「九一八単語の辞書」。「辞書」といっても、B5版一枚の紙の裏表にエスペラントとロシア語の単語が並べてあるだけの簡単な単語表で、巻末に折りたたんで貼り付けてあった。
 「まえがき」には、この国際語の思想が次のように紹介されている。「全世界が全く平等に持つことになる一つの共通の国際語を採用するのは、人類にとって計り知れない意味がある」「翻訳はこの中立で皆に通じる国際語に訳しさえすれば良く、国際的性格を持った作品ならば、最初からこの国際語で書くこともできよう。言語の障壁は倒れ、教育や思想、信条、望みなども共通なものとなり、各民族が一つの家族のように近づき合えるだろう」

 彼はまた、こう説く。
 ――言葉が違うことは、各民族の違いの根本を示しており、お互い同士の憎しみ合いを招いている。人間が出会った時には、言葉の違いが、何よりも先に目立つからだ。それで、お互いに理解し合えず、打ち解けない結果を招き、相手を異邦人だと感じてしまう。
 彼は続けて書いている。「国際語が直面していて解決しなければならない問題は次の三つだ。①」遊び半分でもマスターできるほど極度に易しいこと、②その構造のお陰で、国際交流に役立つ道具として使えるように作られていること、③世界が国際語問題に無関心ではいられなくする方法を見つけること。

 慣れてくると、ザメンホフの作った国際語は機械的だなどという感じは少しもせず、イタリア語のように美しく聞こえてくる。「英語よりも簡単で実用的であり、ドイツ語より正確に意味を伝えることができ、フランス語よりも滑らかだ」などと褒める語学者さえいた。
 『第一書』を出した翌88年、ザメンホフは新しいパンフ『エスペラント博士著・国際語 第二書』を出版する。その中で彼はこう記している。「もしも、どこか有力な学術団体でこの仕事を引き受けようと言ってくれる会があれば、手元にある材料を手渡し、私は喜んで舞台から永久に引き下がり、他の人たち同様に国際語の一人の友となりましょう」。他の国際語発明者たちが特許を取ったり、専有権を主張したり、使用権を請求したりしたのと比べると、何という慎ましさであろうか。
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