2009.02.21
日本語に主語はあるのか
ことば (45) 学校文法と三上文法
日本語に主語があるのか?それともないのか?これについて、学校文法と三上文法とは主張が異なる。ここでいう学校文法とは、私たちが学校で学ぶ文科省お墨付きの国文法をさし、三上文法は、『象は鼻が長い』や『日本語の論理、ハとガ』の著作で有名な三上章(みかみ あきら)の提唱する日本語文法をさす。学校文法は当然のことながら日本で広く普及しているのに対して、三上文法は海外では有名だが国内ではあまり知られていない。恐ろしいことに、主語の有無について両者の見解は水と油のように真っ向から対立する。
「花は美しい。」や「花が咲く。」は文である。
学校文法では、「花は」や「花が」を主語だと教える。(日本語に主語はある)
三上文法では、「花は」を題、「花が」を主格とする。(日本語に主語はない)
私自身、中学生の頃、体言(名詞)に助詞の「は、が、も」がつくと主語になると教わった記憶がある。私も長い間、日本語に主語はあると信じて疑わなかった。ところが三上文法によると、英語などインド・ヨーロッパ語では主語は述語動詞の形を決定する重要な成分で必要不可欠なものだが、日本語には初めから主語などというものは存在していない。助詞の「は」と「が」はまったく性質の異なるものであり、これに「主語」という同じレッテルを貼っているのはおかしいというのである。
松野町夫 (翻訳家)
日本語に主語があるのか?それともないのか?これについて、学校文法と三上文法とは主張が異なる。ここでいう学校文法とは、私たちが学校で学ぶ文科省お墨付きの国文法をさし、三上文法は、『象は鼻が長い』や『日本語の論理、ハとガ』の著作で有名な三上章(みかみ あきら)の提唱する日本語文法をさす。学校文法は当然のことながら日本で広く普及しているのに対して、三上文法は海外では有名だが国内ではあまり知られていない。恐ろしいことに、主語の有無について両者の見解は水と油のように真っ向から対立する。
「花は美しい。」や「花が咲く。」は文である。
学校文法では、「花は」や「花が」を主語だと教える。(日本語に主語はある)
三上文法では、「花は」を題、「花が」を主格とする。(日本語に主語はない)
私自身、中学生の頃、体言(名詞)に助詞の「は、が、も」がつくと主語になると教わった記憶がある。私も長い間、日本語に主語はあると信じて疑わなかった。ところが三上文法によると、英語などインド・ヨーロッパ語では主語は述語動詞の形を決定する重要な成分で必要不可欠なものだが、日本語には初めから主語などというものは存在していない。助詞の「は」と「が」はまったく性質の異なるものであり、これに「主語」という同じレッテルを貼っているのはおかしいというのである。
確かに、「象は、鼻が長い。」という文の主語は何か、と尋ねられたら返答に窮する。学校文法に従えば「象は」も「鼻が」も両方とも「主語」ということになる。しかし、単文に2つの主語があるのは変だ。三上文法によると、「象は、鼻が長い。」という文において、「象は」は題(主題、題目 topic)で、残りの部分「鼻が長い」は解説 (comment) だという。この文の場合、「鼻が」という主格が解説に含まれている。
しかし、日本語では主格(何が、誰が)がなくても文は成立する。たとえば、料理文がそうだ。料理文では「何を」は何度も登場するが、主格「誰が」は出てこない。言う必要がないからだ。
山崎紀美子著 『日本語基礎講座』三上文法入門 ちくま新書の38ページから、料理文の一例を引用する。
「新ゴボウのかき揚げ」(朝日新聞2002年4月18日)
<主な材料>
新ゴボウ2本(200グラム)、桜エビ(素干し)15グラム、牛乳100cc、大根200グラム
<作り方>
ゴボウは汚れを落とし、斜め薄切りにして水にくぐらせ水気を切り、薄口しょうゆ大さじ1をからめます。ボウルに薄力粉100グラム、牛乳、桜エビ、ゴボウを入れまぜます。8等分し170度の揚げ油で、カリッと揚げます。大根おろしとしょうゆを添えます。
作り方の冒頭にある「ゴボウは汚れを落とし」は、言うまでもなく、ゴボウが自分で汚れを落とすわけではありません。ゴボウについて言えば、その汚れを料理人が落とす、という意味です。「ゴボウは」は、主語などではなく、題なのです。ですから、その後に続く「斜め薄切りにして」「水にくぐらせ」もゴボウについて言っているのです。「水気を切り」もゴボウの水気を切り、という意味ですし、「薄口しょうゆ大さじ1をからめます」もゴボウにからめる、ということです。つまり、題は、点(コンマ)を越えるのです。
