2009.02.06
「反戦ゼッケン通勤」を背後から支えた妻
「北爆」から44年、金子静枝さんを悼む
今冬も暮れから新年にかけて多くの友人・知人が亡くなった。かつての勤務先の先輩、同僚、後輩のほか、取材で知り合った人たちの訃報に接するたびに何とも寂しい思いに沈むとともに亡くなった人たち一人ひとりの生涯を偲んだが、この人のことだけは記しておきたいと思う人がいる。「あの日」が近いからだ。「あの日」とは、米軍機による北ベトナム(現ベトナム)への爆撃(北爆)が始まり、ベトナム戦争が一段とエスカレートした1965年の2月7日である。そして、その人の名は、切り絵作家の金子静枝さん。昨年11月29日に死去、79歳だった。
この人のことを書くためには、まず、その夫だった金子徳好さんのことを書かねばなるまい。金子さんは2007年11月、83歳で亡くなったが、その折りに追悼文を本ブログ(2007年12月23日付)に書かせてもらった。
そこでも紹介したが、金子徳好さんは、8年間にわたる「反戦ゼッケン通勤」で知られた。すなわち、ベトナム戦争中、「アメリカはベトナムから手をひけ」と書いたゼッケンを胸につけ、毎日、東京都三鷹市の自宅から港区の勤務先まで通勤した人だった。
当時、徳好さんは日本機関紙協会事務局長。日本機関紙協会とは、労働組合や市民団体による機関紙づくりを指導したり、応援する団体である。徳好さんはそこのリーダーとして活躍していた。自らを「ミニコミ研究家」と称した。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
今冬も暮れから新年にかけて多くの友人・知人が亡くなった。かつての勤務先の先輩、同僚、後輩のほか、取材で知り合った人たちの訃報に接するたびに何とも寂しい思いに沈むとともに亡くなった人たち一人ひとりの生涯を偲んだが、この人のことだけは記しておきたいと思う人がいる。「あの日」が近いからだ。「あの日」とは、米軍機による北ベトナム(現ベトナム)への爆撃(北爆)が始まり、ベトナム戦争が一段とエスカレートした1965年の2月7日である。そして、その人の名は、切り絵作家の金子静枝さん。昨年11月29日に死去、79歳だった。
この人のことを書くためには、まず、その夫だった金子徳好さんのことを書かねばなるまい。金子さんは2007年11月、83歳で亡くなったが、その折りに追悼文を本ブログ(2007年12月23日付)に書かせてもらった。
そこでも紹介したが、金子徳好さんは、8年間にわたる「反戦ゼッケン通勤」で知られた。すなわち、ベトナム戦争中、「アメリカはベトナムから手をひけ」と書いたゼッケンを胸につけ、毎日、東京都三鷹市の自宅から港区の勤務先まで通勤した人だった。
当時、徳好さんは日本機関紙協会事務局長。日本機関紙協会とは、労働組合や市民団体による機関紙づくりを指導したり、応援する団体である。徳好さんはそこのリーダーとして活躍していた。自らを「ミニコミ研究家」と称した。
徳好さんが「反戦ゼッケン通勤」を始めたきっかけは「北爆」だった。米軍機による北ベトナム爆撃は世界に衝撃を与え、各国でベトナム反戦運動が爆発的に高揚する契機となった。日本でも、「北爆」を機にやがて「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)が誕生する。
「北爆」から2カ月後の1965年4月2日、徳好さんは職場の仲間と酒を飲んだ。酒席での話題はもっぱらベトナム戦争だった。
酔うほどに「北爆反対の運動を始めなくては」「北爆反対のゼッケンをつけてデモンストレーションをするというのはどうか」などといった声があがった。仲間の一人が「事務局長の金子さんが先頭を切るべきですよ」と口走ったのを受けて、徳好さんは酔った勢いもあって「ようし、おれはやるぞ」と叫んでしまった。
