2009.03.16 神から遣わされた「現代の語り部」
核被害の実相を伝え続けた伊藤明彦さんを悼む

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 人類にとって未曾有の惨禍となった広島・長崎の原爆被害の実相を伝え続けてきた元放送記者が亡くなった。3月3日に肺炎で死去した伊藤明彦さんである。72歳。彼こそ、核被害の実相を私たちに伝えるために神から遣わされた「現代の語り部」ではなかったか。

 伊藤さんは東京で生まれ、長崎市で育った。8人兄姉の末っ子だった。長崎に原爆が投下された1945年8月9日には8歳だったが、田舎に疎開していて直接被爆は免れた。が、8月下旬に長崎に戻ったので、「入市被爆者」である。
 早稲田大学第一文学部を卒業して地元の長崎放送の記者となる。入社8年後の1968年、「広島・長崎・ビキニで核兵器に被災した人たちを訪ねて、その時、見、聞き、体験したこと、その時以来、身の上におこったこと、感じ、考え続けていることを、その人たち自身の言葉と声で語ってもらい、それを録音に収録し、一部を放送する」(伊藤さんの著作から)ラジオ番組『被爆を語る』を企画し、これが認められて番組の初代担当者になる。
 番組のねらいは「最後の被爆者が地上を去る日はいつかはくる。その日のために被爆者の体験を本人自身の肉声で録音に収録して、後代へ伝承する必要があるのではないか。被爆地放送関係者の歴史に対して負うた責務ではないか」(同)と考えたからという。
 6分間、週3回の小さな番組だった。が、6カ月で番組担当を降ろされ、佐世保支局に転勤となる。伊藤さんによれば、労働組合活動がさしさわりであったらしいという。翌70年、同放送を退職した。
 
 退職後の伊藤さんは、自力でこの作業を続けようと決意する。東京に出、民間放送関係者数人に呼びかけて「被爆者の声を記録する会」をつくり、とりあえず東京在住の被爆者を対象に聞き取り録音を始めた。1971年のことだ。
 その後、早朝・深夜の肉体労働に従事しながら、広島、東京、福岡、長崎、東京と転居を繰り返し、この間、青森県から沖縄県までの被爆者を訪ね、それぞれの被爆体験をテープに収録した。結局、21都府県の被爆者約2000人を訪ね、その半分に断られ、1002人の「声」を収録して作業を終えたのは1979年夏だった。すでに8年がたっていた。
 
 その作業は、並大抵のものではなかった。その一端を伊藤さんは自著にこう書き残している。
 「私は福岡市で働きはじめました。新聞広告でみつけた時間給三五〇円の仕事でした。午前六時半から九時半まで働きます。その間に朝食を食べさせてもらえます。九時半から夕方までが、被爆者を訪ねて録音を頼み、すでに頼んである人の録音を収録する時間です。午後七時、職場に帰って午後一一時まで働きます。仕事がすむと、夜食の弁当が支給されます。そのまま職場に泊まりこんで、翌朝の労働をむかえます。最初の一ヵ月は一日も休まず、二ヵ月目から週に一回の休みをもらって、こんな生活を九ヵ月間続けました。博多駅の近くに借りた四畳半の部屋には、休みの日や、録音のない日に帰って、テープの整理をしたり、収録名簿を作ったりしました。この年と翌年は、大晦日の夜から元旦の朝まで働きました」(『未来からの遺言』、青木書店刊、1980年)
 要するに、被爆者を訪ね、話を聞く時間を確保するためにあえて定職には就かず、今でいうフリーター的な肉体労働で生活費や活動資金を稼いだのだった。

 伊藤さんはまた、こう書く。
 「八年の流浪のあいだに、それまでの貯えも、まえの職場の退職金もなくなってしまいました。衣類も着はたしました。八冬を火の気なしにすごしました。東京から福岡へ転居するとき、駅の小荷物係で計ってもらった自分の全財産――わずかの本は姉の家にあずけてありましたが――が、人気力士・高見山の体重よりも軽いことを知って私は苦笑しました。さしあたりの生活において、自分より貧乏な被爆者にあったことが私はありませんでした。さいごには国民健康保険料も納付できなくなって、なん年も手帳なしでくらしました。恥をさらすようですが、四〇歳をすぎて妻なく子なく職なく家なき状態が、作業を終っときの私の姿でした。ただただ、録音テープだけが残りました」(同)
 このくだりを読むたびに、この作業に賭けた伊藤さんの鬼気迫るような執念を感じたものだ。伊藤さんによれば、友人から常軌を逸していると評されたこともあったという。