ここで、もし冒頭を「ゴボウの汚れを落とし」というようにすると、「斜め薄切りにして」や「水にくぐらせる」のが、何を対象としているのかわからなくなってしまいます。
うーん、なるほど。日本語では主格(~が)がなくても文は成立する。ちなみに薄力粉(はくりきこ)とは、アメリカ産ウェスタン・ホワイトなどの軟質小麦を製粉して得られる小麦粉のこと。本書は、三上文法の基本がわかりやすく解説されているので、文法が苦手な人でもわかりやすい。
日本では、中世に歌学者らが作歌のための手段として助詞・助動詞などの用法の研究を行ったのが、文法研究の始まりとされる。近世の国学者らはこれにいっそう科学的な姿勢を加えて、いわゆる係り結びや活用の研究、初歩的な品詞分類にも及んだ。本居宣長(もとおりのりなが)、富士谷成章(ふじたになりあきら)、本居春庭(はるにわ)、鈴木茎(あきら) らにすぐれた業績がある。幕末から明治にかけてオランダ語や英語の文法書に接すると、一時期、これにならった日本語の文法書も次々に現れたが、その後は、いわば旧来の国学者らの文法研究と、欧米における文法や心理学・論理学等の諸研究との双方から、成果を適切に摂取しつつ、日本語の文法研究が進められてきたといってよい。大槻文彦(おおつきふみひこ)、山田孝雄(やまだよしお)、松下大三郎、橋本進吉、時枝誠記(ときえだもとき)、三上章(みかみあきら)(1903‐71) らがそれぞれ特色ある体系的な研究を残している。【以上、平凡社『世界大百科事典』から抜粋】
三上文法の存在にもかかわらず、日本語に主語があるのかないのかについて、現在でも文法学者により主張が異なる。最近の言語学でも日本語に主語があるという。日本語文法はまだ発展途上にあるのだろうか。仮に日本語に主語があるとしても、それは英語の主語とはかなり異質なものであることは門外漢の私でもわかる。
主語は和文英訳では確かに威力を発揮する。英語では主語は必須だから。実務文書の和文英訳で毎日、悪戦苦闘する私にとって、英語などの主語・述語という概念は単純でわかりやすい。すてがたい魅力がある。主語という概念を日本語文法にも何とか流用できないものかと、ひそかに願う気持ちもないわけではない。「主語」が明示されていない和文(文脈依存文)に出くわすと、その都度、前後の文脈から主語を特定しなければならない。「さて、この文の主語は何だろう?」とつぶやきながら探索しているような気がする。無意識のうちに、英文法を通して和文を見る習慣がついているようだ。
国際語として断然優位な地位を築いている英語は、世界各国の言語に影響を与えている。他の言語でも一般に、英語の主語・述語にならってその言語の主語・述語をとらえようとする傾向があるという。しかし、そうした試みは、その言語が英語と同じインド・ヨーロッパ語に属していないかぎり、「労多くして功少なし」という結果に終わるのではないかと私は危惧する。
英語と日本語は、残念ながら、言語構造のかけ離れた言語である。英文法の概念を転用して、日本語文法を再構築することは可能かもしれないが、それはおそらく回り道であり、その成果も日本語の特質をあますところなく明快に解明するところまではいかないのではないか。やはり、日本語文法は、三上章がしたように、日本語から構築する以外に方法はなく、それこそが一番の近道だと私は思う。三上文法がなぜ日本の学会で評価されないのか、不思議でならない。
しかし、日本語では主格(何が、誰が)がなくても文は成立する。たとえば、料理文がそうだ。料理文では「何を」は何度も登場するが、主格「誰が」は出てこない。言う必要がないからだ。
山崎紀美子著 『日本語基礎講座』三上文法入門 ちくま新書の38ページから、料理文の一例を引用する。
「新ゴボウのかき揚げ」(朝日新聞2002年4月18日)
<主な材料>
新ゴボウ2本(200グラム)、桜エビ(素干し)15グラム、牛乳100cc、大根200グラム
<作り方>
ゴボウは汚れを落とし、斜め薄切りにして水にくぐらせ水気を切り、薄口しょうゆ大さじ1をからめます。ボウルに薄力粉100グラム、牛乳、桜エビ、ゴボウを入れまぜます。8等分し170度の揚げ油で、カリッと揚げます。大根おろしとしょうゆを添えます。
