2009.07.03 「寧波=博多」の交流の輪は国内、東アジアのどこまで広がるか
〔書評〕東アジア地域間交流研究会編『から船往来―日本を育てたひと・ふね・まち・こころ』(中国書店、¥2890)                
雨宮由希夫 (書評家)


  書名の「から船」を見て、なぜ「唐船」ではないのか、と思ったものだが、韓(から)のくにの人々なしには、我が国の文化交流はありえないのであるから、「から船」は「韓船」でもあるし、また、中国、朝鮮はもちろんのこと東南アジアや南洋諸島にまで足跡が及んでいる「からゆきさん」の悲劇を思えば、「から船」の「から」は日本から船出していった「からゆきさん」の「から」でもあること、これまた自明の理である。
かつて航空機のなかった時代、ヒトやモノの移動を担った船の役割は重要である。「船」という交通手段がなかったら、まさに万里の波濤を越えて、日本列島に大陸文明が伝わることはありえなかった。
「から船」は日本と中国、朝鮮を主とした海域交流、つまりは船舶の往来による文化の交流を表現した造語であると、「編集後記」で静永健(しずなが・たけし。九州大学人文科学研究院准教授・中国文学専攻)は説明しているが、読者は総称としての「から船」に納得する次第である。
 本書は五つの章よりなる。思想、文学、歴史学、さらには社会学や民俗学に関する内容をも含んだ16人の気鋭の学究による論考は多岐にわたり、加えるに十分に刺激的である。
 わずか300ページ足らずの分量ながら、まさに多方面の多様な研究成果が蓄積されている。以下、キー・ワード的な語句・単語を拾い上げてみた。
 漆紙文書、遣隋使・遣唐使、阿弥陀経石、鎮西探題、蒙古襲来、清朝磁器、琉歌、琉球王朝、朝鮮通信使、魏氏明楽、清楽曲「九連環」、中国医学、葬送儀礼、媽祖信仰、唐人町、長崎貿易、薩摩藩の琉球口貿易、シナ通、古代中国人の霊魂観………。
「日本書紀」、「平家物語」、「入唐求法巡礼行記」、「神皇正統記」、「日本永代蔵」、「椿説弓張月」、「大日本史」、「孝経」、「儀礼」、「史記」、「漢書」、「三国志」、「白氏文集」、「金瓶梅」、「今古奇観」、「甲子夜話」、「魯迅全集」………。
 博多、長崎、福原、坊津、鎌倉、平泉、堺、寧波、臨安(杭州)、揚州、上海、厦門、安南、東京(トンキン)、普陀山、五台山、大宰府、胆沢城………。
 白居易、平重盛、源為朝、源頼朝、源実朝、陳和卿、円仁、法然、栄西、陸象山、王陽明、足利尊氏、北畠親房、今川了俊、王直、鄭成功、朱舜水、水戸光圀、荻生徂徠、新井白石、太宰春台、貝原益軒、滝沢馬琴、太田蜀山人、仮名垣魯文、シーボルト、山脇東洋、岡嶋冠山、前野良沢、藤田東湖、坂本龍馬、魯迅、井上紅梅、増田渉、佐藤春夫、柳田國男、宮本常一、原田大六………。
 論考のほとんどはすこぶる専門めき、門外漢たる我々一般読者が咀嚼(そしゃく)することは容易ではないと思われるが、静永健は「編集後記」に書いている。「もとよりどの章のどのページからお読み頂いても結構です。中華料理の『円卓』のように、そのご馳走は多種多様で、しかもお好みに併せて何周でも回転するように構成しました」。
 前菜にしては歯ごたえがありすぎるが、小島毅(東京大学人文社会系研究科准教授。中国思想史専攻)の「巻頭言――関東圏の船、鎌倉と常陸」に箸をつけてみる。歴史上の人物に関わる3艘の船の話が刺戟的で、“想像と創造”の幅が拡がるような心持に誘われる。
  まず、「頼朝が逃亡した船」――。
 石橋山の一戦に敗れた頼朝が、小船に乗って相模湾を横断し、安房国に逃れるが、40日あまり後に大軍を率いて相模にまいもどり、東国に君臨するに至った秘密は何か。