帰途、電車にゆられて酔いが少しずつさめてくると、大変な約束をしてしまったことに気づき、気が重くなった。妻の静枝はなんて言うだろうか。きっと彼女は反対してくれるだろう。そしたら、それを理由に勘弁してもらおうと、わが家に近づいたころにはやらない時の言い訳まで頭に浮かんできていた。
自宅に着くと、妻は絵を描いていた。「おい、北爆反対のゼッケンをつけようと思うんだが……」と切り出すと、妻は絵筆を走らせながら徳好さんの方を返り見ずに言った。「ゼッケンってなあに。ああ、あれね。あなたにはつくれないわね。ミシンで縫わなくてはだめですものね。あたし、つくってあげるわよ」
徳好さんは一瞬にして酔いがさめてしまった。そして、もう後にはひけないことを知った。その時、徳好さんは、妻がしばらく前から、ベトナム戦争について「アメリカが憎くてしょうがない」としきりに言っていたこと思い出していた。
3日後の4月5日朝、妻がつくってくれたッケンを胸につけて自宅を出た。「じゃあ、がんばってね」。妻はそう言って玄関で徳好さんの背中を軽くたたいた。長男が「お父さん、頑張れ」と叫んだ。通勤途中、じろじろと奇異な目で見られ、なんとも恥ずかしかった。しかし、いまさらやめられなかった。それから、ベトナム停戦後の1973年6月13日に取り外すまで、「ゼッケン通勤」は8年2カ月も続いた。3年目から、首から募金箱をぶら下げ、ベトナムの子どもたちへの支援を呼びかけた。ゼッケンを取り外した時、募金は 139万円を超えていた。
要するに、「反戦ゼッケン通勤」をためらう徳好さんの肩を押したのは、妻の静枝さんだったのだ。そればかりでない。ゼッケンが風雨で汚れ、すり切れるたびにこれを新調したのは静枝さんだった。それは、確か8年間で7~8枚にのぼったはずである。
静枝さんは兵庫県尼崎市で生まれ、東京で育った。武蔵野美術学校卒業後、刺繍のデザイナーをしながら絵を描き始める。東京都渋谷区で大工の棟梁の4人兄弟の末っ子として生まれた徳好さんが若いころ、新宿駅西口でヤキトリ屋をしていた時に静枝さんと知り合い、2人は結婚する。その後、静枝さんは2人の子どもを育てながら徳好さんを支え、同時に三鷹市で切り絵サークル「静和会」を主宰するなど切り絵作家として活躍した。著書に『きりえの想い』『きり絵でつづるある夫婦の戦後史』があり、『きりえ画文集 東京わが町』(新日本医学出版社刊)は徳好さんとの共著だ。2人はピースボートの世界一周・船旅に夫婦で参加している。
私自身は、彼女が政治的問題で発言するの聴いたことがない。もの静かというかいつも穏やかな身のこなしが印象的で、まして人前ででしゃばるなどということはなかった。が、彼女が内に「戦争反対」の強い意思を秘めているなと感じさせられたことがあった。
それは、「週刊朝日」1970年8月21日号に載った彼女の手記である。これは、同誌が公募した「戦争と私親から子へ、子から親へ」と題する手記の入選作だった。 972編が寄せられ、入選は4編。静枝さんの手記がその一つに選ばれた。
手記のタイトルは「お父さんの反戦ゼッケン」。夫徳好さんのゼッケン通勤を主婦の立場から紹介したものだが、そこには、こう書かれていた。
「私にとって戦争とは、爆撃のシュルシュルという焼夷弾の落下する音と、空腹と、兵隊さんの汗と皮のまじったにおいなのです。B29の爆音に追われながら『お母さん! どうしてこんなになるまで戦争をやめさせられなかったの』と恨みました。映画も見られなくて、疎開先の土蔵の中で古い映画雑誌を繰返し読んでいました。戦争のない国に生まれて、思いきり音楽をきき、映画がみられたら幸せだなあと空想しました。お父さんと、子どもから恨まれる親にはなりたくない、平和は、親から子へゆずる一番大きな財産だと話し合ってきました」