作り方の冒頭にある「ゴボウは汚れを落とし」は、言うまでもなく、ゴボウが自分で汚れを落とすわけではありません。ゴボウについて言えば、その汚れを料理人が落とす、という意味です。「ゴボウは」は、主語などではなく、題なのです。ですから、その後に続く「斜め薄切りにして」「水にくぐらせ」もゴボウについて言っているのです。「水気を切り」もゴボウの水気を切り、という意味ですし、「薄口しょうゆ大さじ1をからめます」もゴボウにからめる、ということです。つまり、題は、点(コンマ)を越えるのです。
ここで、もし冒頭を「ゴボウの汚れを落とし」というようにすると、「斜め薄切りにして」や「水にくぐらせる」のが、何を対象としているのかわからなくなってしまいます。
うーん、なるほど。日本語では主格(~が)がなくても文は成立する。ちなみに薄力粉(はくりきこ)とは、アメリカ産ウェスタン・ホワイトなどの軟質小麦を製粉して得られる小麦粉のこと。本書は、三上文法の基本がわかりやすく解説されているので、文法が苦手な人でもわかりやすい。
日本では、中世に歌学者らが作歌のための手段として助詞・助動詞などの用法の研究を行ったのが、文法研究の始まりとされる。近世の国学者らはこれにいっそう科学的な姿勢を加えて、いわゆる係り結びや活用の研究、初歩的な品詞分類にも及んだ。本居宣長(もとおりのりなが)、富士谷成章(ふじたになりあきら)、本居春庭(はるにわ)、鈴木茎(あきら) らにすぐれた業績がある。幕末から明治にかけてオランダ語や英語の文法書に接すると、一時期、これにならった日本語の文法書も次々に現れたが、その後は、いわば旧来の国学者らの文法研究と、欧米における文法や心理学・論理学等の諸研究との双方から、成果を適切に摂取しつつ、日本語の文法研究が進められてきたといってよい。大槻文彦(おおつきふみひこ)、山田孝雄(やまだよしお)、松下大三郎、橋本進吉、時枝誠記(ときえだもとき)、三上章(みかみあきら)(1903‐71) らがそれぞれ特色ある体系的な研究を残している。【以上、平凡社『世界大百科事典』から抜粋】
三上文法の存在にもかかわらず、日本語に主語があるのかないのかについて、現在でも文法学者により主張が異なる。最近の言語学でも日本語に主語があるという。日本語文法はまだ発展途上にあるのだろうか。仮に日本語に主語があるとしても、それは英語の主語とはかなり異質なものであることは門外漢の私でもわかる。
主語は和文英訳では確かに威力を発揮する。英語では主語は必須だから。実務文書の和文英訳で毎日、悪戦苦闘する私にとって、英語などの主語・述語という概念は単純でわかりやすい。すてがたい魅力がある。主語という概念を日本語文法にも何とか流用できないものかと、ひそかに願う気持ちもないわけではない。「主語」が明示されていない和文(文脈依存文)に出くわすと、その都度、前後の文脈から主語を特定しなければならない。「さて、この文の主語は何だろう?」とつぶやきながら探索しているような気がする。無意識のうちに、英文法を通して和文を見る習慣がついているようだ。
国際語として断然優位な地位を築いている英語は、世界各国の言語に影響を与えている。他の言語でも一般に、英語の主語・述語にならってその言語の主語・述語をとらえようとする傾向があるという。しかし、そうした試みは、その言語が英語と同じインド・ヨーロッパ語に属していないかぎり、「労多くして功少なし」という結果に終わるのではないかと私は危惧する。
英語と日本語は、残念ながら、言語構造のかけ離れた言語である。英文法の概念を転用して、日本語文法を再構築することは可能かもしれないが、それはおそらく回り道であり、その成果も日本語の特質をあますところなく明快に解明するところまではいかないのではないか。やはり、日本語文法は、三上章がしたように、日本語から構築する以外に方法はなく、それこそが一番の近道だと私は思う。三上文法がなぜ日本の学会で評価されないのか、不思議でならない。
Comment
コメント、ありがとうございます。
レストランで料理を注文するとき、I’m eel.(ぼくはうなぎだ)とか、I’m a hamburger.(私はハンバーガーだ)などとは英米人は言わず、代わりに I’ll have eel (or a hamburger). と言いますよね。ところが、池上嘉彦著 『日本語と日本語論』 ちくま学芸文庫の35ページに、いわゆる「うなぎ文」について、以下のような興味深い記述がありました。