 イチかバチかの頼朝挙兵にあたり、周辺の武蔵・相模には三浦半島を地盤とする三浦義澄(よしずみ)以外にはじめから頼朝を支持する者はなく、三浦氏が敗北した今、三浦氏と姻戚関係にあった安房の上総介(かずさのすけ)広常を頼る以外に方策がなかったことが歴史の真相らしいが、小島が、「頼朝は箱根の山伝いに武蔵方面に出るのではなく、麓の舞鶴(まなづる)岬から一気に阿波に赴く途を選んだ。頼朝は山から平地に下り来る山賊・鬼としてではなく、『輝く海の彼方からの来訪者』として房総に現れた、それゆえ、『マレビト』として歓待され、坂東(ばんどう)武士達の支持を得て、鎌倉殿として武家政権を開くことができたのである」としていることは無碍(むげ)にはできない。〔当該の文中、「舅の北条時宗」は「舅の北条時政」の誤記〕
「実朝が造らせた船」も面白い――。
 わが国最初の茶所「喫茶養生記」を撰し、実朝に茶を勧めている栄西と、中国・宋の工人で実朝の依頼で唐船を建造している陳和卿は、東大寺の再建に尽力した重源を介して面識があったと推定する作者は、「栄西と陳和卿がほぼ同時期に実朝に近づいているのは、単なる偶然かもしれないが、実朝が渡宋したいと考えた理由の一つに、栄西が語って聞かせた留学譚を想定することができるかもしれない。入宋二度の僧侶と、宋からの渡来した技術者とが、実朝の『唐土』への想いを掻き立てたと想定することは、小説家にのみ許されることなのだろうか」と書いている。
 三つ目は「親房が漂着した船」――。
 南北朝の時代。北畠親房(ちかふさ)は後醍醐天皇の命を受け、北方での勢力挽回を図ることを目的として船で伊勢より陸奥に向かうが、遠州灘で暴風雨にあい船団は壊滅し、親房のみが常陸国(ひたちのくに)に漂着する。後醍醐天皇の死去の悲報を聞いた親房が常陸国で綴ったものが「神皇正統記」であるが、日本思想史を専門とする作者は、「もし、この船団が順調に奥州に到着していたら、日本思想史上に燦然と輝くこの傑作は生まれることが無かったかもしれない」とし、「この歴史哲学書が後世に与えた影響によって、日本は中国中心の世界認識と決別していく」と断じ、親房より300年後、常陸国を領地とした水戸藩の二代藩主・徳川光圀が編纂した「大日本史」は、親房の思想である南朝正統史観を受け継いだものであり、水戸藩における「大日本史」の編纂事業を中心として形成された学風が水戸学であり、特に後期水戸学が幕末の尊王攘夷運動の理論的支柱、明治維新の思想的原動力となり、さらには皇国史観の基礎となったことを、ついには、昭和初期、「かつて遣唐使や遣明船が通った海域には、皇軍兵士を大陸に送り込むための輸送船が往来していた」こと等の日本近現代史の事実を短い文章の中に活写している。
 東アジア地域間交流研究会編(代表:静永健)の本書は、文部科学省の特定領域研究(平成17年~21年度、代表:小島毅)「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成―寧波を焦点とする学際的創生―」の一環として企画、編集されたものである。
 静永健の「編集後記」によると、本書の企画の一つは、文化の交流を「地域(港)」単位で考えるということで、「寧波=博多」の交流の輪はやがて長崎、鹿児島、沖縄などにも発展し、日本各地の港を経由して、最後は東北、北海道にまでつなげたいというのが、本書立案時の最終的な狙いであったという。また、研究者たちは、文化交流の事績を朝鮮半島や東南アジア、そしてモンゴルなど東北アジアの地域まで拡大していきたいと意欲的である。
 今年は幕末に開港した横浜や箱館などが開港150年を迎える節目の年である。それらの港はもちろん、上海や香港、基隆、釜山など日本の近代と深いつながりのある外国の港をも対象としての「続編」、「続々編」、シリーズ化を期待したい。


Comment
管理人にだけ表示を許可する
 
TrackBack