2009.07.04 100年に及ぶ東北農民の闘いを描く
入会権を巡る「小繋事件」のドキュメンタリー映画が完成

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 岩手県北部の二戸郡一戸町小繋(こつなぎ)で約100年にわたって続けられてきた農民たちの闘いを記録した映画『こつなぎ――山と人を巡る百年の物語』が半世紀がかりで完成し、7月6日(月)午後1時から、東京・京橋の映画美学校第一試写室で試写会が開かれる。三代にわたる小繋の農民たちの闘いを紹介するドキュメンタリー映画は初めてで、年内には、都内の映画館で一般公開される予定だ。

 小繋は、盛岡市から北へ50キロ、青森県境に近い山村に展開する集落である。現在、43世帯、人口100人。ほとんどが農家だ。
 その集落を抱くようにして山がある。小繋山だ。集落の農民は江戸時代からこの山に自由に立ち入り、薪炭材や木の実、山菜などを採取してきた。つまり、ここは、農民たちにとって生活のためになくてはならない入会地(いりあいち)だったのだ。入会地とは、入会権(一定地域の住民が、一定の山林原野を共同で利用する慣習上の権利)が設定されている地域のことである。

 大正4年(1915年)、集落に火事が発生、ほとんど全戸が焼失する大惨事となった。そこで、農民たちは集落を再建するため小繋山に入り、木を伐採。これに対し、小繋山を所有する地主(茨城県在住)は住民の山への立ち入りを禁止し、時には力ずくで山への出入りを阻止した。その一方で、地主側につく住民には入山許可を与えた。このため、集落は地主賛成派と地主反対派に分かれた。
 大正6年(1917年)、反対派は「山に入れなければ生きてゆけない」と「入会権確認・妨害排除」を求める民事訴訟を起こす。いわゆる「小繋事件」の始まりであった。担当弁護士は、戦前、「人権派弁護士」といわれた布施辰治。
 が、昭和7年(1932年)、盛岡地裁は反対派の訴えを棄却。 反対派は宮城控訴院へ控訴するが、昭和11年(1936年)、控訴棄却となる。

 昭和19年(1944年)、地主が山林を利用して炭作り事業を開始。反対派は「炭焼きが本格化すれば住民の生活基盤が失われる」として、昭和21年(1946年)、再び「入会権確認・妨害排除」を求める民事訴訟を起こす。第二次小繋訴訟であったが、これも、昭和26年(1951年)、盛岡地裁で棄却となる。反対派は直ちに仙台高裁に控訴するが、昭和28年(1953年)、調停が成立する。「地主は住民に対して山林の一部と現金を贈与する。住民側は入会権など一切主張しない」という内容だった。これをもって、第二次小繋訴訟は幕を閉じる。
しかし、この調停は一部の者たちによって結ばれたものだった。反対派は調停無効の申し立てをし、一方、賛成派は調停を受け入れ、贈与される土地を1人ずつ分けた方がよいとして、反対派に対し「共有物分割請求訴訟」を起こす。調停は、両派の溝を一層深くした。

 両派の対立が深まる中、昭和30年(1955年)、反対派が出した調停無効の申し立ては退けられる。そして、その年の10月、150人以上の岩手県警警官隊が集落を急襲し、反対派住民11人を、無断で小繋山の木を伐採したとして森林法違反容疑で逮捕した。うち9人が起訴された。「小繋事件」は刑事事件に発展したのだった。
 これに対し、盛岡地裁は昭和34年(1959年)、「集落に入会権は存在する。調停は無効」として森林法違反事件については無罪を言い渡す。が、仙台高裁は一審の判決を覆して逆転有罪判決。さらに、最高裁は昭和41年(1966年)10月、被告側の上告を棄却し、ここに被告たちの有罪が確定した。「最高裁で負けたからといって住民が小繋山に入会うことをやめることはできない。入会いをやめるのは、農民として生きる権利を放棄することに等しい」。判決を聞いた被告の1人、山本清三郎さんはそう語ったと伝えられている。
 農民たちは敗北した。が、東大名誉教授だった渡辺洋三氏は「小繋事件は、日本の林野入会権闘争の歴史に名を残す典型的事例である」と位置づけている(『北方の農民』復刻版)。

 この小繋事件に関心をもったジャーナリストがいた。ドキュメンタリーカメラマンの菊地周さん、写真家の川島浩さん、ドキュメンタリー作家の篠崎五六さん(3人ともすでに故人)である。3人は、いずれも1960年代から足繁く小繋を訪れ、農民たちの闘いや生活を記録した。それらは膨大な量にのぼる。
そのうちの1人、菊地さんはドキュメンタリー映画「小繋事件」(仮題)の制作を思い立ち、1960年から現地での撮影を続けてきた。しかし、2002年に病没、映画づくりは未完のまま中断した。
 その直後、夫人の菊地文代さんは「なんとしても映画を完成させたい」と、フリーのディレクター、中村一夫さんに支援を要請、これに応じた中村さんの監督で『こつなぎ――山と人を巡る百年の物語』がついに完成した。

 中村さんは、菊地さんが撮り貯めていたフィルム、川島さんが残した写真、篠崎さんが録音していたテープなどを活かし、さらに自らもカメラマンの前島典彦さんらとともにたびたび小繋を訪れて新たに撮影した場面を加え、小繋の農民たちの闘いの歴史を2時間の作品にまとめた。制作は株式会社周。
 中村さんが語る。「小繋集落が何故、入会事件に巻き込まれ、国家の堅牢な壁に阻まれてもなお闘い続けたのか、山に生きる人々を肌に感じなければ到底理解することはできません。3人のジャーナリストが残した記録を丹念に辿ることで、当時の住民との交流が始まったのです。それんら7年、ようやく完成することができました。私は今後も小繋に関わっていかねばという思いを強くしています」

 映画には、小繋の農民たちの訴訟を支援するために東京都立大学教授のポストを投げ打って弁護士となった戒能通孝氏(故人)や、戒能氏が早稲田大学教授時代の教え子で同大学大学院生だった藤本正利氏(故人)も登場する。藤本氏は小繋の集落に住み込み、農民を支援中に、農民とともに逮捕され、最高裁まで続く裁判の被告となった。
 戒能氏は最高裁判決前の1964年に『小繋事件』(岩波新書)を刊行したが、そのはしがきの中で、こう書いている。
 「小繋の農民はいわねばならないことを主張して、権利主張を行なった。その結果学んだのは、自分の権利、自分の基本権をまもるのは、自分自身であるという単純ではあるが苦難にみちた原則である」

 映画美学校第一試写室は、東京メトロ銀座線京橋駅下車3番出口すぐ。電話03-5205-3565
 問い合わせ先 菊地文代さん(電話・FAX 03-3426-8334)
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