注文の品を運んで来たウェイトレスが、どちらが何を注文したのか、テーブルのところで少しためらう瞬間があった。その時、グリーンバウム教授の発したことばが “I’m fish” であったのである。実は筆者にとっては、この種の言い方を意識して耳にしたというのはこれが初めてのことであった。しかも、それが事もあろうに現代英語文法の権威とされている人が口にするのを聞けたというのが、ひどく嬉しく感じられた。
そこで、ウェイトレスの去った後、「あなたはいま “I’m fish” といいましたね」と問いかけてみた。その時の反応がまた強く印象に残っているのであるが、何かひどく照れたような表情をして、「いや、いや、あれは “sloppy” な言い方なのだ」というのが返ってきた答えであった。(“sloppy” = だらしない、言うならば、ちゃんとした場面では使わない表現なのだが、という趣旨である。)それだけの事なのであるが、当日は何か大切な宝物を見つけたような幸せな気持ちに一日中浸っていた記憶が残っている。【引用終わり】
へーえ、英米人でも “I’m fish” ということもあるのですね。もっとも、ジャパニーズ・イングリッシュやマレーシア英語など国際英語ではこの種の表現は日常茶飯事で、Manager is in Osaka today. (部長は今日は大阪です)というべきところを、Manager, today, Osaka. とか Mangager is Osaka today. など、無限に出てきます。また特に、それで通じなくて困ったということもありません。(松野)
レストランで料理を注文するとき、I’m eel.(ぼくはうなぎだ)とか、I’m a hamburger.(私はハンバーガーだ)などとは英米人は言わず、代わりに I’ll have eel (or a hamburger). と言いますよね。ところが、池上嘉彦著 『日本語と日本語論』 ちくま学芸文庫の35ページに、いわゆる「うなぎ文」について、以下のような興味深い記述がありました。
注文の品を運んで来たウェイトレスが、どちらが何を注文したのか、テーブルのところで少しためらう瞬間があった。その時、グリーンバウム教授の発したことばが “I’m fish” であったのである。実は筆者にとっては、この種の言い方を意識して耳にしたというのはこれが初めてのことであった。しかも、それが事もあろうに現代英語文法の権威とされている人が口にするのを聞けたというのが、ひどく嬉しく感じられた。
そこで、ウェイトレスの去った後、「あなたはいま “I’m fish” といいましたね」と問いかけてみた。その時の反応がまた強く印象に残っているのであるが、何かひどく照れたような表情をして、「いや、いや、あれは “sloppy” な言い方なのだ」というのが返ってきた答えであった。(“sloppy” = だらしない、言うならば、ちゃんとした場面では使わない表現なのだが、という趣旨である。)それだけの事なのであるが、当日は何か大切な宝物を見つけたような幸せな気持ちに一日中浸っていた記憶が残っている。【引用終わり】
へーえ、英米人でも “I’m fish” ということもあるのですね。もっとも、ジャパニーズ・イングリッシュやマレーシア英語など国際英語ではこの種の表現は日常茶飯事で、Manager is in Osaka today. (部長は今日は大阪です)というべきところを、Manager, today, Osaka. とか Mangager is Osaka today. など、無限に出てきます。また特に、それで通じなくて困ったということもありません。(松野)
はじめまして、
雪国の逐語訳のお話とかも 面白かったです。
僕も、金谷武洋の『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)をきっかけに、三上や現代日本語文法に関心を持ちました。
一見、奇異な主張に思えましたが、こういうことか、と ちょっと整理がつきました。
一般人にとって「主語」とは 動作主や状態主、定義対象、といった「意味上の主語」のことなんですね。
ところが 文法界でいう「主語」とは 目に見える「構文上の主語」のことで、英語では
動詞に変化を起こしたり、代名詞では主格という形があったりと、「意味上の主語」とは別次元で定義できます。なにより基本的に省略不可です。
さて、日本語には英語と同様の「構文上の主語」はむろんない。英語の「構文上の主語」に読み取れる意味である動作主や状態主、定義対象などを、一般人はいわゆる主語と呼んでいるいるわけですね、