1929年生まれの静枝さんは太平洋戦争の経験者だった。だから、平和を希求する気持ちが強かったということだろう。ベトナム戦争の激化という事態に直面して、自らの体験を北爆下のベトナム民衆のそれと重ね合わせていたのかも知れない。それが、ベトナム戦争に立ち向かう夫を支援するという形で結実していったのだろう。
葬儀では、長男の修介さん(映画監督)が遺族を代表して挨拶したが、その中で「母は読書家で、『戦争と平和』『アンナ カレーニナ』『魅せられたる魂』『赤と黒』などをよく読んでいた。読んでいる時は、私たち子どもが話しかけても生返事だったほどでした。平和運動や婦人運動にも熱心で、夫婦仲良く楽しく平和運動をやっていた」「マイペースで生きていた人で、そのせいか何事にも苦労を感じさせなかった」と話した。
正月に、徳好さんと親交があった人(私の友人でもあるが)から年賀状をもらった。そこには「年末にベトナムに行き、徳好さんのゼッケンをみてきました」とあった。徳好さんがつけていたゼッケンがハノイの革命博物館にいまなお陳列されており、それを見てきたというのだ。これを読んで、私は徳好さんと彼を支えた静枝さんに改めて思いをはせたのだった。

金子静枝さんの遺影=08年12月2日に三鷹市で開かれた葬儀会場で写す
「北爆」から2カ月後の1965年4月2日、徳好さんは職場の仲間と酒を飲んだ。酒席での話題はもっぱらベトナム戦争だった。
酔うほどに「北爆反対の運動を始めなくては」「北爆反対のゼッケンをつけてデモンストレーションをするというのはどうか」などといった声があがった。仲間の一人が「事務局長の金子さんが先頭を切るべきですよ」と口走ったのを受けて、徳好さんは酔った勢いもあって「ようし、おれはやるぞ」と叫んでしまった。
帰途、電車にゆられて酔いが少しずつさめてくると、大変な約束をしてしまったことに気づき、気が重くなった。妻の静枝はなんて言うだろうか。きっと彼女は反対してくれるだろう。そしたら、それを理由に勘弁してもらおうと、わが家に近づいたころにはやらない時の言い訳まで頭に浮かんできていた。
自宅に着くと、妻は絵を描いていた。「おい、北爆反対のゼッケンをつけようと思うんだが……」と切り出すと、妻は絵筆を走らせながら徳好さんの方を返り見ずに言った。「ゼッケンってなあに。ああ、あれね。あなたにはつくれないわね。ミシンで縫わなくてはだめですものね。あたし、つくってあげるわよ」
徳好さんは一瞬にして酔いがさめてしまった。そして、もう後にはひけないことを知った。その時、徳好さんは、妻がしばらく前から、ベトナム戦争について「アメリカが憎くてしょうがない」としきりに言っていたこと思い出していた。
3日後の4月5日朝、妻がつくってくれたッケンを胸につけて自宅を出た。「じゃあ、がんばってね」。妻はそう言って玄関で徳好さんの背中を軽くたたいた。長男が「お父さん、頑張れ」と叫んだ。通勤途中、じろじろと奇異な目で見られ、なんとも恥ずかしかった。しかし、いまさらやめられなかった。それから、ベトナム停戦後の1973年6月13日に取り外すまで、「ゼッケン通勤」は8年2カ月も続いた。3年目から、首から募金箱をぶら下げ、ベトナムの子どもたちへの支援を呼びかけた。ゼッケンを取り外した時、募金は 139万円を超えていた。
要するに、「反戦ゼッケン通勤」をためらう徳好さんの肩を押したのは、妻の静枝さんだったのだ。そればかりでない。ゼッケンが風雨で汚れ、すり切れるたびにこれを新調したのは静枝さんだった。それは、確か8年間で7~8枚にのぼったはずである。