 ところで、作業はこれで終わったわけではなかった。それから、収録した「被爆者の声」を広く人々に伝達するための作業が始まった。
 まず、代表的な「声」の録音を編集して複製したオープン・リール版「被爆を語る」シリーズ51人分52巻をつくり、全国の13カ所の図書館、平和資料館などへ寄贈した。これには1982年から3年を要した。
 次いで1989年には、カセット・テープ版「被爆を語る」シリーズ14人分14巻を制作し、92年までに全国944カ所の図書館、平和資料館などへ寄贈した。寄贈テープは累計で1万3660巻にのぼった。
 2000年には、原テープと二つの「被爆を語る」シリーズのマザー・テープ合わせて1034巻を国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館準備室へ寄贈した。同館は2003年にオープンし、原テープは年次計画でCD化され、公開されている。
 さらに、2006年には、平和祈念館に寄贈した原テープと長崎放送が収録してきた録音テープから抽出した被爆者の話から被爆の実相を時系列で再現した音声作品「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」(CD9枚組み、8時間40分)を制作して、その複製764組を全国の図書館、平和資料館、平和研究所、平和運動団体、教員ら547団体・個人へ贈呈した。
 作業はさらに続く。伊藤さんは、これらのCDに収録されている被爆者の声の一部を2006年から、『被爆者の声』のタイトルでネットで発信し始めた。インターネツトの利用者が増えてきたことに対応した試みだった。http://www.geocities.jp/s20hibaku/
 「声」は文章化されているから、読むこともできる。
 そのうえ、伊藤さんは、ボランティアの協力を得て文章化された「声」を英訳し、07年8月から、英語版サイトhttp://www.voshn.comをスタートさせた。英語での発信には「世界中の英語を理解する青年、特に核兵器保有国、なかでもアメリカの青年たちに被爆者の声を聴いてほしい」という伊藤さんの切なる願いが込められている。

 それにしても、伊藤さんが訪ね歩き耳を傾けた被爆者たちの「声」はいったいどのようなものであったか。伊藤さんは書く。
 「きのこ雲からあらわれたのは金銭の要求者でも復讐者でもなく、核兵器廃絶、核兵器不再使用、絶対平和の提唱者でした。ひとびとがこのとき一心に祈ったのは人間のうえに、子どもたちのうえに、このような経験をくりかえさせないことだった。合掌したてのひらから祈りだされたものが平和憲法だったとわたしは信じています」(「原子野の『ヨブ記』」、径書房刊、1993年)

 伊藤さんが生涯を賭けて取り組んできた作業の到達点は、まさに前人未踏、空前絶後と言っていいだろう。が、彼の最後の著作となった『夏のことば ヒロシマ・ナガサキ れくいえむ』(自費出版、2007年)は、次のような言葉で結ばれている。
 「古希をむかえました。核地獄に堕ちた人類に助かりをえてほしい。その上で自分にできそうなことはこころみて死にたい一念。正しい仏法による衆生済度を願って、高齢をおして遠くインドへ旅だったり、はるばる日本へやってきたりした、法顕、鑑真、真如のうしろにつき従って死にたい一念です。坦々たる大道をゆうゆうと歩む平穏幸福な人生も人生。達成至難な理想を胸に、老ドンキホーテとなって悪戦苦闘するのもそれなりに人生。後漢光武帝の武将馬援はこんなことばをのこしてくれています。『男児はまさに辺野に死すべきを要す……』」
 どうやら、古希を迎えて自らの人生を「被爆を聴き、伝えようとつとめた作業のために一生を棒に振ったのかもしれない」と顧みた伊藤さんは、自らに鞭打ってなお作業を続けるつもりだったようだ。それは、どんな作業だったのだろうか。私は伊藤さんに伝えたい。「もう、あなたは十分に仕事をした。どうか安らかにお眠りください」と。

 私が核問題や原水爆禁止運動の取材を始めてから40余年になる。この間、広島・長崎の被爆者や、水爆実験によるビキニ被災事件の被ばく者の証言を聴く機会が多々あった。中には、終始臨場感に満ち、核被害の悲惨さ、残酷さ、非人道性をあますところなく伝えてやまない証言をする人がいた。まるで、原爆投下直後の被爆地で被爆の模様を聴くようだった。私はその度に慄然とさせられ、その完璧ともいえる証言に心を揺さぶられた。
 それは、もうテクニカルな話術の優劣といったレベルを超えているように思えた。それゆえ、こう思ったものだ。「これは、亡くなった被爆者たちの霊が、生き残った被爆者の口を借りて耐え難い苦しみや無念さを訴えているのではないか。あるいは、この人たちは、核被害の実相を人間に認識させるために神が人類に遣わした『語り部』なのではないか」と。
 伊藤さんもそうした「語り部」の一人だったのだ。 私にはそう思えてならない。
Comment
感銘深い記事を読ませて頂きました。
私は広島県(福山市)の生まれで、敗戦の昭和20年、小学5年でした。終戦後間もなくして、わが家へケロイド症状の女性が訪ねてきたことを昨日のことのように記憶しています。広島で原爆の惨禍に遭った女性です。どういういきさつでわが家を訪ねてきたのか、その辺りの事情は記憶にありませんが、子ども心に痛く感じることがあったのでしょう。それ以来、「原爆・戦争・平和」というテーマが私の心から離れなくなっていたように思います。