日本語に新たに構文上の主語を設定するにせよ、主題(題目)、主格が別のところにあらわれることもあるので、なんだか主語が複数あるようにみえることだってあるし、「省略」したほうがほうが正しい文だってあるわけで、日本文法に主語の設定は不可能、不要であるということになります。
主語がある外国語への翻訳は 題目、主格、あるいは他の情報を 相手のわかりやすいように 主語にすればよく、別に悩むことはなかったわけすね。
日本人同士でも 文脈、状況に依存しない文章が必要な場合には 必要な情報として 動作主などを明確に表現すればいいわけですね。これを「主語をはっきり」 などというもんだから 話が混乱していたわけですね。
そんな風に 理解しております。
雪国の逐語訳のお話とかも 面白かったです。
僕も、金谷武洋の『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)をきっかけに、三上や現代日本語文法に関心を持ちました。
一見、奇異な主張に思えましたが、こういうことか、と ちょっと整理がつきました。
一般人にとって「主語」とは 動作主や状態主、定義対象、といった「意味上の主語」のことなんですね。
ところが 文法界でいう「主語」とは 目に見える「構文上の主語」のことで、英語では
動詞に変化を起こしたり、代名詞では主格という形があったりと、「意味上の主語」とは別次元で定義できます。なにより基本的に省略不可です。
さて、日本語には英語と同様の「構文上の主語」はむろんない。英語の「構文上の主語」に読み取れる意味である動作主や状態主、定義対象などを、一般人はいわゆる主語と呼んでいるいるわけですね、
日本語に新たに構文上の主語を設定するにせよ、主題(題目)、主格が別のところにあらわれることもあるので、なんだか主語が複数あるようにみえることだってあるし、「省略」したほうがほうが正しい文だってあるわけで、日本文法に主語の設定は不可能、不要であるということになります。
主語がある外国語への翻訳は 題目、主格、あるいは他の情報を 相手のわかりやすいように 主語にすればよく、別に悩むことはなかったわけすね。
日本人同士でも 文脈、状況に依存しない文章が必要な場合には 必要な情報として 動作主などを明確に表現すればいいわけですね。これを「主語をはっきり」 などというもんだから 話が混乱していたわけですね。
そんな風に 理解しております。
雨森 (URL)
2009/03/03 Tue 13:41 [ Edit ]
雨森さま:
コメント、ありがとうございます。日本語の「主語」について私もそのように理解しています。
私の翻訳の体験からすると、日本語は抽象的な表現を好み述語が主役。これに対して、英語は具体的・説明的で能動的な表現を好み「初めに主語ありき」。そんな感じがします。(松野)
本多勝一著 『日本語の作文技術』 朝日文庫 145ページから抜粋。
The man gave the boy the money.
これを日本語に訳すとき、これまでの翻訳の常識では「オトナガ子供ニ銭ヲ与エタ」であった。そして、これが問題なのだが、「オトナガ」を「主語」と規定したのである。しかし、これを「子供ニオトナガ銭ヲ与エタ」としても、日本語ではちっともかまわない。あるいは「オトナガ銭ヲ子供ニ与エタ」でもよろしい。要するに--
オトナガ →
子供ニ → 与エタ
銭ヲ →
という関係が日本語なのだ。つまり「オトナ」「子供」「銭」の三者は、「与エタ」という述語に対して平等の関係にある。言いかえれば、この文章は「与エタ」という述語をめぐる三者の関係を示しているのであって、「オトナ」だけとびぬけて重要な「主語」ではありえない。しかしイギリス語では--
The man gave -- the boy
-- the money
という関係だから三者は決して平等ではなく、the man は正に主語であり、それは述語のテンス(時制)をも支配して、たとえば三人称単数現在なら s がつく、といった強力な「主述関係」を作る。
コメント、ありがとうございます。日本語の「主語」について私もそのように理解しています。
私の翻訳の体験からすると、日本語は抽象的な表現を好み述語が主役。これに対して、英語は具体的・説明的で能動的な表現を好み「初めに主語ありき」。そんな感じがします。(松野)
本多勝一著 『日本語の作文技術』 朝日文庫 145ページから抜粋。
The man gave the boy the money.