静枝さんは兵庫県尼崎市で生まれ、東京で育った。武蔵野美術学校卒業後、刺繍のデザイナーをしながら絵を描き始める。東京都渋谷区で大工の棟梁の4人兄弟の末っ子として生まれた徳好さんが若いころ、新宿駅西口でヤキトリ屋をしていた時に静枝さんと知り合い、2人は結婚する。その後、静枝さんは2人の子どもを育てながら徳好さんを支え、同時に三鷹市で切り絵サークル「静和会」を主宰するなど切り絵作家として活躍した。著書に『きりえの想い』『きり絵でつづるある夫婦の戦後史』があり、『きりえ画文集 東京わが町』(新日本医学出版社刊)は徳好さんとの共著だ。2人はピースボートの世界一周・船旅に夫婦で参加している。
私自身は、彼女が政治的問題で発言するの聴いたことがない。もの静かというかいつも穏やかな身のこなしが印象的で、まして人前ででしゃばるなどということはなかった。が、彼女が内に「戦争反対」の強い意思を秘めているなと感じさせられたことがあった。
それは、「週刊朝日」1970年8月21日号に載った彼女の手記である。これは、同誌が公募した「戦争と私親から子へ、子から親へ」と題する手記の入選作だった。 972編が寄せられ、入選は4編。静枝さんの手記がその一つに選ばれた。
手記のタイトルは「お父さんの反戦ゼッケン」。夫徳好さんのゼッケン通勤を主婦の立場から紹介したものだが、そこには、こう書かれていた。
「私にとって戦争とは、爆撃のシュルシュルという焼夷弾の落下する音と、空腹と、兵隊さんの汗と皮のまじったにおいなのです。B29の爆音に追われながら『お母さん! どうしてこんなになるまで戦争をやめさせられなかったの』と恨みました。映画も見られなくて、疎開先の土蔵の中で古い映画雑誌を繰返し読んでいました。戦争のない国に生まれて、思いきり音楽をきき、映画がみられたら幸せだなあと空想しました。お父さんと、子どもから恨まれる親にはなりたくない、平和は、親から子へゆずる一番大きな財産だと話し合ってきました」
1929年生まれの静枝さんは太平洋戦争の経験者だった。だから、平和を希求する気持ちが強かったということだろう。ベトナム戦争の激化という事態に直面して、自らの体験を北爆下のベトナム民衆のそれと重ね合わせていたのかも知れない。それが、ベトナム戦争に立ち向かう夫を支援するという形で結実していったのだろう。
葬儀では、長男の修介さん(映画監督)が遺族を代表して挨拶したが、その中で「母は読書家で、『戦争と平和』『アンナ カレーニナ』『魅せられたる魂』『赤と黒』などをよく読んでいた。読んでいる時は、私たち子どもが話しかけても生返事だったほどでした。平和運動や婦人運動にも熱心で、夫婦仲良く楽しく平和運動をやっていた」「マイペースで生きていた人で、そのせいか何事にも苦労を感じさせなかった」と話した。
正月に、徳好さんと親交があった人(私の友人でもあるが)から年賀状をもらった。そこには「年末にベトナムに行き、徳好さんのゼッケンをみてきました」とあった。徳好さんがつけていたゼッケンがハノイの革命博物館にいまなお陳列されており、それを見てきたというのだ。これを読んで、私は徳好さんと彼を支えた静枝さんに改めて思いをはせたのだった。

金子静枝さんの遺影=08年12月2日に三鷹市で開かれた葬儀会場で写す
Comment
たまたまこの間、金子さんのベトナムのゼッケンの写真を載せたばかりです。こんなエピソードがあったなんてびっくりです。大変興味深く読ませてもらいました。ありがとうございます。
私の記事で紹介させてもらいました。TBも送りたいと思います。
私の記事で紹介させてもらいました。TBも送りたいと思います。
くま様へ
金子静枝さんへの追悼文がお目にとまり、うれしく存じます。静枝さんは一度、小田実氏らとベトナムを訪れています。2002年のことです。そのことが吉川勇一氏のベトナム訪問記の中で触れられています。http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin31Yoshikawa-Dokushojin.htm