昭和20年末に東京の大学に入った頃、自己紹介で「広島県の出身」というと、決まって「原爆は大丈夫でしたか」と聞かれたものです。しかし今やそういう質問はなくなりましたが、他方ではここへきて核廃絶への動きが世界的に強まってきていることは歓迎すべきことです。
その背景には伊藤さんのような「語り部」としての私心を棄てたひたすらな努力があったればこそ、といえます。最近、権力と接近したがるメディアへの批判が高まっている中で伊藤さんのような存在こそ、ジャーナリストの鑑(かがみ)だろうと思います。
ご冥福を祈りたいと存じます。
安原和雄 (URL) 2009/03/16 Mon 12:17 [ Edit ]
07年7月の著書紹介に引き続き、伊藤さんの活動をご紹介くださりありがとうございます。 
最期の2年余り、伊藤さんは、500人目標で被爆証言ビデオ撮影に取り組まれ、326名以上を数えたところでした。 また、折をみて『「被爆者の声」サイトを訪ね、証言を聞いてください』と記したチラシを、笑顔とともに手渡す、という活動もされていました。 そのチラシをプリントしながら倒れられた様子。

『いとうさん、何でそこまで』『うん、チラシ撒きも、からだにいいんじゃ、ワハハ』と。
http://blogs.yahoo.co.jp/ito8689/7814556.html
被爆者の声 管理人 (URL) 2009/03/17 Tue 09:56 [ Edit ]
安原和雄様
コメント、ありがとうございました。ご指摘のように、最近、権力にすり寄るメディアやジャーナリストが目に付きます。伊藤明彦氏はジャーナリストのあり方を身をもって示したように思います。同氏の業績に目を向けるジャーナリストが増えてほしいと願っています。
被爆者の声 管理人様
伊藤氏が、亡くなる前に何をなさっていたのかよくわかりました。感謝いたします。
(岩垂弘)
岩垂弘 (URL) 2009/03/17 Tue 18:28 [ Edit ]
岩垂氏の文章を読んだ。まさに伊藤氏は神から遣わされた「現代の語り部」であったように思う。私も京王線国領駅から10分ほどのマンションを2回にわたり訪れ、計6時間近くオーラルヒストリーについて議論した。印象に残った話を1,2紹介したい。①遺著『未来からの遺言』は“被爆者”Aさんからの聞き書きであるが、証言全体が虚構(うそ)であったことを述べた本である。私は「ベテランの伊藤さんがなぜ引っかかったのですか」と聞くと、Aの話には「秘密の暴露があったから」と答えた。秘密の暴露とは刑事事件の用語で捜査官が知らない事実を指す。伊藤さんはロッキード事件を例にあげ、田中角栄が「よーっしゃ」といった。これで捜査官は角栄がピーナッツ(金)を受け取ったと判断したという。『未来からの遺言』に出てくる姉さんと弟(A)の描き方には、まさに当事者でなければ語れない「秘密の暴露」があったというのである。だがその嘘を最後に見破ることが出来たのは、「戸籍謄本という文字資料でした」と言った。②私たちは証言、音声、映像の関係についても議論した。いま手元にある伊藤氏からの葉書(スタンプ印平成6年6月13日)によると、「広島でビデオ収録を継続して居ります。身ぶり手ぶり、顔の表情という映像の要素が加わりますが、核心はやはり“オーラル”です」とある。また別の手紙(献本への礼状)には、「放送屋のセンスからいうと「オーラル・ヒストリー」の方が、耳に精神を集中させ、聴く者の自由なイメージを喚起させる、という点でメリットがあります」と書いている。ただ最晩年は映像の持つ迫真性を強調していた。音声、映像について伊藤さんは迷っていたと思います。いずれ伊藤さんに会って、お話を伺いたいと思っていただけに、残念無念。伊藤さん、天国でも思索を続けてください。
中村政則 (URL) 2009/03/18 Wed 15:01 [ Edit ]
中村政則様
尊敬する中村先生にコメントをいただき、恐縮しております。
伊藤明彦氏の悲報を機に、改めて氏の三部作(「未来からの遺言」「原子野の『ヨブ記』」「夏のことば」)を読み返し、氏がこれら著作の中で提起している問題の深さ、重さに改めて感銘いたしました。私たちはこれらの問題提起を真摯に受け止め、議論を深め、行動に移していかねば、と思っております。
岩垂弘 (URL) 2009/03/19 Thu 10:52 [ Edit ]
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2009/08/09 Sun 09:08