これを日本語に訳すとき、これまでの翻訳の常識では「オトナガ子供ニ銭ヲ与エタ」であった。そして、これが問題なのだが、「オトナガ」を「主語」と規定したのである。しかし、これを「子供ニオトナガ銭ヲ与エタ」としても、日本語ではちっともかまわない。あるいは「オトナガ銭ヲ子供ニ与エタ」でもよろしい。要するに--
オトナガ →
子供ニ → 与エタ
銭ヲ →
という関係が日本語なのだ。つまり「オトナ」「子供」「銭」の三者は、「与エタ」という述語に対して平等の関係にある。言いかえれば、この文章は「与エタ」という述語をめぐる三者の関係を示しているのであって、「オトナ」だけとびぬけて重要な「主語」ではありえない。しかしイギリス語では--
The man gave -- the boy
-- the money
という関係だから三者は決して平等ではなく、the man は正に主語であり、それは述語のテンス(時制)をも支配して、たとえば三人称単数現在なら s がつく、といった強力な「主述関係」を作る。
松野 (URL)
2009/03/03 Tue 15:42 [ Edit ]
単純な疑問で、見当違いなら申し訳ないんですが、「象は鼻が長い」の主語は「鼻」ではないんですか?
「象は長い」とはいえないけど、「鼻が長い」と述語との対応で見れば明らかな気がするんですが…
「僕はうなぎだ」に関しても、「僕はうなぎ(にするの)だ。」と省略されているだけではないのでしょうか?
「象は長い」とはいえないけど、「鼻が長い」と述語との対応で見れば明らかな気がするんですが…
「僕はうなぎだ」に関しても、「僕はうなぎ(にするの)だ。」と省略されているだけではないのでしょうか?
だい (URL)
2009/04/22 Wed 22:58 [ Edit ]
だい様:
コメント、ありがとうございます。
「象は鼻が長い」を英訳すると、たとえば、 An elephant has a long trunk. ですね。この場合、英文については 第3文型(SVO)で、elephant が主語であるのはまちがいありません。主語という概念はもともと英語から来ています。しかし、日本語には最初から主語などというものは存在しないという説が近年、有力です。三上章もそのひとりです。本多勝一も『日本語の作文技術』のなかで、英語は主語を立てなければ文ができない、It rains. は英語があげている悲鳴なのだという風に表現していました。ちなみに、彼は日本語の主語否定論者です。
本多勝一 『日本語の作文技術』 143ページから引用
そして、日本語にいわゆる「主語」が存在しないことを、最近の言語学の成果をふまえて徹底的に究明し、ほとんど「とどめを刺した」といいうる研究に、湯川恭敏氏の「日本語と『主語』の問題」(同氏『言語学の基本問題』第6章)がある。今なお「主語」というような言葉を愛用している人々は、文法学者であれ中学の先生であれ、湯川氏の論考をすべて反論しつくしてからでなければ、もはや「愛用」できないはずなのだが…。
三上文法によると、「象は、鼻が長い。」という文において、「象は」は題(主題、題目 topic)で、残りの部分「鼻が長い」は解説 (comment) だという。「鼻が」は主格で、この場合、主格が解説に含まれている。この topic-comment という構造は、日本語や朝鮮語(韓国語)、ロシア語など、世界の多くの言語に見られる普遍的なものだという。いわゆる「ウナギ文」もtopic-comment という構造です。
鹿児島小原節(鹿児島民謡)の「花は」や「タバコは」も topic-comment という構造ですよね。
花は霧島 Flowers in Kirishima
たばこは国分 Tabacco in Kokubu
燃えて上がるは オハラハー桜島
コメント、ありがとうございます。
「象は鼻が長い」を英訳すると、たとえば、 An elephant has a long trunk. ですね。この場合、英文については 第3文型(SVO)で、elephant が主語であるのはまちがいありません。主語という概念はもともと英語から来ています。しかし、日本語には最初から主語などというものは存在しないという説が近年、有力です。三上章もそのひとりです。本多勝一も『日本語の作文技術』のなかで、英語は主語を立てなければ文ができない、It rains. は英語があげている悲鳴なのだという風に表現していました。ちなみに、彼は日本語の主語否定論者です。
本多勝一 『日本語の作文技術』 143ページから引用