(岩垂弘)
金子静枝さんへの追悼文がお目にとまり、うれしく存じます。静枝さんは一度、小田実氏らとベトナムを訪れています。2002年のことです。そのことが吉川勇一氏のベトナム訪問記の中で触れられています。http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin31Yoshikawa-Dokushojin.htm
(岩垂弘)
岩垂弘 (URL)
2009/02/12 Thu 10:57 [ Edit ]
私は、きり絵を30年していました。東京の金子先生の教室に通ってた曽我さんが、福岡の会に入られて。知り合ったのですが、私は、上野の美術あ館に、何度か行ったのですが、金子先生は、いつ曽我さんの縁で私にお声を、かけてくださり、私は嬉かったです。
其の頃は、銀婚式は、ベトナムに行くと言われておうられました。いい思い出です。
其の頃は、銀婚式は、ベトナムに行くと言われておうられました。いい思い出です。
山下文子様
金子徳好・静枝さんは理想的な夫婦でした。徳好さんは思いついたらすぐ行動を起こす人で、ベトナム反戦で8年間もゼッケン通勤をしたほか、反核平和を願って、炎天下の東京―広島間を歩きました。それをいつも陰で支えていたのが静枝さんでした。
今、徳好さんご存命ならば、「TPP反対・消費増税反対・脱原発・改憲反対」のゼッケンを胸に街頭を歩いているでしょう。もしかすると、静枝さんと手をつないで。(岩垂弘)
金子徳好・静枝さんは理想的な夫婦でした。徳好さんは思いついたらすぐ行動を起こす人で、ベトナム反戦で8年間もゼッケン通勤をしたほか、反核平和を願って、炎天下の東京―広島間を歩きました。それをいつも陰で支えていたのが静枝さんでした。
今、徳好さんご存命ならば、「TPP反対・消費増税反対・脱原発・改憲反対」のゼッケンを胸に街頭を歩いているでしょう。もしかすると、静枝さんと手をつないで。(岩垂弘)
岩垂弘 (URL)
2013/10/07 Mon 10:15 [ Edit ]
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7日に書いた記事で、03年のベトナム旅行の写真を載せた。その中の「金子さんが65年から73年の間、年間通勤時にずっとつけていたという手作りのゼッケン」の写真について、その詳しい記事をたまたま見つけたので紹介したい。ジャーナリストの岩垂 弘さんが書いている「...
再出発日記 2009/02/11 Wed 23:42
母、金子静枝が所属してた日本美術会が主宰している日本アンデパンダン展が六本木の国立新美術館で今月18日より3月30日まで開催される。
母の「遺作」を展示してくれると言うので、先日搬入してきた。
日本アンデパンダン展は一昨年まで上野の東京都美術館でやっていた?...
ジロッカーの世界征服計画 2009/03/16 Mon 16:32
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全国の生協の機関誌担当者の研修会に金子さんを講師としてお呼びしたときは金子さんがゼッケンをつけ始めたころで、受講生の関心はそのゼッケン姿に集中しました。論議も「よく読まれる機関紙の作り方」からベトナム問題、反戦・平和活動についてのやり取りになったと記憶しています。
当時の生協は組織、事業とも小さな規模でしたが、平和の取り組みなどが本格化しつつある時でした。金子さんの一市民としての勇気ある取り組みは、生協など市民組織での取り組みに勇気を与えるものでした。
奥様のことは始めて知りましたが、心からご冥福を祈ります。