そして、日本語にいわゆる「主語」が存在しないことを、最近の言語学の成果をふまえて徹底的に究明し、ほとんど「とどめを刺した」といいうる研究に、湯川恭敏氏の「日本語と『主語』の問題」(同氏『言語学の基本問題』第6章)がある。今なお「主語」というような言葉を愛用している人々は、文法学者であれ中学の先生であれ、湯川氏の論考をすべて反論しつくしてからでなければ、もはや「愛用」できないはずなのだが…。
三上文法によると、「象は、鼻が長い。」という文において、「象は」は題(主題、題目 topic)で、残りの部分「鼻が長い」は解説 (comment) だという。「鼻が」は主格で、この場合、主格が解説に含まれている。この topic-comment という構造は、日本語や朝鮮語(韓国語)、ロシア語など、世界の多くの言語に見られる普遍的なものだという。いわゆる「ウナギ文」もtopic-comment という構造です。
鹿児島小原節(鹿児島民謡)の「花は」や「タバコは」も topic-comment という構造ですよね。
花は霧島 Flowers in Kirishima
たばこは国分 Tabacco in Kokubu
燃えて上がるは オハラハー桜島
松野 (URL)
2009/04/23 Thu 13:53 [ Edit ]
私も「だい」さんの意見と同じです。
それぞれの言語にはそれぞれの文法があり、それぞれの文法用語が定義されます。日本語と英語は違う言語であり、日本語の主語が英語のように述語の形を決めていなくても問題はないと思います。英語の使用者は多いかもしれませんが、英語が文法的に世界の言語の上位に立っているわけではないと思います。ラテン語から見れば英語は活用や変化がほとんど消滅した辺境の言語でしかありません。日本語の現象を英語の文法で説明できないからと言って何の問題もないと思います。日本語の主語は日本語に合った定義をすればいいのです。
日本語の主語述語関係は、「主語は、動作・作用・変化・状態・性質などの述語の主体を表し、述語は主語の動作・作用・変化・状態・性質などを表す」で問題ないと思います。
ラテン語に近いルーマニア語では、動詞どころか形容詞も主語に応じて変化するが、日本語と同じように、特別な場合以外には主語を明示しないし、そもそも主語や主格の存在しない無人称表現が多くあるので、述語中心言語といっても過言ではありません。
例えば、「雨が降っている。」は英語で、”It’s raining.” と „it” が必要ですが、ルーマニア語では ”Plouă.” と動詞一語で表現します。非人称文とか無人称文と言われる、主語無し文がよく使われます。(フランス語を除くロマンス語の多くも同様のことがあると言われています。
「象は鼻が長い」では、「長い」という状態を表す形容詞の主体(属性主)は「鼻」なので、主語述語関係は、「鼻が長い」だと思います。「象は」は主題ですが、述語の主語ではありません。
言われているように、「象は」が主題で、「鼻が長い」は解説だというのは間違いではないと思いますが、別の表現も可能です。例えば、「象は」は主題ではあるが、同時に「象においては」という意味で「鼻が長い」の条件を規定していると考えることも可能です。
すなわち、「象は鼻が長い。」=「象においては鼻が長い。」ということだと思います。
それぞれの言語にはそれぞれの文法があり、それぞれの文法用語が定義されます。日本語と英語は違う言語であり、日本語の主語が英語のように述語の形を決めていなくても問題はないと思います。英語の使用者は多いかもしれませんが、英語が文法的に世界の言語の上位に立っているわけではないと思います。ラテン語から見れば英語は活用や変化がほとんど消滅した辺境の言語でしかありません。日本語の現象を英語の文法で説明できないからと言って何の問題もないと思います。日本語の主語は日本語に合った定義をすればいいのです。
日本語の主語述語関係は、「主語は、動作・作用・変化・状態・性質などの述語の主体を表し、述語は主語の動作・作用・変化・状態・性質などを表す」で問題ないと思います。
ラテン語に近いルーマニア語では、動詞どころか形容詞も主語に応じて変化するが、日本語と同じように、特別な場合以外には主語を明示しないし、そもそも主語や主格の存在しない無人称表現が多くあるので、述語中心言語といっても過言ではありません。
例えば、「雨が降っている。」は英語で、”It’s raining.” と „it” が必要ですが、ルーマニア語では ”Plouă.” と動詞一語で表現します。非人称文とか無人称文と言われる、主語無し文がよく使われます。(フランス語を除くロマンス語の多くも同様のことがあると言われています。
「象は鼻が長い」では、「長い」という状態を表す形容詞の主体(属性主)は「鼻」なので、主語述語関係は、「鼻が長い」だと思います。「象は」は主題ですが、述語の主語ではありません。
言われているように、「象は」が主題で、「鼻が長い」は解説だというのは間違いではないと思いますが、別の表現も可能です。例えば、「象は」は主題ではあるが、同時に「象においては」という意味で「鼻が長い」の条件を規定していると考えることも可能です。
すなわち、「象は鼻が長い。」=「象においては鼻が長い。」ということだと思います。
はじめまして。いくつか事実誤認があるようなので、訂正と注釈を加えたいと思います。
学校文法は、必ずしも「私たちが学校で学ぶ文科省お墨付きの国文法」ではありません。「教科用図書検定調査審議会」の検定を受けた国語教科書で説明されている「現代日本語の文法」です。文語文法に関しては江戸末期以来、洗練はされていますが基本的に変わっていません。この文語文法の研究者の多くが「検定教科書で説明されている現代日本語の文法には問題がある」と指摘していて、そうした人々が「いわゆる『学校文法』」と呼び始めたものが定着したのが「学校文法」です。いってみればロマン主義と古典主義の関係になるわけで、非・学校文法を「古典文法」と呼ぶと文語文法と間違える人がいそうなので特に呼び名がないだけです。
三上文法は、むしろ(学校文法の基礎になったと云われる)橋本文法に対する批判だと考えられます。
三上文法が翻訳家や英文学者に好評なのは、その根幹に「文の核にあたるものは述語である」というテーゼであり、「主語はいらない」というのは「述語が決まれば必然的に主語も定まるので、あえて主語を示す必要がない」と断言した点にあります。
そういう意味では、日本語はフランス語やロシア語と同じく「ありふれた言語」です。ラテン語にも近い感じがします。
フランス語で「ムーラン・ルージュ」は「赤い風車」で「モン・ブラン」は「白い山」です。日本語では「鼻が長い」は「長い鼻の」であり、強調による転置が起きていると考えられます。さらに「何かである」に相当する「です」(ロシア語では be 動詞に相当する述語は通常省略されます)が省略されていると考えられます。
すなわち、「象は鼻が長い」=「象は長い鼻の動物です」(あるいは「象は長い鼻を持っています」)でしょうか。
まずは学校文法に対する批判に耳を傾け、教科書の記述について議論する必要があると思います。
学校文法は、必ずしも「私たちが学校で学ぶ文科省お墨付きの国文法」ではありません。「教科用図書検定調査審議会」の検定を受けた国語教科書で説明されている「現代日本語の文法」です。文語文法に関しては江戸末期以来、洗練はされていますが基本的に変わっていません。この文語文法の研究者の多くが「検定教科書で説明されている現代日本語の文法には問題がある」と指摘していて、そうした人々が「いわゆる『学校文法』」と呼び始めたものが定着したのが「学校文法」です。いってみればロマン主義と古典主義の関係になるわけで、非・学校文法を「古典文法」と呼ぶと文語文法と間違える人がいそうなので特に呼び名がないだけです。
三上文法は、むしろ(学校文法の基礎になったと云われる)橋本文法に対する批判だと考えられます。
三上文法が翻訳家や英文学者に好評なのは、その根幹に「文の核にあたるものは述語である」というテーゼであり、「主語はいらない」というのは「述語が決まれば必然的に主語も定まるので、あえて主語を示す必要がない」と断言した点にあります。
そういう意味では、日本語はフランス語やロシア語と同じく「ありふれた言語」です。ラテン語にも近い感じがします。
フランス語で「ムーラン・ルージュ」は「赤い風車」で「モン・ブラン」は「白い山」です。日本語では「鼻が長い」は「長い鼻の」であり、強調による転置が起きていると考えられます。さらに「何かである」に相当する「です」(ロシア語では be 動詞に相当する述語は通常省略されます)が省略されていると考えられます。
すなわち、「象は鼻が長い」=「象は長い鼻の動物です」(あるいは「象は長い鼻を持っています」)でしょうか。
まずは学校文法に対する批判に耳を傾け、教科書の記述について議論する必要があると思います。
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日本語教師という職業柄、どうしても外国語(私の場合は中国語)と対応させて教える方法を考えてしまいますが、そもそも概念体型が違うのだから、やはり完全に一致するわけでもなく、なかなかうまくいきません。
私は認知言語学を通じて言語と概念・身体経験(主に人間の五感)の関係を勉強し、それをどうにかして日本語教育の場に活かせないかと考えております。
母語である日本語を別の角度から見ると「日本語ってこんなに複雑で面倒くさいのか」と感じてしまいますね。
無知な日本語教師ではありますが、今後も参考にさせていただきます!